第八章 届いた手紙
夜明け前の空が、かすかに朱を帯びていた。夏の名残を含んだ風が窓の隙間から吹き込む。梢は浅く息をして、痛みに耐えていた。額には細かな汗。布団を握る指先が白くなっている。
ふたりは互いの目を見つめた。何かを確認するように。ついに、そのときが来たのだ。数ヶ月前、ふたりで小さな靴下を選んだ日から、ずっと想像していた「はじまり」の朝。
急いで病院に電話をし、簡単な荷物を持って玄関へ向かう。靴を履こうとしたとき、梢がふと立ち止まる。腹部をかばうようにしながら、壁に手をついた。
「痛み、強くなってる?」 「……ちょっとだけ。まだ歩ける、大丈夫」 無理して笑う梢に、悠馬は黙って寄り添い、彼女の手を取った。細くなった指先の温度が、心に突き刺さる。
「俺がいる。どこにも行かない」
その言葉に、梢は目を伏せ、小さく頷いた。たった数歩の距離が、こんなにも遠く感じる朝があるなんて。
病院に着くまでの道のり、車の窓から見えた街は、いつもよりも静かだった。コンビニの明かりだけがやけに眩しい。シートベルト越しに、梢は何度も深く息を吐いた。
「こわい、かも……」 「うん。こわいよな。でも、俺も一緒にいる。絶対に離れない」 悠馬の声が少しだけ震えていた。自分が思っていた以上に、怖いのは自分だったのかもしれない。けれど、彼女の手を握っている限り、守りたいものが確かにここにあると思えた。
陣痛室に案内されてからの時間は、歪んで、凍りついたように進んでいった。 梢の顔は汗で濡れ、眉を寄せながらも懸命に痛みに耐えている。悠馬は、彼女の手を握ることしかできなかった。
「大丈夫……そばにいる」 そう繰り返しても、彼女の苦痛が和らぐわけではない。それでも、彼はただ傍にいるしかなかった。
「ご主人、少しだけ……こちらへ」 主治医に呼ばれ、悠馬は一人、陣痛室を出された。廊下に立つと、主治医の顔が見えた。白衣の胸元に光る名札が、妙にくっきりと目に映る。
「奥様の状態ですが……お腹の赤ちゃんの心拍が弱まり始めています。お母さん自身の心拍も不安定です。これは、おそらく持病の影響かと」
その言葉が、鼓膜を裂いた。
「……持病?」
医師は眉をひそめた。
「ご存じなかったんですね」と言いたげな表情で、声をやや落とす。
「今は詳しく申し上げられませんが、以前から心臓に問題がありました。ご本人からの申告で、妊娠中は経過を慎重に見てきました。ただし、今の状況は限界に近く……このままの分娩は危険です」
「……えっ、」
視界がぐらついた。
病院の白い天井が、急に傾いたようだった。 持病? 梢が? そんな話、一度も聞いていない。
――でも、思い返せば…… 真夏の日、何でもないふうに「少しだるい」と言って昼寝をしていたこと。 港の帰り、急に立ち止まって呼吸を整えていた横顔。 夜中に、薬をそっと飲んでいた音。 どれも、些細なことに思えていた。忙しさのせい、疲れのせい、そう思っていた。 彼女が何も言わなかったから、深く考えなかった。ただ信じていた。「平気」だと笑う顔を。
――違ったんだ。 あれは、彼女なりの「隠していた」サインだったのだ。
「帝王切開に切り替えます。ご本人には既に説明をしました。ご主人としても、同意をいただけますか」
医師の言葉で現実に引き戻され、悠馬は震える手でペンを持った。 名前を書こうとするのに、指先がうまく動かない。
彼女が言わなかったのは、きっと―― 「余計な心配をさせたくなかったから」だ。 いつもそうだった。人に迷惑をかけることを何よりも嫌っていた。
「……サイン、します。どうか、ふたりを、助けてください」
言葉を吐き出した瞬間、喉の奥が熱くなった。
手術の準備が始まる。廊下に響く足音。器具の音。 それらすべてが、悠馬の鼓動と重なっていた。
やがて、再び顔を見せた梢の手を握った。 「悠馬……」 かすれた声。 「ここにいる。ずっといる。だから……帰ってこい」
彼女はわずかに微笑んだ。 「ありがとう。あなたと家族になれて、ほんとうによかった」
その言葉が、まるで最期の挨拶のようで、悠馬は叫びたくなった。 ――やめてくれ。そんな顔をするな。そんな言い方をするな。
だけど、梢の瞳はもう、静かに閉じられていた。
モニター音が響く手術室の扉の向こうで、命のやりとりが続いていた。 どうか――彼女の命を、どうかこの子を。
時間が、凍ったように過ぎていた。 秒針の音すら聞こえないはずの空間で、悠馬は自分の呼吸がうるさいほどに感じられた。
――頼む、どちらも無事でいてくれ。
ひとつの命を迎えるということが、こんなにも冷たく、残酷な緊張を伴うものだとは知らなかった。 手術室の奥では今、彼女が痛みに耐えながら、命を引き渡している。 自分には、祈ることすら正解かわからなかった。
そのときだった。
――オギャア……!
