この世界がゲームだと信じて疑わないオレと、もう限界な彼女たち

北川ニキタ

1 もう壊れてる

 鉄の匂い。

 土と、何か獣の腐臭が混じったような、不快な香り。

 全身を殴打されたような鈍い痛み。特に左腕と右足が熱く、脈打つようにズキズキと痛む。

 息を吸い込むたびに、胸の奥が軋む。


 ……なんだ……これ……?


 霞む視界の中で、最初に認識できたのは、岩肌のような壁と、薄暗い天井。

 そして――


「いやぁぁぁっ! ヤダッ! アスマっち、死んじゃ、だめっ! また……また、いなくならないでよぉっ! 絶対ヤダッ! ヤダヤダヤダーッ!」


 鼓膜を劈くような、少女の絶叫。

 その声に引かれるように、ゆっくりと意識が覚醒していく。

 ああ、そうか。オレはまた、無茶をやらかしたんだった。


「もぉ、なんで……っ、なんでいつも、そんな……っ! 自分をぎせいにして……っ。アスマっち、いないの、あたし、むり……どうすれば、いいのか……わかんないよぉ……っ! うぅ、アスマっち、血が、血がいっぱい……あぁ……あ、治さなきゃ、早く治さなきゃ……でも、手が、ふるえて……っ!」


 目の前で、小柄な少女――ユウが、その美しい琥珀色の瞳をぐしゃぐしゃの涙で濡らし、ほとんど泣きじゃくりながら叫んでいた。

 オレのボロボロの体に必死にしがみつき、震える手でオレの傷口に治癒魔術の淡い光をかざそうとするが、パニックで集中できないのか、光は頼りなく明滅するばかりだ。


 普段は少し気だるげで、どこか達観したような態度でオレや他のパーティーメンバーたちを「はいはい、アスマっちはまったく、世話が焼けるんだからさー」なんて、ちょっと年上ぶってオレの世話を焼いてくれる彼女。

 そんな彼女が、これほど理性を失い、幼子のように感情をぶちまけるのは初めてかもしれない。


 その言葉は、もはや意味を成すかも怪しい悲鳴に近く、いつもの悪戯っぽい軽やかさは見る影もない。

 ただひたすらに原始的な恐怖と、どうしようもない絶望だけが、途切れ途切れに吐き出されていた。

 過呼吸気味に肩を震わせ、その小さな体全体でオレの無事を訴えている。


「ユウ……お、落ち着けって……大丈夫、だから……ゲホッ……まずは、深呼吸だ……」


 オレは、まだ全身を苛む激痛と、おそらく肋骨にヒビでも入ったのか、浅い呼吸しかできない苦しさに耐えながら、なんとか声を絞り出す。

 ユウのあまりの剣幕と、彼女の不安定な魔力の光に、こっちまで息が詰まりそうだ。

 左腕はだらりと垂れ下がり、感覚がほとんどない。全身の打撲痕と切り傷からは絶えず血が滲み、お気に入りの革鎧はもはやただの布切れ同然だ。

 このままではまずい。NPC相手に本気で心配しているわけじゃないが、このユウの取り乱しようは、さすがに見ていて胸が痛む。……いや、痛むのは気のせいだ。リアルなグラフィックとAIのせいだ。


