第7話
「プールで死んだ?
週が明けた月曜日、一限目の授業が終わって話しかけるなり素っ頓狂な声を上げた
壮悟は席に座ったままの敏毅の横で膝をつき、机に乗せた腕の上に顎を重ねてため息をこぼす。
「お前あれやろ、内緒話とか苦手なタイプやろ。声デカすぎるわ」
「そんなことないだろー。ていうか驚かせてきたのはアキじゃん」
敏毅はわざとらしく唇を尖らせて、ぶうぶうと文句を垂れてくる。「俺のせいにすんな」と敏毅の手の甲を軽く指先で弾いてから、壮悟は声を潜めた。
「ほんまは金曜日の帰りに話すつもりやったんやぞ。やのにお前がさっさと帰ってまうから」
「それはごめんって」壮悟の不満に、敏毅は机の中から次の授業に必要なものを取り出しつつ素直に謝ってきた。「春祭り終わってからずっと絵筆探してたのに、収穫ゼロってのはさすがにキツくてさー」
あの日は早く帰ってご飯食べて風呂入って寝たかったんだよ、と敏毅は愛用のシャーペンに芯を補充して肩を落とす。美術室を出てから最寄り駅の近くで別れるまでのあいだ、明らかに普段より口数が少なかったのは体力的な疲労ばかりが原因ではなかったようである。
土日を挟んで気力もしっかり回復したのか、敏毅は心配半分、好奇心半分の光を瞳に灯して「で、どういうこと?」と声を潜めて訊ねてくる。
「プールって駐輪場の横の? あそこで死んだってこと? なんで?」
「俺も詳しいことはまだ知らへん」
壮悟は首を緩く横に振り、廊下と教室を区切る壁に目を向けた。壁には風通しを良くするための窓が設けられており、六月に入ってからは常に開け放たれている。廊下を行きかう生徒たち頭越しには第二棟が見えた。一年生の教室は第一棟の四階にあるため、ここからでは英梨が普段いるという美術室は窺えない。
彼女がある程度自由に動けるのは主に第二棟だそうで、第一棟には行こうとしても見えない壁に阻まれるがごとく、昇降口から先へは来られないらしい。体育館方面も同様で、プールには行けるもののそちらはなるべく避けたいという。
――そりゃまあ、自分が死んだ場所見たいとは思わへんよな。
英梨から彼女自身の死に場所を聞いた際、壮悟は驚きに言葉を失くしてしまった。「おう」とも「へえ」ともつかない曖昧な返事をしたのと、英梨の悲しそうな笑顔は覚えている。
「『なんで死んだん?』とか聞いてええんか分からへんやん? 本人にとったら嫌な思い出かもしれへんしさ。例えば――いじめが原因、とか」
壮悟と同じように、敏毅も北高のプールにまつわる七不思議を連想したのだろう。表情がさっと曇り、眼鏡を外すなり両手で顔を覆って俯く。
「いじめを苦に自殺だなんだって、七不思議に信憑性を持たせるためのスパイス的なものだと思ってたのに、そうかー、マジだったのか」
「まだ分からへんぞ、今のはただの俺の予想や」
七不思議の調査をどこか面白がっていた部分があったのだろう。本気で反省する敏毅の肩を、壮悟は励ましを込めて何度か叩いた。
「本当のとこがどうなんかは英梨ちゃんに聞いてみやな分からへん。そんな落ちこむな」
「そうだけどさー。アキは聞くつもりなの。英梨ちゃんに、なんで死んだのか」
うーん、と唇をへの字に曲げつつ壮悟は頭をかいた。
死に場所を聞いてからの二日間、ずっと考えてはいたのだ。
――英梨ちゃんは自分がなんで死んでもたんかを、話したがっとんのか、どうか。
幽霊になった理由は後悔や未練だと匂わせた上で、死に場所まで明らかにしている。壮悟たちと話すようになった期間は短くても、ずっと敏毅を窺っていたのなら彼がどんな情報に興味を惹かれるのかある程度は分かるはずだ。
「死んだ場所知ったんはそもそも俺が『いつからここに居るん』て聞いたんがきっかけやけど、話したぁないんやったら『考えたことないから忘れた』で話ぶった切ったら済んどったと思うねん」