空気が震えた。鋭く、かすれながらも確かに響く、新しい命の産声。 そのひと声が、悠馬の胸を打ち抜いた。立っていられず、壁にもたれた。
「おめでとうございます。元気な女の子です」
助産師が現れ、小さく包まれた赤子を腕に抱いていた。 まだ濡れた髪、握られた小さな拳。 産声は少しずつ落ち着き、眠るようにまぶたを閉じた顔が、どこか梢に似ていた。
「……生まれたんだ……」
その言葉が口からこぼれた瞬間、頬を涙が伝っていた。 待ち望んでいた命、ふたりで名前を考え、未来を夢見た存在が、今ここにいる。
だが―― 「お母様のほうは、まだ処置が続いています。申し訳ありませんが、今しばらく……」
言葉の先を、主治医は言わなかった。言えなかったのだろう。
その目に浮かんでいた影が、悠馬の胸に鋭く突き刺さった。
なぜ彼女は今ここにいない。なぜ、この瞬間にそばで笑っていない。 娘を抱いてほしかった。彼女の笑顔と、この子の命が交わるところを、共に見たかった。
それなのに。
ガラス越しの赤子を見つめながら、悠馬はそっと手を合わせるようにガラスに触れた。 その指先が震えているのが、自分でもわかる。
「梢……聞こえてるか……」 静かに、言葉が漏れた。 「この子、生まれたよ。ちゃんと、来てくれた……」
声を絞り出すように言ったその瞬間、喉の奥がつまって、もう何も言えなかった。 ただ、ひたすら願うように――彼女のいる扉の向こうを、見つめ続けていた。
手術室のランプが消え、静かに扉が開いた。 白衣の医師が現れた瞬間、悠馬は立ち上がった。だが、その顔を見た途端、全身から力が抜けた。 言葉よりも先に、首を横に振る動作。それだけだった。
「……助かりませんでした」 その一言が、まるで世界を反転させた。
頭の中が真っ白になり、呼吸の仕方がわからなくなる。 隣で看護師が何かを話していた。名前を呼んでいたのかもしれない。けれど、それも遠くの水の中から響くようにしか聞こえなかった。自分の心音だけが、やけに大きく響いていた。
「……うそだろ……なんで……」
言葉がこぼれる。 信じたくなかった。信じられるはずがなかった。
導かれるままに病室へ入る。 そこに、梢がいた。
真っ白なシーツ。静かに眠る横顔。 頬に触れれば、もう温もりはなかった。指先に広がる冷たさが、ただただ現実を突きつけてきた。
「……梢……なんで……」
繰り返しても何も変わらない。何も戻らない。 ただ、涙が頬を伝い、喉の奥が熱く締め付けられていく。泣くしかなかった。
思い返す。 朝、ほんのわずかに顔をしかめていたこと。 階段を上がる時に少しだけ息が乱れていたこと。 夜中に薬を飲む姿を、偶然見てしまったこと――
すべてが繋がっていく。
「……持病って、なんだよ……」
医師の説明によれば、梢には心臓の持病があったという。妊娠という身体への負荷で悪化し、今回の出産が引き金になった、と。
「俺、知らなかった……」
知らされていなかった。でも――本当に、まったく気づかなかったのか? 都合よく見ないふりをしていたんじゃないか? 彼女が弱音を吐けなかったのは、自分のせいじゃないのか――
「あんなに……一緒にいたのに……なんで……っ」
声にならない声が漏れ、肩を震わせた。 こんなに近くにいたのに、なにも守れなかった。 どうして、自分より先に彼女がいなくなるんだ。 なぜ、一言でも相談してくれなかったんだ。
問いはすべて、虚空に吸い込まれる。返事はない。返事をくれる人はもう、この世界にはいない。
気がつけば、梢の手を握っていた。 細くて、華奢で、温かかった手。いまはもう、静かに冷えていた。