 これもまた、大人気VRMMO「アークスフィア・オンライン」における、ちょっと危険なイベントクリアってやつだ。

 それにしても……死んだらログアウトするだけなのに……ホント大げさだよな、NPCの感情表現は。

 最近のゲームはリアルすぎて困るぜ。このユウの迫真の演技、アカデミー賞ものだろ。


 そう、ここはゲームの世界だ。

 そうに違いない。

 そうでなければ、オレは――。


 あの日、最新型VRヘッドセットと共に鳴り物入りでリリースされた「アークスフィア・オンライン」。

 通称――「アクフィア」

 初めてプレイしたVRMMOの、あまりにもリアルな没入感に感動し、夢中でプレイしていたら、いつの間にかログアウトの方法がわからなくなってしまったのだ。

 そう、いくら探してもログアウトのためのコマンドも、ボタンも、メニュー画面すら、影も形も存在しない。

 最初はパニックになった。現実のオレの身体はどうなってしまうんだ、と。

 他のプレイヤーはどうしている? 運営からのアナウンスは? 何もかもが不明だ。

 だが、VRMMOの世界は現実世界よりも時間の流れが極端に遅い。具体的に、どの程度時間の流れが遅かったのか覚えてはないが。

 それに、実家には心配性の両親がいる。あと、大切な妹も。何日も意識不明でいれば、流石に誰かが気づいて病院にでも運んでくれるだろう。

 そう高を括っていた。

 しかし、この世界に来て一週間が経つ頃には、その楽観的な考えは脆くも崩れ去り、得体の知れない不安が雪だるま式に膨れ上がっていった。

 オレには、帰らなきゃならない理由がある。なんとしてでも現実で果たさなきゃいけない大切な約束があるんだ。

 だというのに、もし、万が一、これがゲームじゃなくて……本当に異世界に転生してしまったなんてことになったら? そんな馬鹿なことがあるはずないが、もしそうなのだとしたら、オレは現実の約束を破ることになる。

 それだけはあってはならない。


 ……そうだ、死ねば強制的にログアウトするはずだよな、と。

 他のVRMMOをやったことがないが、確かそういうシステムが一般的だったはず。ゲーム内で死ねば、「ゲームオーバー」の文字が流れ、強制的に現実で目を覚ます仕様のはず。


 その結論に至って以来、オレの行動は、周りから見れば無謀極まりないものになったらしい。

 例えば、深淵の迷宮ラビリンスと呼ばれる、明らかに自分のレベルに見合わない高難易度ダンジョンに単身で挑んだり。

 あるいは、凶暴なグリフォンの群れに襲われている行商隊キャラバンを助けるために、無謀にも突撃したり。

 オレとしては「ちょっと死んでくるか」程度の軽い気持ちだったのだが……。

 困ったことに、このゲームは痛覚が妙にリアルで、剣で斬られれば激痛が走り、魔法で焼かれれば身悶えするほどの苦痛がある。

 頭では「死んでもログアウトするだけ」と理解していても、本能が「死にたくない!」と叫ぶのだ。

 だから、いつも危険な状況に飛び込みつつも、心のどこかでNPC相手に何をやってるんだかと自嘲しながらも、必死に生還を目指してしまう。

 そして、なぜかいつも奇跡的に生き残ってしまうのだ。

 運が良いのか悪いのか……。早くログアウトしたいのに、ちっとも死ぬことができない。

 本当は今すぐにでも自殺すべきなんだろうが……。


 今回も、そうだった。

 数日前、冒険者ギルドに、血相を変えた少女が駆け込んできた。

 曰く、彼女の故郷であるエルムウィンド村が、「貪食の魔獣グラドギオルム」という名の、巨大な魔物に襲われた上、母親を含めた村人たちが人質に取られ、村の古井戸に立て籠もっている、と。


