夢追いのマーメイド
時東健治
第1話
また、あの日の夢だ。
5年前、ディーヴァの選考会に出場していた。大勢の観客と審査員の前に立ち、全力で歌った。そして全員の歌唱が終わり、候補者が壇上に立ち並ぶと、会場の照明が落ち、静寂が訪れた。次の瞬間、スポットライトが照らしたのは、ハルカではなく親友だった。会場が喝采に包まれる中、呆然と足元の影を見つめていた。親友の勝利を称えることも出来ずに、私は涙を流しながら会場から走り去る。
――その瞬間、ハルカはいつもそこで目が覚める。カーテンを開くと、窓の外は暗く、朝の光はまだ出ていない。海上都市「ラグーナ」島。この島は人魚の末裔であるマーメイドと呼ばれる種族が人間とともに多く住んでいる。人間との長い交配の末、尾やえらといった水中で過ごしていた名残を失い、ハルカたちは人間とほとんど変わらない姿になっている。
ハルカはカーテンを閉めると、鬱屈とした気分でベッドに寝転がった。寝汗で髪が首や頬にまとわりついて、不快感が消えない。さっきまで見ていた悪夢のせいだ。ハルカはそう結論づけてベッドの中で何度も寝返りを打ち、時間が過ぎるのを待った。
結局朝まで寝ることは出来なかった。目覚まし時計が鳴った瞬間に時計を止めると、重い身体を引きずるように一階まで歩いていく。
「おはよう」
お母さんは台所で朝食を作りながらこちらを見ることなく、あいさつをする。
「ん」
ハルカは小さく返事をすると、リビングの窓際の席に座る。大きな窓に近いこの席は小さい頃からのお気に入りの場所だった。
「お姉ちゃん、今起きたんだ」
8つ年の離れた妹のアキナは少し呆れたようにハルカを一瞥する。朝食はすでに食べ終えたようで、制服に着替え終えていた。机の上には何枚もの紙が広げられていて、熱心にそれを見つめていた。
「……それ、何かの宿題?」
ハルカがお母さんの用意した食パンを頬張りながら尋ねると、アキナはツインテールを少し揺らして、軽くため息をついた。
「……これは今度授業の課題で歌う歌詞と楽譜だよ。ディーヴァの試験はもう来年の高等学校から始まるんだから当たり前でしょ」
「そっか。……もうそんな時期なんだ」
かつて水中や海上で歌を響かせていたマーメイドたちの文化は現代では競技として形を変えていた。歌の上手さを競い、いつしか各水上都市の中から十代の高等学校の女生徒の中で最も優れた歌を披露した若きマーメイドがディーヴァとして選ばれる――これがマーメイドたちの憧れだった。
「私は絶対ディーヴァになりたいの。そのためにラグーナの中でも最難関のラグーナ第一高校に行くつもりだから。そのために毎日練習して一歩でも早く実力をつけないと。最近声帯も発光し始めたし」
「え、もう声帯が発光し始めたの」
才能のあるマーメイドは一定以上の歌唱力が身につくと、歌うときに声帯が発光するという特徴があった。全員が発光するわけではないが、少なくとも歴代のディーヴァはほとんどがその人独自の色を持って歌っている。その一方で大半のマーメイドが声帯を光らせないまま一生を終えることも珍しくない。
ハルカや過去に競っていた候補生たちも高等学校に入ってからようやく声帯が発光し始めた中で、中学生の時点で声帯を発光させているアキナはまさしく才能の塊といって差し支えないだろう。
「わざわざ言う必要ないかなって思ったから。……もう声帯も発光しなくなったお姉ちゃんに言っても仕方ないけど」
アキナの言葉に喉の辺りがちくりと痛む。かつて自分の声も、淡い黄金色に光っていたことを思い出す。ディーヴァの選考会に落ちた日から、ハルカの声帯は輝きを失っていた。
「行ってくるね。あ、今日も練習で遅くなるから」
アキナは素っ気なく言うと、楽譜を片付けてそのまま学校に出かけて行く。
