第二章 小さな居場所

潮の匂いが、少しだけ和らいでいた。


 窓の外に広がる朝の港町は、ゆっくりと陽を浴びながら目覚めていく。

 古びた木造の家々、電線に留まるカモメの影。

 遠くから聞こえる船の汽笛が、まるで夢の続きのように響いていた。


 悠馬は、掛け布団の中で天井を見つめていた。

 梢の家の天井は低く、木の節が波のように並んでいる。少し身体を動かすと、畳が軋んだ音を立てた。


 眠ったはずなのに、どこか身体が重かった。

 いや、眠った“つもり”だったのかもしれない。


 目を閉じていれば何も見えず、考えずに済むと思っていたが、心はそう簡単に黙ってはくれなかった。


 頭の奥で、別れの言葉が何度も反響していた。婚約者の表情。手の温もり。

すべてが昨日のことのように浮かんでは消える。


 それでも、この町に来てからの数日は、どこか不思議な感覚に包まれていた。

 誰も自分を知らず、誰も何も問わない。そんな場所が、こんなにも息をつかせてくれるなんて。


 ——本当に死ぬつもりだったんだ。


 そのことを思い出すたびに、自分でも驚いてしまう。

 あの日、電車に揺られて、どこまでも遠くへ行きたかった。

 この世界の端にでも辿り着けたら、それでいいと、そんなことを考えていた。


 けれど。


「おはよう、悠馬くん。起きてる?」


 襖の向こうから、梢さんの声がした。


 その声に、現実が戻ってくる。


「うん、今起きたところ」


 そう返しながら身を起こすと、ふわりと味噌汁の匂いが鼻先をくすぐった。


 梢さんの作る朝食は、どこか懐かしい。

 特別な味付けでもないのに、じんわりと身体の奥に染み込んでくる。

 心がほぐれていくような、そんな味だった。


 食卓の向かいに座る彼女は、いつものように淡い色のエプロンをつけていた。

 物静かで、でも必要なことはしっかり伝える。

 彼女のそういうところが、最初は少し怖かった。

 けれど、今はその距離感が心地いい。


 話しすぎず、黙りすぎず。

 温度のある沈黙が、ふたりの間に流れていた。


「今日ね、学童に顔出そうと思ってて。よかったら、悠馬くんも来る?」


「俺が?」


「うん。子どもたちと遊んでくれるだけで、助かるの」


 子ども。

 その言葉を聞くだけで、どこか遠い存在のように感じた。

 けれど断る理由もなかった。


「……じゃあ、行ってみようかな」


 言葉にしてから、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。


 “何かをしてもいい”と思える。それだけで、今の自分にとっては、大きな変化だった。


**************


 学童保育所は、小学校の裏手にある平屋だった。


 扉を開けると、まず目に入ったのは、壁一面に貼られた絵や習字、折り紙の作品。

 子どもたちの作品は、どれも色鮮やかで、どこか自由で、無邪気だった。


 夏の日差しが窓から差し込み、室内の空気は少しだけ湿っていた。

 けれど、梢さんが窓を開け放つと、風がすっと入り込み、重たさが和らいだ。


 子どもたちの声が聞こえる。


 最初に話しかけてきたのは、やんちゃそうな男の子だった。


「だれ、このひと?」


「今日からちょっとだけお手伝いしてくれるお兄さんだよ」


 梢が紹介すると、その子はじっと悠馬を見た。


「ふーん。あそべる?」


 質問は単純で、けれど真っ直ぐだった。


「遊ぶのは……得意じゃないけど、できるよ」


 そう言った瞬間、子どもたちが一気に群がってきた。


「じゃあ、ドッジボール!」「お絵かきもしよう!」「ねえ、これ見て!」


 あっという間に引っ張りだこになる。

 気がつけば、悠馬は汗だくになりながら、ボールを投げ、絵の具で遊び、紙芝居を読む羽目になっていた。


 こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。

 そう思ったとき、自分が今、笑っていることに気がついた。


 最初は構えていた子どもたちが、いつのまにか心を開いてくれていた。

 そして、何より自分が、彼らの無邪気さに救われていた。


 気づけば、時計の針は夕方を指していた。


 梢が帰り支度をしているあいだ、悠馬は一人、教室の隅でぼんやりと外を眺めていた。


 遠くに見える港の水面が、夕陽を受けて金色に揺れていた。


 この町の、静かな時間が好きだと思った。


(もしかしたら、ここにいてもいいのかもしれない)