 グラドギオルム……その名は、この地方では災害級の魔物として知られ、並の冒険者パーティーでは歯が立たないどころか、返り討ちに遭うのが関の山だ。

 ギルドに居合わせた冒険者たちは、少女の必死の懇願に同情こそすれ、誰も名乗りを上げる者はいなかった。

 王都に救援を要請し、騎士団の派遣を待つしかない。しかし、それには最低でも数日はかかる。それまで人質の母親やその他の村人たちが無事でいる保証はどこにもない。


 そういうことなら、オレが行くしかないだろう。どうせ死に場所を探しているようなもんだ。

 もちろん、ユウや他のパーティーメンバーに告げれば、また大騒ぎして全力で止められるのは目に見えている。

 だから、誰にも告げずに一人で村へ向かった。エルムウィンド村は以前訪ねたことがあるので行き方は知っている。

 上手くグラドギオルムを倒せればハッピーエンド。村人(NPCだけど)は助かるし、オレは英雄だ。

 もし失敗して死んでも、ログアウトして現実に戻れるだけ。どちらに転んでも、オレにとっては大きな問題ではない……はずだった。


 エルムウィンド村に辿り着いた時、オレは言葉を失った。

 そこは、かつて豊かな農村だった面影はなく、家々は半壊し、あちこちで黒煙が上がっていた。畑は踏み荒らされ、家畜小屋は無残に破壊されている。

 そして、村の中央に不気味に口を開ける古井戸からは、時折、獣の咆哮のような低い唸り声と、人々の悲鳴が聞こえてくる。

 NPCのはずの村人たちの絶望した表情、怯えた子供たちの泣き声……それらがあまりにもリアルで、オレの胸を締め付けた。

 らしくもなく、ズキリと痛んだ。……本当に、よくできたゲームだ。

 心の底から、この人たちを助けてあげたい、と思ってしまった。

 たとえ、それがプログラムされた存在だとしても。


 そして、グラドギオルムとの戦いが始まった。

 古井戸の底から姿を現したそれは、まさしく異形の怪物。猪めいた巨体にワニのような顎。巨大な口からは腐臭を伴う涎が絶えず滴り、地面を汚す。

 オレは愛用の長剣ロングソードを抜き放ち、奇襲。

 奴の攻撃は大振りながら、一撃が凄まじい。地面が揺れ、岩をも砕く爪が空を裂く。

 オレは必死に回避し、鱗の薄そうな関節や腹部を狙うが、だが奴の反応は速く、強靭な尻尾の一撃で壁まで吹っ飛ばされ、背中を強打。愛剣も弾かれ、絶体絶命だ。

 奴の爪が左肩を深く抉り、右足には蹄の一撃が炸裂。

 骨が砕ける鈍い音と激痛。

 おびただしい血で視界が霞む。

 ……もう立っているのもやっとだ。

「ああ、もうダメか。これでやっとログアウトできるか?」と弱気になるものの、井戸の奥から聞こえるNPCたちの悲鳴が、オレを現実に引き戻す。

 死んでもいいはずなのに、いざとなると生への執着が湧いてくる。

 矛盾しているのはわかっている。

 血反吐を吐き、意識も朦朧とする中、最後の力を振り絞る。奴がトドメとばかりに大口を開けた瞬間――がら空きの喉奥目掛け、折れた剣の切っ先を投げつけた。

 奇跡的に奴の弱点に深々と突き刺さり、致命傷を与えたらしい。

 グラドギオルムは断末魔の咆哮を上げ、やがてその巨体をゆっくりと横たえた……。


 ……やった。勝った……のか? まぐれ当たりもいいところだ。

 全身から力が抜け、オレはその場に崩れ落ちる。

 ああ、今度こそ本当に死ぬかもしれないな……。指一本動かせない。視界も、もうほとんど真っ暗だ。

 薄れゆく意識の中で、現実世界への未練が強く頭をよぎる。父さん、母さん、妹……心配かけてごめんな。これでやっと現実に戻れる。

 あぁ、このまま死ねば、ログアウトして現実に戻れるはずだ。……そうだよな? 間違いないよな?

 そんなことを思いながら、オレは静かに目を閉じた。


 次に意識が浮上した時、オレは冒頭の状況に戻っていたわけだ。

 ユウはオレの言葉に、一瞬だけ動きを止めたが、すぐにまたわっと泣き出し、さらに強くオレに抱きついてきた。


「だいじょぶ……なわけ、ないっ! アスマっち、血がいっぱい……うで、へんだし……! あんな、あんなボロボロで……! うぅ……こわかった……ほんとに、こわかったんだからぁ……! は、早く、治癒しないと……でも、手が、ふるえて、うまく、できない……っ!」