「……ねぇ、言ってよ……“わたし、頑張ったよ”って……」 声が震えた。涙に濡れた視界の中、梢の顔がぼやけて滲んでいく。 「“苦しかったけど、あなたと一緒にいられて幸せだった”って……そう言ってくれよ……」 冷えきったその手を、必死に両手で包み込む。 「俺、なにも気づけなかった……気づこうともしなかった……」 言葉の端がかすれた。後悔が胸を貫いて、喉が詰まる。 「……だからせめて、最後に……お前の声で聞きたかったんだよ……“ちゃんと、生きた”って……」
けれど、なにも返ってこない。 自分の嗚咽だけが、この小さな病室の中に響いていた。
どれだけ時間が経ったのか、わからなかった。 いつの間にか看護師がそっと声をかけてきた。
「……赤ちゃん、お会いになりますか?」
はっとして、顔を上げた。
そうだ――生まれた。 彼女は、自分の命を代償にして、新しい命をこの世界に遺してくれた。
足元がふらつく。けれど、彼女の遺したものを見ずに、立ち止まるわけにはいかなかった。
「……会わせてください」
もう一度、彼女の手を握りしめて、そっと囁く。
「すぐ、戻ってくるから……ごめんな、梢。……ありがとう」
どれだけの言葉を尽くしても、この喪失を埋めることはできない。 でも、彼女が遺してくれた命の前に、いまは、立たなければいけない。
「赤ちゃんは、無事です。保育器の中ですが、健康状態は安定しています」
その言葉だけを、何度も頭の中で繰り返していた。 医師の口から「無事」と聞いたはずなのに、心はまだ現実を受け止めきれずにいた。
――梢はもう、いない。
その事実が、胸の奥でじくじくと鈍く痛んでいるのに、どこか遠くの出来事のようだった。 足元がふわふわと浮いているような感覚のまま、案内された新生児室。
ガラスの向こうにいたその子は、あまりにも小さかった。 まるで世界のどこにも触れていない、やわらかな繭の中に包まれているように見えた。 薄桃色の肌。透明な管。まだ言葉も意識も持たない、小さな命。
「……こんなに、小さいんだな」
震える声で呟いた。喉が焼けるように痛んで、うまく言葉が出てこない。 生まれてきてくれて、ありがとう。それを言わなければいけないのに、口が動かなかった。
けれど、ガラス越しにそっと触れたとき、その子がほんの少しだけ手を動かした。 ぴくり、と小さな指先が反応したように見えた。 まるで、「ここにいるよ」と伝えようとしてくれたかのように。
涙が、静かに頬を伝った。言葉の代わりに、溢れてくるものが止められなかった。 どれほどの思いで、梢がこの子を守ってくれたのか。 どれほどの痛みを越えて、この命をこの世に送り出してくれたのか。
「……ありがとう。おまえも、梢も……本当に、よくがんばった」
心の底から湧き上がったその言葉は、誰に向けたのか自分でもわからなかった。 けれど、ただ伝えたかった。生まれてきてくれたこの命に、そして命をかけて守ってくれた彼女に。
「おまえには……ちゃんと、生きてほしい。笑って、泣いて、いっぱい愛されて……それを、ちゃんと教えてやりたいんだ」
指先が、ガラスの冷たさに触れながらも、確かに心のどこかが少しだけ、温かくなった気がした。 この子は、希望だ。 喪失のなかで、それでも生きる意味を教えてくれる――新しい朝のしるしだった。
赤ちゃんとの対面を終えた後も、しばらくその場を離れることができなかった。 もうここに梢はいない――そう思えば思うほど、心の一部がどこかに置き去りになってしまったような感覚だった。
面会が終わり、帰宅を促されたのは、日がとっぷりと暮れたころだった。 看護師がそっと差し出したビニール袋の中には、梢が身につけていたマタニティの小物や、スマートフォン、そして母子手帳が入っていた。
それらを胸に抱き、家へと戻る道のりは、どこか夢の中のようだった。 灯りの消えた部屋に入った瞬間、ひとりになった現実が容赦なく押し寄せてきた。