 そんな言葉が、ふと胸に浮かんだ。

 言葉にするには、まだ早い気がしたけれど。


 小さな居場所が、自分の中に、確かに芽生えはじめていた。


**************


 帰り道、梢さんと並んで歩いた。


 セミの声が、少しずつ涼しさを帯びてきた風に混じっていた。

 港沿いの道は、潮の匂いとともに、今日一日の余韻を静かに運んでくる。


「今日は、ありがとうね。子どもたち、すごく楽しそうだった」


「……こっちこそ。あんなに元気な子たちに囲まれるの、初めてかもしれない」


「でも、すぐ打ち解けてた。笑ってるの、ちょっとびっくりしちゃった」


「自分でも、驚いたよ」


 ふたりの間に、またあの心地よい沈黙が流れる。


 けれど今度は、少しだけ違った。悠馬はふと、問いかけた。


「……梢さんって、どうしてここで暮らしてるの?」


 梢は立ち止まった。少しだけ目を細めて、港のほうを見つめた。


「うまく言えないけど……ここにいると、忘れられる気がするの。いろんなこと」


 その言葉に、胸の奥がわずかに疼いた。


 自分も、忘れたくてここに来た。

 だけど、梢さんは“忘れるため”ではなく、“思い出さないため”にここにいるのかもしれない。


 似ているようで、少し違う。


 だけど、どちらもきっと、何かを乗り越えようとしているのだ。


「ここに来て、よかったと思う」


 悠馬がぽつりと呟くと、梢は少し驚いたようにこちらを見た。


「そう思ってくれて、うれしい」


 その笑顔は、どこか、哀しみを含んでいた。


 けれど、確かにあたたかかった。


 ——この人となら、もう少しだけ、生きてみたいと思えるかもしれない。


 そんな思いが、胸の奥に静かに灯った。


**************


 家に戻ると、梢は台所で湯を沸かし始めた。

 湯気が立ち上る音とともに、家の中に静かな時間が流れ始める。


「お茶、淹れるね。ほうじ茶でいい?」

「うん、ありがとう」


 差し出された湯呑みを受け取ると、ふと手が触れた。

 それはほんの一瞬のことだったが、妙に印象に残った。


「……冷たい」


 思わずつぶやいたその言葉に、梢が小さく笑った。


「寒いの、苦手なの。夏でも手が冷たくて、子どもたちにもよく言われる」


「そうなんだ」


 他愛のない会話だった。

 でも、その中に、梢さんの一面がまた少しだけ垣間見えた気がした。


 ふたり、湯呑みを手にしたまま、ちゃぶ台越しに向き合って座る。


 外では、波の音がゆるやかに響いていた。


 港町の夜は、都会の喧騒とはまるで違う。

 静かで、穏やかで、どこか優しい。


「そういえばね……来週、灯篭流しがあるの」


 梢がぽつりと告げた。


「灯篭流し?」


「うん。町の小さな行事なんだけど、お盆の時期に合わせて、港でみんなで灯篭を流すの。亡くなった人の魂を弔うだけじゃなくて、願い事を込める人もいる。大切なものを、そっと手放す儀式でもあるんだって」


 悠馬は、静かに頷いた。


「……いいね、そういうの」


「よかったら、一緒に行かない? 灯篭、作るところから手伝ってくれたら嬉しいな」


 その誘いは、どこか特別な意味を含んでいた。

 誰かと何かを“つくる”。それだけのことが、今の悠馬には尊く思えた。


「うん。行ってみたい」


 ふたりの間に流れる夜の静けさは、いつもより少しだけ、あたたかかった。


*************

 