 ユウはしゃくりあげながら、必死にオレの傷に手をかざし、治癒魔術を施そうとする。淡い光が傷口を包むが、その光は弱々しく、すぐに消えてしまいそうだ。それでも彼女は諦めず、何度も何度も魔術を試みている。


「わ、わかった、わかったから……もう、大丈夫だって。ほら、ユウ、一回深呼吸。ゆっくりだ」


 オレはまだ動く方の右手で、彼女の背中をゆっくりとさすりながら、できるだけ穏やかな声で語りかける。

 NPC相手に何やってんだか、とは思うが、このままではユウが魔力切れで倒れかねない。

 それに……正直、この子の涙は、見ていて胸が締め付けられる。

 ダメだ、ダメだ。これはゲームの演出だ。感情移入しちゃいけない。こんな感情は、現実の約束を、オレ自身を壊してしまう。


 ユウの激しい嗚咽は、やがてしゃくりあげるような小さなそれに変わり、過呼吸気味だった呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。

 彼女の小さな手から放たれる治癒の光も、徐々に安定し、温かな感覚が傷口から広がっていく。

 オレ自身も、正直すぐに動ける状態ではなかった。全身の倦怠感と鈍い痛みは依然として強く、少しでも気を抜けば意識が遠のきそうだ。ユウの治癒魔術のおかげで、最悪の状態は脱しつつあるが、まだ時間はかかりそうだ。

 しばらくの間、オレたちはただそうしていた。戦いの後の静寂の中で、ユウの不規則な寝息のようなものと、時折聞こえる彼女の小さな鼻をすする音、そしてオレ自身の荒い呼吸音だけが聞こえていた。

 ユウはオレの胸に顔をうずめたまま、治癒魔術を途切れさせないように集中しているのか、それともただオレにしがみついているのか、判然としなかった。

 時折、オレの無事を確認するかのように、彼女が顔を上げ、そしてほんの一瞬だけ、安堵したような、泣き笑いのような表情を見せる。その純粋な笑顔に、また胸がズキリと痛む。

 ……だから、ダメなんだって。これはNPCの、よくできた表情変化だ。この暖かさに慣れてはいけない。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 ようやくユウが顔を上げた。泣き腫らした瞳は赤く、それでもオレの顔をじっと見つめてくる。その瞳の奥には、先程までの激情とは違う、静かで、しかし底なしの深い絶望の色が宿っていた。彼女の手は、まだオレの傷に触れたままだ。


「……だいぶ、マシになった……みたい。でも、まだ全然ダメ。アスマっち、無理だけはダメだよ……」


 か細い声でそう言うと、ユウは再び俯き、ポツリポツリと話し始めた。その声は、治癒の光のように弱々しく、しかし確かな重みを持っていた。


「キバもリフィカも……アスマっちのこと、すごく心配してる。あたしだけじゃないんだからね……みんな、アスマっちがいないと、ダメなんだから……」


 ……まただ。この子たちは、まるで本当に感情があるかのように振る舞う。

 それが、このゲームの凄さであり、同時に……オレをこの世界に繋ぎ止めようとする甘い罠だ。この罠に囚われたら、オレはもう帰れない。


「ねぇ、アスマっちは、どーしていつもいつも、自分のこと……そんなに『軽く』扱えるのかなぁ……。アスマっちがいなくなったら、あたしがどれだけ悲しいか、どれだけ……『世界が終わっちゃう』みたいな気持ちになるか、全然わかってないでしょ……。お願いだから……ね? あたしの幸せは、アスマっちがここにいてくれること、ただそれだけなんだから……。だから、こういうことはもうやめてよ……っ」