カバンを床に落とし、玄関にうずくまる。涙がこぼれる。こらえていた何もかもが溢れ出してくる。 「どうして……どうして、黙ってたんだよ……」
そう呟いた時だった。ふと、視線の先に見慣れないノートが目に留まった。 それは、リビングの本棚の隅に、そっと立てかけられていた。淡いクリーム色の表紙。 いつか見たような、見ていないような――でも、梢の字だという確信があった。
手に取って、表紙をめくる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
梢の日記
○月×日 今日、知らない男の人を泊めた。 名前は悠馬くん。 すごく寂しそうな目をしてた。 私も昔、あんな目をしてた気がする。 理由なんて聞かなかった。 ただ、少しでもあの人の心が軽くなれば、それでいい。
○月△日 悠馬くんと話すと、胸の奥がじんわりあたたかくなる。 自分でも怖いくらいだ。 誰かにこんなふうに心を許すの、いつぶりだろう。 子どもたちも嬉しそうで、なんだか町が少し賑やかになったみたい。 もう少し、このままでいられたらいいのに。
○月□日 彼に、昔の恋人のことを話した。 事故で亡くなったこと。 ずっと私の中で止まってた時計が、少し動いた気がした。 こんなふうに、誰かと時間を重ねるのも悪くないのかもしれない。
○月◇日 悠馬くんの過去を聞いた。 苦しそうだった。 私なんかより、ずっと大きな痛みを抱えてる。 それでも、この町に来てくれて、私のそばにいてくれる。 わたし、きっともう、この人のことを――
○月◎日 赤ちゃんができた。 びっくりした。 でも、嬉しかった。 この命は、ふたりのもの。 いつか、この子と3人で港を散歩するのが夢になった。 ……本当は、怖くてたまらない。 でも、幸せだって思いたい。 ちゃんと、笑っていたい。
○月△日 病院で、先生に言われた。 「出産は難しいかもしれない」 わかってた。 ずっと体調が悪かったのも、自分が弱いことも。 でも、今さら伝えたら、あの人を悲しませるだけ。 だから、言わない。 私のわがまま。 でも、この子に会いたい。 たとえ私がいなくなっても、この子がいてくれたら、きっと悠馬くんは大丈夫。
○月◇日 この町の灯りが好き。 潮の匂いも、子どもたちの声も。 この港で、あなたに出会えてよかった。 あなたが笑ってくれるだけで、私は幸せだった。 ありがとう。 ごめんね。 そして、どうか――幸せになってください。
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……そして、最後のページに、そっと一枚の便箋が挟まれていた。
日記とは違う筆跡の緊張感。けれど、それもまた梢だった。
悠馬は震える指でその手紙を開いた。
――手紙
ねぇ、あなた。 この日記を読むとき、私はもう隣にいられないかもしれない。 そんなふうに始めるの、ずるいよね。でも、それでも私は、どうしても書き残したかった。 私が、あなたにどれだけ感謝してるか。どれだけ、あなたを好きだったか。 ちゃんと伝えておきたかったの。
初めて会った日のこと、覚えてる? あの日、海をじっと見つめていたあなた。 まるで、世界からすっかり置いていかれたみたいな顔をしてた。 私は思わず声をかけてた。理由なんて聞かなかった。ただ、放っておけなかったの。 それがすべての始まりだったね。
そのあとは、あっという間だった。 笑い合って、ケンカして、すれ違って、でもまた手を取り合って。 港のベンチで、あなたが言ってくれた「一緒に、朝を迎えよう」って言葉、ずっと私の宝物だったよ。