けれどそうではなかった。英梨はそこで終わらせず、詳細を伏せたまま気になるワードだけを壮悟に与えた。
「ってことは多分、『気になるんだったら聞いてもいいよ』ってことなんちゃうかな。まあ俺が都合のええように捉えとるだけかも知れへんけど。敏毅はどう思う」
「英梨ちゃんがどういうニュアンスで言ったかにもよるよ。吹っ切れてる感じだったのか、言いにくそうだったのか」
「吹っ切れとるか言いにくそうかで言うんやったら、吹っ切れとる寄りやったような……」
英梨の言葉を脳内でくり返し再生しているうちに、二限目の授業のチャイムが鳴ってしまう。壮悟は「放課後までに考えとくわ」と敏毅に告げてから自分の席に戻った。
つつがなく一日の授業を終えて、壮悟と敏毅は第二棟に向かう。部活の前に英梨と接触してそれとなく真意を訊ねられれば良かったのだが、部活が始まるまでに話を聞くのでは駆け足になりそうな気がして、いつも通り部活終わりに合流することになった。
吹奏楽部は案の定、終了時間が延び、壮悟がようやく敏毅と英梨がいる美術部へ出向いた頃には、時刻は十八時半になっていた。
敏毅は相変わらず〝まじないの絵筆〟を求めて、「このエリアを探す」と決めた一角を重点的に探していたらしい。今日は美術室の後方にある棚の左半分を徹底的に漁っていたようで、手近な机に備品を積み上げては一つ一つ吟味し、元通りに戻していく。英梨はそんな敏毅に、聞こえないと分かりながらも声援を送っていた。
「お疲れさま、壮悟くん」英梨は壮悟と目を合わせるなり、ふわりと目元を和らげて手を振ってきた。「吹奏楽部は合奏してたの? 綺麗な音、上から聴こえてきてたよ。壮悟くんの音がどれかは分かんなかったけど。ごめんね」
英梨に申し訳なさそうに手を合わされて、壮悟は「気にせんでええよ」と笑ってみせる。気を害したわけではないと分かってか、英梨はほっとしたように胸を押さえていた。
「今度、音楽室に覗きに行ってみようかな。壮悟くんが演奏してる姿見てみたいもん」
「別に構わへんけど、練習中の俺なんて見とってもあんまおもろないと思うで。先輩にめっちゃ絞られとるし」
壮悟は適当な椅子に腰を下ろしながら苦笑した。〝美術室の椅子〟と生徒たちが呼ぶ背もたれのない木製の四角い椅子は、長年使われたことで擦り切れつつあるのだろう。体重をかけると前後にがったがったと揺れた。
「今日も『ピッチが違う』とか『ブレスのタイミングがおかしい』とか、なんかもう適当に理由つけて怒鳴っとんちゃうかみたいな説教もあってなあ」
「なにそれ」愕然と呟いた英梨は思いきり顰め面をしている。「そんなのただのいじめじゃないの。先生たちに言ったほうが良いよ」
「別に、いじめってほどちゃうというか。他の部員とかは俺が理不尽に怒られとるの分かっとるで慰めたりとか、それとなく先輩に注意したりしてくれとるし。三年生もコンクールの後に引退やで、それまでの辛抱やなって友だちとも話しとった」
「……我慢できるなんて、壮悟くんはすごいね」
誉め言葉を述べてから、英梨は切なそうに続けた。
「私は耐えるのが苦しくて、逃げちゃったから」
「それは――」
――プールで死んだことに関係しとるんか。
結局、壮悟は部活中に英梨に問うかどうかの答えを出せなかった。練習に手いっぱいでそれどころではなかったのもあるが、死んだ理由を聞くのはデリカシーにかける気もしていたからだ。
いくら本人が話したがっている――かも知れない――とはいえ、こちらから突っ込むのは、野次馬精神が滲んでいるようにも思える。けっして面白がっているわけではないとしても、だ。
ゆえに壮悟は、待つことを選んだ。
――言いたくなったら、英梨ちゃんのタイミングで言うてくるやろ。
果たしてその時は、間もなく訪れた。