「アキナったらまたあんな事言って。……ディーヴァのことになると、あの子も口が悪くなっちゃうだけだから。気にしすぎちゃだめよ」
「……分かってるよ」
ハルカは朝食のご飯と焼き魚を一口ずつ噛みしめるように食べる。いつもは丁寧に取り出す小骨も身と一緒に飲み込んでいく。
「そういえばハルカ、あんたももう2カ月もすれば働き始めるんだから、スーツを買い替えておきなさい。 アキナもちょうど新しい服が欲しいって言ってたから一緒に行けば? お金なら少しくらい出してあげるし」
「んー。考えとく」
お母さんの提案を聞き流したものの、ハルカはまた気が重くなる。ハルカは高等学校の教師になることが決まっていた。それもアキナが志望し、ハルカの母校でもあるラグーナ第一高校だ。
「でもディーヴァの選考会に出ていたってだけでも就職に有利なんだから、本当にすごいわよね。私なんて目指そうとも思ってなかったわ」
お母さんは話しながら、ハルカの横に座り、自分の分の朝食を食べ始める。大半のマーメイドたちはディーヴァを憧れるだけで終わってしまう。ディーヴァの選考会に出たというだけでも世間一般では誇らしいもので、実際選考会ですぐに落ちたハルカの同年代の娘でさえも大学に入ってからラグーナの中で良い条件の会社に入社が決まっている。
「あんたも就職活動始めるのが遅かったのにラグーナ第一高等学校の教師になれるなんて、他じゃ滅多にないことなんだから。頑張りなさいよ」
「……はいはい」
ハルカは朝食を食べ終えて、部屋に戻る。飲み込んだはずの小骨がいつまでも喉の奥に引っかかっているような感じがした。
◇ ◇ ◇
週末、ハルカは電車に乗ってアキナと一緒にラグーナの商業区画「コーラル」に来ていた。コーラル区画は珊瑚礁をイメージした独特の形状と色彩豊かな建物が特徴の街だ。若者に人気のファッションや映画館、出店などが多く建ち並び、島内の娯楽の最先端といってもいい場所になっている。ハルカも高等学生時代にはよく友人と遊びに来ていたことを思い出す。
「ほら、お姉ちゃん。早くしないとお店閉まっちゃうよ。今日は気になってたブランドの店、全部巡らないといけないんだから急いでよね」
アキナは急かすようにハルカの腕を掴んで道路に飛びだそうとする。
「アキナ。今は車が通っているでしょ。危ないよ」
「あ……ごめん」
アキナは照れくさそうにハルカから目をそらすと、信号が赤から青に変わるのをじっと待っている。ディーヴァのことが絡まなければ、こういうところは年相応なのだと思うとハルカは少し可笑しくなる。
地味な格好のハルカと違い、整った顔立ちに校則に違反しない程度に染めた茶髪のツインテールを揺らしながら話しかけるアキナは目を引くのか、周囲の人たちの視線がこちらに投げかけられているのが少し恥ずかしかったが、アキナ本人は気にしていないようだった。
信号が青に変わると、交差点の横断歩道に多くの人が行き交う。横断歩道を抜けて目的の店に向かおうとしたとき、アキナがふと足を止める。
「あ、アイカさんだ」
アキナの言葉に足を止めて視線の先に顔を向けると、大手ファッションブランドが多く入る高層ビル壁面の大型モニターに音楽とともに赤を基調としたドレス衣装に身を包んだ切れ長の目が特徴の美しい女性が映し出される。女性は堂々とした佇まいでビブラートのかかった迫力のある歌声を披露していた。最近発売したらしい新曲の宣伝広告のようだった。十数秒ほど映像が流れると、すぐに別の広告に切り替わった。
「アイカさん、やっぱり上手いなあ。流石ディーヴァ」
アキナは聞き入っていたのか、その場で足を止めて先ほどのアイカの歌を口ずさむ。
円城アイカ。彼女は今最も勢いのあるディーヴァの一人だ。赤色に発光する声帯を持ち、老若男女問わず聴いた者を魅了する歌声はまさしくディーヴァと呼ぶにふさわしい実力を兼ね備えている。かつてハルカの同期として、親友としてディーヴァの座を競い、ハルカを打ち負かした。