ねぇ、あなた。 ひとつだけ、謝らなきゃいけないことがあるの。 私ね、病気のこと、最後まで言えなかった。 「妊娠は、命を落とす可能性があります」ってお医者さんに言われた時、頭が真っ白になった。 でもそのあとすぐ、あなたが笑顔で「家族になろう」って言ってくれたから―― その顔を、曇らせたくなかったの。 あなたが幸せそうにしてる顔、見ていたかった。 ただ、それだけだったんだ。
毎日、少しずつ書いたこの日記は、私の気持ちの全部です。 あなたとの暮らし、赤ちゃんの成長、お腹に話しかけた夜のこと。 怖いこともいっぱいあったけど、それ以上に、幸せだったよ。 もし、私がいなくなってしまっても、どうか、自分を責めないで。 あなたは、私の人生でいちばんの贈り物でした。
最後に、お願いがあります。 私たちの娘を、たくさん愛してあげてください。 どうか、あなたの手で、この子に「夜明け」を見せてあげて。 私のかわりに――じゃないよ。 あなた自身の手で。あなた自身の愛で。
ありがとう。 あなたに、出会えてよかった。
――梢
手紙を読み終えた瞬間、悠馬は静かにその場に崩れ落ちた。 声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れ出す。
「……なんでだよ……なんで……」
読み返せば返すほど、梢の想いが滲み出てきて、胸が張り裂けそうになる。 彼女は、ずっと分かっていた。 自分の命が長くないことも、それでも「幸せだ」と言い切ってくれたことも。 日々を愛し、未来を願い、命を懸けて――彼女は、母になった。
「ねぇ、梢……ずるいよ……そんなの……」
彼女が隠してきた苦しみのすべてを、いま初めて知った。 思い返せば、何度もあったのに――青ざめた顔、言葉を濁した夜。 どれも見過ごしたのは、自分だった。
「気づいてやれなくて、ごめん……ごめんな……」
涙で視界が歪む中、机の上に広げた日記と手紙を、そっと胸に抱きしめた。 何度も読み返したくなるくらい、優しい言葉で満ちているのに――その筆跡が、もう二度と綴られることはないと思うと、途方もなく悲しかった。
悠馬は手紙を胸に抱き、堪えていたものを吐き出すように嗚咽した。
「……バカ……なんで……なんで、そんなふうに全部ひとりで……」
肩を震わせながら、何度も手紙を抱きしめ、何度も「ありがとう」とつぶやいた。
命は失われた。
けれど、その想いは、確かに残された。
娘と生きるこれからの道を、梢がその手紙で照らしてくれた。
たとえ彼女がいない朝が来ても―― それは、ふたりが願った「夜明け」なのだと、今なら思える気がした。
それからどれぐらい時間が経ったかわからない。
言えなかった言葉がいくつも胸に引っかかっていた。 「なんで……言ってくれなかったんだよ、梢……」 声にならない声がこぼれる。 でも、その後に続く言葉が、彼女の手書きの文字で綴られていた。
――あなたが幸せそうにしてる顔、見ていたかった。ただ、それだけだったんだ。
ページをめくるたび、ふたりで過ごした日々が蘇る。 初めて出会った、あの波の音が響く浜辺。何も言えずに海を見つめていた自分に、梢はそっと声をかけてくれた。 「理由なんて聞かないよ」と言ってくれた、あの優しさ。 全てが、ここにあった。
手紙の最後には、彼女からの願いが綴られていた。
――お願いがあります。私たちの娘を、たくさん愛してあげてください。 ――どうか、あなたの手で、この子に“夜明け”を見せてあげて。
頬を濡らしたままの目で、悠馬は小さく笑った。 「夜明け、か……」
翌日、再び病院を訪れた。 NICUのガラス越しに、小さな体が静かに眠っていた。 医師の許可を得て、初めて保育器のそばまで行く。
「お父さん、赤ちゃんのお名前は、決めていらっしゃいますか?」 看護師にそう聞かれて、悠馬はそっと娘の顔を見つめた。 透明な産毛。小さく丸い鼻。 そして、まるで微笑むように閉じた瞼。