「この前ちょっとだけ話したよね。なんで私が幽霊になっちゃったのか」
どきり、と一瞬だけ心臓が強く跳ねる。
話し始める前に英梨がため息をついたのが聞こえたのだ。どれだけ匂わせても一向に聞いてこない壮悟に焦れたのだろうか。恐る恐る表情を窺ったが、淡い微笑みをたたえる英梨の感情は分からない。ひとまず怒ってはいなさそうだ。
ため息は聞き間違いだったかも知れない。壮悟は英梨から目を背けつつ、手を振ることで続きを促した。
「高校二年生の秋くらいからかな。私、みんなからいじめられてたんだ」
壮悟の前にある机の上にひょいと座って、英梨は白い歯を見せて笑う。明るくはない、痛ましい笑みだった。
「いじめはずーっと続いてね。誰も味方してくれなくて、辛くて苦しくて耐えきれなくて、もう全部最悪って思ったんだ。それで三年生の夏に、水泳の授業中にプールで死んじゃった」
「……三年生の夏?」
首を傾げた壮悟に、英梨はきょとんと目を瞬いていた。
「そうだよ。なにか変?」
「いや、俺と初めて話した時に『同じ一年生』って言うてへんだっけなと思て」
そのことね、と英梨はハーフツインテールを手で支え、ふわふわと何度も持ち上げる。
「この髪型ね、一年生の時によくしてたやつなの。死んだのは三年生の時なのになんでこの姿なんだろうって考えたことあるんだけど、多分、高校一年生の時が一番楽しくて、それが記憶に残ってたからじゃないかなって。だから、この姿の私は壮悟くんたちと同じ一年生で間違いないんだよ」
「どんな理屈やねん」
「なになに、ひょっとして英梨ちゃんがなにか話してる感じ?」
敏毅が壮悟の肩に後ろからのしかかってくる。ふと美術室の後方に目を向けると、机の上に積み上がっていた備品は一つ残らず棚の中に戻されていた。
壮悟が今しがた聞いたばかりの話をそっくりそのまま伝えてやると、敏毅の顔のパーツが鼻を中心にきゅっと寄る。英梨をいじめた者に対する怒りと、彼女が死を選んだことにへの哀れみ、好奇心を満たすべくプールの七不思議を嬉々として調べようとしていた自分への忸怩たる思いが全て一緒くたになったような、複雑な表情だった。
「体が水の中に沈んでいって、ああ私このまま死ぬんだなって思った。でも気がついたら、いつの間にかプールサイドに立っててびっくりしたの」
当時のことを語る英梨の口調には淀みがない。一方、壮悟は彼女の言葉をそっくりそのまま復唱するよう努めたものの、どうしても声が震えてしまった。
「ひょっとして助かった……助かっちゃったのかなって、近くにいた生徒に声をかけようとしたんだ。でも、どんなに声を張り上げても無視されて、まだいじめられてるのかなって悲しくなってたら、私の体を誰かが通り抜けていったの」
その直後に英梨が目にしたのは、プールサイドに引き上げられて横たわる自分の姿と、その周囲を取り囲む生徒や教師たちだった。救急車が到着するまで心臓マッサージを施されたりもしていたが、息を吹き返すことはついぞなかった。
英梨は息絶えた自分の体を見下ろして、ようやく自覚したという。
「ああ、私、幽霊になっちゃったんだなって」
肩の上に乗るハーフツインテールを力なく握って、英梨が目を閉じる。
ぐす、と壮悟の横から洟をすする音が聞こえてくる。いつの間にか敏毅が顔を俯け、眼鏡が濡れるのも構わずに涙をこぼしていた。敏毅が自分のために泣いてくれていると理解したようで、触れられないと分かっていても手を差し出さずにはいられなかったらしい。英梨は「ありがとう」と礼を言いながら、敏毅の頭を優しく撫でていた。
その瞬間、どこからかほのかに甘酸っぱい香りを感じて、壮悟は目をすがめた。
――なんや、この匂い。さっきまでせえへんかったと思うんやけど。
嗅いだことのない香りではないが、頻繁に嗅ぐものでもない。脳裏に過ぎったのは昼休みの光景だ。今日の弁当は白米の上に梅干しが乗せられた定番の〝日の丸弁当〟だったのだが。