 ユウの言葉は、先程までの錯乱した叫びとは違い、静かだが、それゆえに一層深く、重い響きを持っていた。

 彼女の白い頬を伝う涙は、治癒の光に照らされて、まるで宝石のように煌めいては、ぽたぽたと地面に染みを作っていく。

 気持ちは……うん、痛いほどわかる。

 ここまでオレのことを思ってくれるなんて、正直めちゃくちゃ嬉しい。

 NPCのセリフだとしても、ここまで感情移入させるなんて、このゲームのシナリオライターは天才かよ。

 ユウだけじゃない、キバも、リフィカもみんな妙にオレに懐いてくるしな……。


 ……だが、それはそれ、これはこれだ。

 ここは所詮ゲームの世界で、オレはいつか必ず現実に戻らなきゃならない。

 ユウや、他の騒がしいけど可愛いパーティーメンバーたちに別れを告げるのは……まあ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ寂しいかもしれないが。

 仮に死んでログアウトした後も、なんらかの方法でログインすればまた会えるはずだろ。何度も再挑戦できるのがゲームの醍醐味……のはずだよな?


「わかったよ、ユウ。これからはこんな無茶はしない。絶対に約束する」


 オレは努めて優しい声色を作り、そう口にした。

 頼むからさ、これで納得してくれよ。オレだって、これ以上ユウの泣き顔を見るのは辛いんだ。

 たとえそれが、よくできたCGとAIによるものだとしても。この子の涙は、なんだか見ていて胸が苦しくなる。

 ……ああ、まただ。また、絆されそうになっている。このままでは、本当にまずい。


 しかし、ユウはオレの言葉を聞くと、なぜか顔を青ざめさせ、そして力なく、絶望に染まった瞳でオレを見つめた。

 治癒の光が、一瞬揺らいだように見えた。


「……また、それだ。アスマっちはまたそーやって、あたしに嘘つくんだね……。もー……もー、いい加減にしてほしいんだけどな……。アスマっちの、ばか……大っ嫌い……ううん、今のやっぱ、なし……」


 ユウはそう言って、諦めきったような、それでいて深い闇に突き落とされたような表情で呟く。

 最後の一言は、ほとんど息も絶え絶えだった。

 うっ、マジかよ……。どうやらオレの内心は、この小さな少女にはお見通しらしい。

 だが、だからどうしたというのだ。

 どうしよう。なんて言えば彼女は納得してくれるんだ……?

 ゲームやログアウトのことを言ったところで伝わるはずもないし、そもそもオレには彼女の感情に本気で寄り添うつもりなど――いや、寄り添ってしまったら、本当にこの世界から出られなくなりそうで怖いんだ。

 この居心地の良すぎる世界に、甘えきってしまいそうで。

 現実から、逃げ出してしまいそうで。あの約束を、果たせなくなりそうで。


 その時だった。

 ふいに、ユウの顔がぐっと近づいてきた。

 え、ちょっ……ユウさん? 近い近い近い!

 違和感。それが唇に触れた柔らかな感触だと気づくまで、数秒。いや、もっと短かったかもしれない。

 ユウの顔が、目の前にあった。閉じた瞼が微かに震えていて、長い睫毛が頬にかかっている。甘い、ユウの香りが鼻腔をくすぐる。柔らかくて、温かくて、少しだけ震えている唇が、オレの唇を塞いでいた。