「……澄(すみ)にします。海の“澄”んだ朝みたいに、静かで優しい子になるようにって」 「素敵なお名前ですね」 「梢と……ふたりで考えたんです。生まれる前の夜、ベンチで」
声が震えた。でも、彼女との約束を果たすように、しっかりと伝えた。 保育器の中の澄は、小さく指を動かしたように見えた。
「お母さんはね……澄に会うのを、すごく楽しみにしてたんだよ」 「だから、たくさん笑って。たくさん泣いて。お父さんと一緒に、生きていこうな」
その言葉に、澄がふと目を開けた気がした。 澄んだ朝の光のように、小さな命が、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
退院の日。小さな体を、慎重に包み込むようにして悠馬は澄を抱いた。 看護師が用意してくれた真新しいおくるみに包まれた娘は、まだ何も知らないような顔で眠っている。 その頬をなでる風すら、今の悠馬には特別に思えた。
エレベーターを降りるとき、ふと手が震えた。 家に帰ってから、自分はちゃんと父親になれるだろうか。 ひとりで、この子を守っていけるだろうか。 でも―― 「大丈夫、ちゃんと連れて帰るよ。お前が託してくれたものを、ちゃんと……守るから」
玄関の鍵を開けると、ふたりで暮らしたあの家が、変わらぬ姿で迎えてくれた。 だけど、そこに梢の気配はもうない。 キッチンのマグカップ、ソファの上にかけられた薄手のストール。 あの日と同じ場所に、あの日と同じものがあるのに、なにかが決定的に違っていた。
「……ただいま」
思わず小さく口にした言葉に、返事はない。 けれど、腕の中の澄が小さく身じろぎした。 生きている。 その温もりが、悠馬をふと現実に引き戻す。
リビングのベビーベッドに澄をそっと寝かせる。 ほんの少し前まで、そこにはふたり分の未来が広がっていた。 それでも今、目の前にはこの小さな命がいる。 生まれてきた娘を、彼はちゃんと迎えに行ったのだ。
「これからは、ふたりだな」
そう言って、そっと娘の手を握った。 小さな指が、ぎゅっと応えるように握り返してくる。
「一緒に、“朝”を迎えよう。何度でも、何度でも」
その言葉に、少しだけ澄が笑った気がした。 この家に、またひとつ、新しい光が灯ったようだった。
それから数日後。 天気は、あの時とよく似た晴れ模様だった。 悠馬は澄を抱えて、あの港へ向かっていた。
道中、潮の香りがゆるやかに鼻をくすぐる。 遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、漁船の汽笛が小さく響いた。 この町に、少しずつ“日常”が戻ってきている。 けれど彼にとっては、今日が“新しい日常”の始まりだった。
波止場の端にある、あのベンチ。 梢と出会い、言葉を交わし、未来を約束した場所。 悠馬は静かに腰を下ろすと、澄をその腕に抱き寄せた。
「ここが、君の母さんと出会った場所だよ」
赤ん坊にそんな話が伝わるはずもないけれど、彼はそう言わずにはいられなかった。 澄はただ、ぱちぱちとまばたきをしながら空を見上げている。 柔らかな春の風が、ふたりの髪をそっと撫でた。
「お母さん、綺麗だったよ。優しくて、ちょっと頑固で……でも、本当に強い人だった」
言葉に詰まった。 伝えたいことが多すぎて、どれから話せばいいのか分からない。 でも――
「澄。君は、俺たちの願いだったんだ。……希望だったんだよ」
赤ん坊の小さな指が、悠馬のシャツの胸元を掴む。 ほんのわずかな力なのに、彼の胸の奥が、じんとあたたかくなる。
「俺はもう、ひとりじゃない。これからは、君と一緒に――未来をつくっていくよ」