――なんかこの匂い、昼飯に食べた梅干しに似とるような。
「けどさ、幽霊ってなにか思い残したことがある人がなるのが僕のイメージなんだけど」
壮悟の思考は敏毅の言葉によって遮られる。
はっと我に返ると同時に、香りは空気に溶けるように消えていた。
「ってことは、英梨ちゃんもなにかやりたいこととか、やってみたいことがある状態で死んじゃったんじゃないの?」
「すごいね敏毅くん。大正解だよ」
褒められとるぞ、良かったな、と言葉にする代わりに、壮悟は敏毅を肘で小突く。「それほどでもー」とわざとらしく照れる仕草が鼻について、最後に一発だけ強めの肘鉄をお見舞いしてやった。
「生きてた時は私も美術部に所属してたの。部員の子たちにもいじめられてたから辛かったんだけど、どうしても完成させたい絵があったから辞めずに頑張ってたんだ。……だけど、仕上げる前にいじめがどんどんひどくなっていって、それで……」
目標を達成するよりも、現状から逃げる方を――命を絶つ方を選んだ。
しかし本心ではやはり諦められていなかった。だから英梨は幽霊としてこの世に留まっている。
「そんなにその絵ェ完成させたかったん」
壮悟の問いに、英梨はこっくりうなずく。
「私の理想を詰め込んだ、最高の一枚になる予定だったの。今までで一番力を込めて描いてた。だからきっと、絵を完成させることが出来れば、私は成仏するんだと思う」
「英梨ちゃんが描いてたっていう絵、まだ美術室に残ってんのかな?」
「ううん、私が使ってたものはほとんど遺品として家族が引き取ったよ。絵もその中に入ってた。仮に美術室に運よく残ってたとしても、今の私じゃ筆もなにも持てないからどのみち完成はさせられないや」
ふうむ、と敏毅が顎を撫でながら唸る。
かと思えば、急に拳を突き上げながら「よし!」と声を張り上げる。耳をふさぐのが遅れて、壮悟の耳の奥にキインと不快な音が残る。
「英梨ちゃんが迷惑じゃなければだけど、その絵、英梨ちゃんの指示を受けながら僕が描いてみるってのはどう?」
敏毅は再び壮悟の肩にのしかかり、英梨がいるであろう方向に提案する。壮悟から敏毅の表情は窺えないが、活き活きとした声音は七不思議を調査するそれと遜色ない。
英梨はなにを言われたのか理解するのに時間がかかったようで、えっ、と驚きを返すまで一分近くかかっていた。
「い、いいの? 本当に?」
英梨の声には期待と不安が混ざり合っている。壮悟は敏毅を強引に押しのけ、「英梨ちゃんびっくりしとんぞ」と教えてから、無理な体勢のせいで傷んだ首をぐるりと回した。
「志半ばで達成出来ないままっていうのは苦しいだろ。目指してることをやり遂げたいっていう気持ち、僕はよく分かるしさ。だから英梨ちゃんが描きたかった絵、僕がしっかり完成させたい」
「けどお前、どうやって英梨ちゃんの指示聞くねん」目の奥で炎を滾らせる敏毅に、壮悟は至極まっとうな意見をぶつけた。「ただでさえ今も俺が英梨ちゃんの言葉伝えたっとるんやぞ。言うとくけど、俺も部活で忙しいし、お前にずっと付き合うん難しいで」
「分かってるって。だからこそ、コレだろ」
す、と壮悟の頭上から白いなにかが視界に入り込む。
箱だ。二十センチほどと細長く、蓋の表面には「筆」と豪快かつ達筆な一文字が躍っている。簡単に開けられないようにか、黒い紐が上下左右に何重にも巻かれていた。
まさか――
「多分これ、〝まじないの絵筆〟じゃね?」
箱と横並びになるように、満面の笑みを浮かべた敏毅の顔も視界に加わる。
敏毅が箱をゆらゆらと振るのに合わせて、かたん、と中で軽い音が鳴った。
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