「久しぶりにアイカの歌を聴いたな……」
「はあ……。お姉ちゃん、それ本気で言ってるの」
ハルカが小さな声で呟くと、アキナは呆れたように大きくため息をついて早々と歩き始める。急に歩調を速めるアキナの後ろをハルカは慌てて追いかける。
「ちょっと。急に何」
「うるさい」
何度呼びかけても頑なに距離を取ろうとするアキナの後ろ姿に、ハルカも段々と苛立ちが募ってくる。
「何が気に障ったのか知らないけど、理由くらい話してよ」
「何? お姉ちゃんには関係ないでしょ」
「そんなイライラして歩かれたらこっちだって気分悪い」
「ディーヴァの曲ももうきちんと聴いてないじゃん。そんなお姉ちゃんに話すことなんてないよ」
そう言ってアキナは往来から少し離れた路地まで来るとようやく立ち止まった。じっとにらみ付けるアキナの目にはハルカへの失望が感じられた。
「……どういう意味?」
ハルカは数日前に見た悪夢を思い出しながら、一字一句確かめるようにゆっくりとした口調で聞き返す。なるべく平静を装ったつもりだったが、自分でも分かるくらいに声色は低かった。
「そのままの意味だよ。ディーヴァを簡単に諦めるようなお姉ちゃんと話すことなんて何もない」
「昔の話でしょ。……私だって簡単に諦めたわけじゃ」
「嘘! 最後の年だって本当はまだ候補生としてチャンスがあったのに、すぐに諦めたじゃん!」
「それは……関係ないでしょ。誰だってアイカやアキナみたいに才能があるわけじゃない」
ハルカはアキナから目をそらす。何も後ろめたいことはないはずなのに、どうしてかこれ以上アキナの目を見ることが出来なかった。
「その話はもうこれで終わり。もう戻るよ。今日は私のスーツを買いに来たんだから」
そう言ってアキナの腕を掴むと、たちまち強い力でハルカの手が振りほどかれる。
「……私は夢を諦めたくない。お姉ちゃんみたいになりたくないの!」
「アキナ!」
ハルカの視界に映る右手がアキナの頬を平手打ちしたことに気づく。アキナは黙ったまま、少し赤くなった左頬を手でおさえていた。うつむいた顔は前髪に隠れてうかがい知ることが出来ない。ハルカは衝動的にアキナに背を向けて走り出した。アキナは追いかけて来ない。ハルカは右手に残る痛みに唇をぎゅっと噛みしめた。
◇ ◇ ◇
お姉ちゃんは昔から私の憧れだった。アキナは遠くなる姉の背中を見送りながら、ふと懐かしむようにそんな事を思い出す。お姉ちゃんは昔から歌うのが好きで、私も楽しそうに歌うお姉ちゃんの姿を見るのが好きだったし、そんなお姉ちゃんに影響されて自分も歌うことを始めた。
5年前、当時は小学生だったが、お姉ちゃんがディーヴァの選考会に出場すると知ったときは我が事のように喜んでいた。結果は残念だったが、お姉ちゃんはまた一緒に歌い続けるだろう。そう思っていた。だがお姉ちゃんは歌うことを辞めた。いつしか声から光を失い、私の前を歩くお姉ちゃんの姿はいなくなってしまった。そのときから私の中でお姉ちゃんへの憧れを失い、失望するようになっていた。
アキナは一人でコーラル区画にオープンしているファッションブランドのフラッグシップストアや店舗をいくつか回ったが、どれも気に入らないまま時間だけが過ぎていった。未だに痛む頬を指でなぞる。跡が残るような強さで叩かれていなかったはずだが、しこりのように痛みが残っていた。
「はあ……」
ファッションショップを出ると、アキナは立ち止まって深く息を吐いた。夕方を知らせる放送がどこかから聞こえてくる。夕方の空には雲が出始めていて、天候が変わりそうな空模様だ。お姉ちゃんはもう愛想を尽かして帰ったのかもしれない。
「どうしていつもあんな風に言っちゃうんだろう」