梢が隣にいないことは、今も胸に痛い。 けれどその痛みさえも、背負っていくと決めた。 彼女が守りたかった命を、今度は自分が守る番だ。
「ありがとう、梢。君に出会えて、本当によかった」
港の空は、青く澄んでいた。 まるで、遠くで微笑む梢が、ふたりを見守っているかのように――。
「……悠馬先生!」
懐かしい声に振り向くと、そこには元気な子どもたちの姿があった。 少し背が伸びて、日焼けした顔。けれどその笑顔は変わっていない。 悠馬は思わず、小さく笑った。
「ただいま」
彼の腕の中には、ブランケットに包まれた澄。 見慣れない赤ちゃんの姿に、子どもたちは目をまるくする。
「先生、それ赤ちゃん!?」「わー、ちっちゃい〜!」「だれのこ?」
「俺の娘だよ。名前は“澄(すみ)”って言うんだ」
「すみちゃん……かわいい〜!」
子どもたちが取り囲み、興味津々で覗き込む。 澄はきょとんとした顔で、ぱちぱちとまばたきをしていた。
「先生、またここで働くの?」
ふいに誰かが尋ねた。 その言葉に、悠馬は一瞬、返事に詰まる。 けれど、そっと澄を抱き直しながら、力強く頷いた。
「うん。……またここで、君たちと一緒に過ごしたいと思ってる」
「ほんと!? やったー!」
歓声があがる。 その中心にいる澄は、何もわかっていないかのように、ただ小さくくしゃみをした。
梢が生きていたら、きっとこんな光景を微笑んで見ていただろう。 子どもたちに囲まれて、娘と一緒にここに立っている自分。 ――それは、彼女が心の底から願っていた未来だった。
先生のひとりが近づいてきて、そっと声をかける。
「梢さんが最後まで、気にかけていたんですよ。学童の子たちのことも、あなたのことも」
「……知ってます。全部じゃないけど、ちゃんと、伝わってます」
悠馬は笑った。少し泣き笑いのような顔で。 娘の小さな寝息が、彼の胸に静かに響いていた。
夜の帳が降りきる前の、ほんの短い静寂。 家に戻ってきた悠馬は、娘をベビーベッドに寝かせたあと、窓辺のソファに座った。 澄はすやすやと寝息を立てている。小さな手を握りしめながら。
カーテン越しに、うっすらと夜明けの気配。 東の空が、ほんのわずかに淡い藍色に染まり始めていた。
悠馬は膝に乗せたノートを開いた。 それは、梢の遺した日記と、最後に挟まれていた手紙。 何度も読み返したはずなのに、開くたびに胸が締めつけられる。
「ねぇ、あなた」 ――その呼びかけが、耳の奥でふと響く。
彼女の声が、姿が、温もりが、まだこの部屋のどこかに残っているような気がした。 思い出そうとしなくても、思い出してしまう。 ベンチで笑い合った日も、頬を膨らませてすねていた横顔も、 子どもたちと一緒に歌っていた声も、全部。
「……梢、俺、まだぜんぜん強くなれてないよ」
目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。 けれど、それでも――
「でも、大丈夫。お前が残してくれたこの子が、俺をちゃんと生きさせてくれる気がするんだ」
ベビーベッドから、小さな寝返りの音。 澄がふにゃ、と短く泣き声を漏らし、また眠りに落ちる。
その顔を見て、悠馬はそっと微笑んだ。
「……ありがとうな。澄。生まれてきてくれて」
手紙の最後の言葉が、胸の奥で静かに灯る。
「どうか、あなたの手で、この子に“夜明け”を見せてあげて」
そうだ、これは“終わり”じゃない。 ふたりで迎える、夜明け――そして、朝の始まり。
悠馬は立ち上がり、そっとカーテンを開けた。 海の向こう、地平の端から、太陽の輪郭がわずかに顔を覗かせる。
その光が、部屋の中に差し込み、小さな娘と、その父を優しく包んだ。
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