朝の光が障子を透かして、淡く部屋を照らしていた。

 潮の香りがかすかに漂い、夏の終わりの気配を運んでくる。


 「今日は、灯篭作りの約束だったね」

 朝食の片付けを終えた梢が、手ぬぐいで手を拭きながら言った。


 「うん。ちゃんと覚えてるよ」

 悠馬は軽く頷き、湯呑みを置いた。


 あの日、梢さんが言った「一緒に作ろうね」という言葉が、どこか胸の奥に残っていた。

 “何かをつくる”という行為が、これほど落ち着くことだとは思っていなかった。今の自分に必要なのは、そういう“手を動かす時間”なのかもしれない。


 梢は部屋の隅から、段ボール箱を取り出した。

 中には折りたたまれた和紙や、木の枠、カラフルな絵具や筆が丁寧に詰まっている。


 「これ、全部手作りなんだね」


 「うん。町の人たちが集まって準備するの。子どもたちが描いたのも可愛いよ。あとで学童にも見に行こうか」


 悠馬は、机の上に広げられた白い和紙に手を伸ばすと、ふっと息を吐いた。


 「なにを、、、書いていいかわからないな」


 「願い事でも、想い出でもいい。絵だけでも。灯篭は、流すためのものだから、心に残しておきたいものを預けるの」


 その言葉に、悠馬は一瞬、手を止めた。


 心に残しておきたいもの。

 あるようで、ない気がした。

 むしろ忘れたくて、ここに来たのではなかったか。


 けれど。筆を握った指が、わずかに震えた。

 その震えを包むように、梢が隣に座る。


 「無理に書かなくてもいい。でも、手を動かすと、不思議と少しずつ、心が落ち着くよ?」


 優しい声だった。

 押しつけがましくなく、けれど温度を持って、悠馬の胸の奥に触れてくる。


 「……やってみるよ」


 そう言って、悠馬は筆を取った。


 文字を書く代わりに、小さな波の絵を描いた。

 その波はどこかぎこちなく、でも確かに彼の今を映していた。


 ふたりの灯篭が並んでいる。


 梢さんの灯篭には、小さな野の花の絵が描かれていた。

 さりげなくて、でも繊細で、彼女の心をそのまま写したようだった。


**************


 午後になると、港町に少しずつ人が集まり始めた。

 商店街の路地では、浴衣姿の子どもたちが親に手を引かれて歩いている。

 潮風に混じって、かすかに焼きそばの匂いが流れてきた。


 悠馬と梢は、学童へ立ち寄った。


 子どもたちが作った灯篭が、廊下にずらりと並べられていた。

 「だいすき」「いつまでもわらってて」

 小さな字で書かれた言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。


 「素直だね、子どもって」


 「うん。私も、最初はびっくりした。みんな、こんなにちゃんと、自分の気持ちを言葉にできるんだって」


 悠馬は灯篭の列に目をやった。

 子どもたちは無邪気に笑っていたが、それでも胸の奥には、それぞれの祈りや思いがあるのかもしれない。


 自分の心に蓋をしていたのは、大人になったからだ。

 強がって、傷つくことを恐れて、何も見ないふりをしていた。


 でも今は——少しだけ、違う気がする。


**************


 夕暮れ前、ふたりは自分たちの灯篭をそっと抱えて、港へ向かった。


 波止場には、すでに多くの灯篭が並べられていた。

 色とりどりの灯が、空の朱に照らされて揺れている。


 「静かだね」


 「うん。始まる前が、いちばん静か」


 梢の言葉に、悠馬は小さく頷いた。

 灯篭流しは、ただの行事ではなかった。

 それぞれが、それぞれの記憶や願いを、静かに水に託す——そういう時間なのだ。


 ふたり、並んで海を見つめる。


 灯篭に火が灯され、ひとつ、またひとつと水面に送り出されていく。

 静かに、けれど確かに流れていく光。

 まるで、時の流れそのものを見つめているようだった。



灯篭は波間をゆっくり進んでいく。

 重なるような灯の群れが、やがて遠くへ、ひとつの流れとなって消えていった。


 風が少しだけ強くなった気がした。

 でも、不思議と寒くはない。

 港の空は、群青色へと沈みつつあって、海と空の境界線が、まるで滲んでしまったように曖昧だった。


 梢さんは手すりに寄りかかりながら、遠くの灯を見つめていた。

 その横顔は静かで、どこか切なげだった。


「……きれいだね」


 ぽつりと、彼女が言った。


「うん。なんだか、全部が溶けていくみたいだ」


 悠馬も同じように海を見ていた。