脳裏には頬を叩かれたときの泣きそうなお姉ちゃんの顔が思い浮かぶ。ディーヴァのことが絡むとつい感情的になってしまうのは自覚していた。考えてみれば自分もディーヴァになれる保証なんてどこにもない。3年後に自分も選考会で落選している、もしくは出られない可能性だって十分にありえる話だ。そんな未来が訪れたときに、お姉ちゃんに言った言葉がどれほどの痛みになるのか、想像もしたくない。
「……謝らなきゃ」
そう決意して駅の方向に歩こうとしたとき、カバンの中に入れていたスマホから着信を知らせる音楽が流れてくる。お母さんからの電話だ。
「もしもし? どうしたの」
「あ、アキナ? 今ハルカと一緒? 帰りに買ってきてもらいたいものがあってハルカに電話したんだけど返信も電話もつながらないから、アキナに電話したのよ。ハルカは一緒じゃないの?」
お母さんの疑問にどう答えればよいか、声を詰まらせる。
「いや、お姉ちゃんとはちょっと今離れてて……」
そう言ってアキナは家族のスマホの位置情報が分かるアプリを起動する。災害時に備えて家族で入れていたアプリだったが、こんなときに使うことになるとは思っていなかった。
「……あれ」
アプリを起動してお姉ちゃんの位置情報を確認すると、コーラル区画の端にある海の近くだった。
「ごめん、ちょっと急ぐから電話切るね」
お母さんの言葉を待たずに電話を切ると、途端に何か嫌な感じがして走り出す。頬の痛みは無くなっていたが、息を吸うたびに、冷え切った空気が胸を締め付ける。日は刻々と沈み始めていた。
◇ ◇ ◇
どれくらい歩いただろう。ハルカは潮風の匂いを感じてようやく足を止めた。人々の喧噪から逃れるようにひたすら歩き続けたせいか、ふくらはぎや足裏に張り詰めたような痛みが襲いかかってくる。辺りを見渡すと、街から離れた波止場の近くまで来ていたようだった。波止場に続く道の枯れた落ち葉を、時折吹く冷たい横風がさらっていく。
「私のようになりたくない……か」
アキナから言われた言葉を何度も口の中で反芻する。
5年前、高等学校の生徒だったハルカは学内の競争に勝ち上がり、同級生のアイカと学校代表として選ばれていた。当時は自分の実力に絶対の自信を持っていたし、アイカも他のライバルも圧倒してディーヴァになれると疑っていなかった。だが選考会の当日、ディーヴァの階段を駆け上がったのはアイカだった。その日以降、ハルカの声帯は光を失い、何事も諦めることが多くなったように思う。
「ちょっと、大丈夫?」
「え?」
不意に話しかけられて思わず横を見ると、白い外套に身を包んだ老婦人が心配そうにハルカの顔を覗き込んでいた。
「あ、す、すみません」
いつの間にか足を止めていたことに気づき、慌ててその場から離れようとする。
「もしかして自殺……とか考えていないわよね? とても思い詰めたような顔で海に向かっていたから」
「あ、いやそんなことは」
そう言ったものの、今の自分はとてもひどい顔をしていることは想像に難くない。
「あなた、ちょっとお時間あるかしら」
老婦人はそう呼び止めると、波止場近くにぽつんと置かれた休憩用のベンチを一瞥する。ハルカは何か気恥ずかしさがあったが、黙って老婦人の小さな背中を追いかけることにした。
ベンチに座ると、寒期の風にさらされていたせいか身のすくむような冷たさが身体に伝わってくる。薄闇色の空は底冷えする寒さを感じさせて、今夜は雪の降る気配がした。
「ごめんなさいね。待たせたわ」
老婦人はハルカの横に座ると、自販機で買ってきたお茶を手渡してくる。
「あ、わざわざありがとうございます。気を遣わせてしまったようで。お代はすぐお支払いします」
「いいのよ。私が勝手に誘ったんだから」