 それは、想像していたよりもずっと強引で、有無を言わさぬ迫力があった。

 まるで、これが最後の祈りだと言わんばかりの、悲壮感すら漂っていた。

 あたしだけのアスマっち、とでも言いたげな独占欲が、その小さな体から溢れ出ているようだ。

 息が……できない。

 頭が真っ白になる。思考が完全に停止するって、こういうことを言うんだろうな。

 ユウの小さな手が、オレのボロボロになった服の裾を、ぎゅっと強く握りしめているのがわかった。

 まるで、溺れる者が掴む藁のように。いや、これが最後の絆だと、必死に訴えているように。

 どれくらいの時間が経っただろうか。本当に息が詰まりそうで、脳に酸素が供給されていないような、そんな感覚。

 限界を感じたオレは、思わずユウの肩を掴んで、そっと引き離した。

 ……じゃないと、マジで窒息するところだった。


「……ぷはっ。ねぇ、アスマっち」


 顔を真っ赤にしたユウが、潤んだ琥珀色の瞳でじっとオレを見つめてくる。

 その瞳には、先程までの怒りの色はなく、ただひたすらに真剣な、そしてどこか縋るような、今にも砕け散ってしまいそうなほど脆い光が宿っていた。


「今ので……今のでちょっとは、あたしの……その、本気、ちゃんと伝わってるといいんだけどな。あたしね、アスマっちが……アスマっちだけが『ここにいてくれる』なら、本当に、他には何もいらないんだよ。この世界が、アスマっちにとってどんな『つまらないもの』だとしても、アスマっちさえいれば、あたしにとっては全部なの。……大好き、なんだ。アスマっちが、どうしようもなく大好きなんだよ……。だから……だからさ、お願い。あたしのために……ううん……『あたしがこれから先、生きていくために』、アスマっちには『ここにいて』幸せになってほしいの……。……ねぇ、アスマっち。ここから、もうどこにも行かないでくれる……? だから、お願い……あたしを、この絶望の中にひとりにしないで……? もう、アスマっちがいないこの世界で、息をする方法なんて、あたしにはわからないんだ……本当に……」


 最後は少し照れたように俯きながらも、その言葉には拭いきれない重さと、オレの心を…いや、オレの「ログアウトしたい」という固い決意を揺るがすことのない、彼女だけの深い絶望と、そしてオレには届かない――届いてはいけない――狂おしいほどの愛情が込められていた。

 マジか……。マジのマジで、マジか……。

 このNPC、感情表現が豊かすぎるだろ。

 いや、薄々……本当に薄々だけど、ユウの好意には気づいていたかもしれない。

 でも、それはきっと気のせいだって、このゲームのよくできた演出だって、自分に言い聞かせて全力で無視してきた。

 だって、ユウは本当に可愛い。

 普段はちょっとおちゃらけていて、悪戯っぽく笑う顔も、オレをからかう時の楽しそうな表情も、全部がとんでもなく魅力的だ。

 そして、いつもふざけているようで、時折見せる真剣な眼差しや、さりげない優しさに、オレは何度も何度も救われてきた……気がする。

 いや、気のせいだ。そうに違いない。そんな簡単に絆されてたまるか。

 もし、ここが現実の世界だったら……。

 もし、ユウが現実の女の子だったら、オレは……。

 いや、考えるだけ無駄だ。こんな……こんなに理想的でオレを想ってくれる子が、現実にいるはずがないんだから。いるわけがない。

 そう、彼女はこのゲームがプレイヤーの感情を揺さぶるために生み出した、最高のNPCなのだから。

 この暖かさに、この優しさに、この愛情に、本気で応えてしまったら、オレは……。


 くそっ……!

 いつまでもこの世界に居続けたら、この甘すぎる理想郷に、オレは本気で染まってしまいそうだ。

 現実よりもこっちがいいなんて、馬鹿なことを本気で考え始める前に……!

 この世界から早くログアウトしなくてはいけない。

 ユウだけじゃない。あの、オレ何かとオレに勝負を挑んでくるけど本当は心配性な獣人のキバも、いつも意地悪なことをいいつつよき理解者の魔術師リティカも、きっとオレがいなくなったら大騒ぎするんだろうな……NPCのくせに、本当に厄介で、そして……少しだけ、愛おしいなんて思ってしまいそうになるから。

 ……だからこそ、早く帰らないと。これ以上、彼女たち(のプログラムされた感情)に妙な期待をさせてしまう前に。

 オレがこの世界はゲームじゃないかもしれない、なんて馬鹿なことを考える前に。

 この胸の奥で疼く、名前のつけられない感情から、目を逸らし続けなければ。

 現実の約束を、守るために。


 なぜならば、この世界はVRMMOなんだから。

 ……そうに決まっている。それ以外の可能性など、オレは絶対に認めない。


 そう絶対に……。

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