 けれど心は、隣にいる梢のほうに、少しずつ傾いていく。


 やわらかく潮の匂いが鼻をかすめる。

 こうして一日一日を過ごしてきたなかで、気づかないふりをしてきた想いが、ふと心の表面に浮かびあがってきた。


 灯篭の光は、もうほとんど見えなくなっていた。

 けれど、その静けさが、かえってふたりの間の距離を、そっと近づけてくれているようだった。


「梢さん」


 名前を呼んだとき、彼女がゆっくりと振り返った。

 月の光がその瞳に反射して、どこか泣きそうにも見えた。


「ありがとう、今日……一緒に灯篭、作るの誘ってくれて」


 言葉は自然に出てきた。でもその先にある気持ちは、言葉にするのが少し怖かった。


 梢は、微笑んだ。


「ううん、こちらこそ。悠馬くんと一緒だったから、今日がちゃんと“思い出”になった気がするよ」


 その言葉に、胸がじんわりと熱くなった。


 もう、目を逸らさなくてもいい気がした。


「……俺ね、梢さんといると、ちゃんと自分になれるんだ。無理しなくていいって思える。誰かのためじゃなくて、自分の言葉で話せるのって、たぶん、すごく久しぶりで」


 梢は目を見開き、そしてゆっくりと頷いた。


 ふたりの間に、風が通り過ぎる。


「だから……もし迷惑じゃなかったら、もう少し、こうして一緒にいたいって思ってる」


 照れ隠しも、冗談もなかった。

 ただ素直に、自分の気持ちを届けたかった。


 梢はほんの少しだけ、顔を伏せるようにして、静かに微笑んだ。


「……迷惑なわけ、ないよ」


 その声は、波の音に混じって、けれど確かに、悠馬の胸に届いた。


波止場の灯篭の光が揺れるなか、二人はしばらく黙って海を見つめていた。

潮の匂いと波の音だけが、静かに空気を満たす。


灯篭の揺れる光が、ふたりの影をゆらゆらと映し出していた。

波の音が静かに寄せては返し、夜の海はどこまでも静かで、優しかった。


「……ねえ、悠馬くん」

梢がぽつりと声を漏らす。

「あなたが優しくしてくれるたびにね、すごく嬉しかったの。嬉しくて、でも……怖かった」


彼女の声はほんのかすかに震えていた。

言葉を選ぶように、何かを噛みしめながら、続ける。


「こんなふうに誰かを信じたら、きっと、全部預けてしまう。もし、あなたがいなくなったらって考えるだけで、息ができないくらい、怖かったの」


視線を落としたまま、梢は胸元に手を当てた。

でも、ふと顔を上げて、夜風の中、まっすぐに彼を見つめる。


「でも今日、一緒に歩いて、笑って、あなたの手を握って、気づいたの。怖くてもいい。苦しくてもいい。それでも、私は――あなたと一緒にいたいの」


彼女の瞳がわずかに潤んでいた。

その真っすぐな想いに、悠馬の胸がきゅっと締めつけられる。


「ちゃんと、自分の足で、あなたの隣に立てるようになりたい。ただ守られるだけじゃなくて、私も……あなたを支えられるように、なりたいの」


その言葉は、夜の海に溶け込むように静かで、確かな強さを宿していた。


悠馬は黙って、彼女の手をそっと握った。

そして、言葉を選ばず、まっすぐに伝える。


「ありがとう、梢さん」

彼は微笑む。あたたかく、心の奥から溢れるような笑みだった。


「俺も、怖かった。もう誰かを大切にすることが、できないかもしれないって。でも君に出会って、今日こうして隣にいてくれて……俺も、やっと前に進めそうな気がする」


彼は一歩、彼女の方へと踏み出した。

灯篭の光が、ふたりの影をひとつに重ねる。


「これからも、君の手を握っていたい。どんな朝も、どんな夜も、一緒に迎えていきたい」


梢は目を見開いたまま、何も言わずに悠馬を見つめた。

少しの間、ふたりの間に風が吹き抜ける。


その静けさを破るように、悠馬は小さく息を吸って、もう一歩だけ踏み込む。


「……俺と、一緒に生きてくれませんか」


梢の瞳が大きく揺れた。

でも次の瞬間、ゆっくりとうなずいたその顔には、確かな微笑みがあった。


「うん……よろしくお願いします」


灯篭の灯りが、静かに夜の海を照らし、ふたりの未来をそっと祝福するように揺れていた。

 


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この町に来てくれてありがとう。

あなたといると、少しだけ泣かなくて済む。

本当はずっと怖かったんだ。

誰かをまた好きになることも、失うことも。

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