そう言って老婦人はハルカの横に座ると、ペットボトルのキャップを開けて湯気の立つお茶を口につける。ハルカはかじかんだ手を温めながら少し目を閉じると、暗闇の中からザアザアと聞こえてくる波の打ち返す音が何だか物悲しく聞こえてくる。
「ここはね、私のお気に入りの場所なの。いつも散歩でここに来るのよ。海の音を聞いていると、辛いこととか悩みとか忘れられるような気がして。私も昔からここに来ていてね……」
黙り込むハルカの横で老婦人は明るい口調でここ最近の出来事を話し始める。老婦人の何気ない話を時折相づちを打ちながらも、胸の奥が締め付けられるような気持ちは晴れなかった。
「私ばっかり話してしまって悪いわね」
「いえ、お茶をごちそうになってますし」
「……私は昔ディーヴァを目指していたんです。でも実力が足りなくて結局私は予選で敗退して、一緒に出場した親友がディーヴァになって……」
ハルカは視線を少し落とし、手の震えをごまかすように強く握りなおす。
「私はあの日ディーヴァになれなかったときから、こんなものなんだって諦めて、教師にでもなろうって思っていたのに……。今日妹に言われたんです。私みたいになりたくないって」
脳裏に浮かぶアキナの怒りと失望の混じった表情がハルカの胸をまた強く締め付ける。
「その言葉を聞いたとき、気づいてしまったんです。私はまだディーヴァを諦めきれてない。これからディーヴァになれるかもしれない妹の才能や立場に嫉妬してるんだって。アキナのようになれるならなりたい……。そう思っている自分がいたんです。それに気づきたくなくて、妹に平手打ちまでして、こんなところまでまた逃げてきて……。わ、わたし、ほんとうに、情けない……」
両手で顔を覆い、声を押し殺して泣くハルカを老婦人は静かに見守る。
「……私がディーヴァに憧れていたのは遠い昔の話だけれど、その気持ちは決して恥ずかしいものじゃないと思うわ。私も似た経験をしたことがあるから……」
老婦人はそう言うと、ハルカの肩に優しく手を置いて何度も優しくさする。ハルカは嗚咽をこらえながら、袖口に染みる数年ぶりの涙の温もりを噛みしめていた。
「お見苦しいところを見せてしまいました……」
「いいのよ。全然気にしないで」
数分経って泣き止んだあと、恥ずかしさから顔をそらす。老婦人はそんなハルカの様子に優しく微笑む。少しの沈黙のあと、老婦人が腕時計を一瞥する。
「あら、もうこんな時間。そろそろ家に戻らないと、晩ご飯の支度に間に合わなくなってしまうわね」
「あ、今日は本当にありがとうございました。お茶をもらっただけじゃなくて、その、話まで聞いていただいて……」
「私がお節介焼いただけよ。……ただその妹さんとはきちんと今の気持ちを正直に話した方がいいと思うわ。きちんと気持ちを伝えて話せば、最善にはならないかもしれないけど、お互いに納得は出来ると思うわ。……すれ違ったままは悲しいから」
老婦人は海の方に目をやる。皺の刻まれた優しげな顔に暗い影が落ちたように見えた。寂しげな瞳の奥には遠い日に別離した誰かの面影が浮かんでいるのかもしれない。
「それじゃあ私はそろそろ行くわね。妹さんと仲良くね」
老婦人は海に背を向けると、ハルカに手を振って街の方に足を進める。
「はい、私も……話してみます。妹にも、自分の気持ちにも向き合いたいから」
すっかり冷めてしまったお茶の缶を握りしめながら、老婦人の目をまっすぐに見つめる。老婦人は頷くと、もう振り返ることはなく静かに街の灯の中へと消えていった。ハルカは老婦人の背中が見えなくなるまで、じっと見送っていた。
◇ ◇ ◇
夜の海は暗澹として、一層冷え込んだ強く吹き付ける風と呼応するようにうねりながら何度も寄せては押し返す音が響いてくる。波止場の端でハルカは座り込んで海鳴りの音に耳を傾けながら、アキナにどのような言葉をかけるべきか思案していた。今でもディーヴァになる夢は諦めきれないし、アキナの才能に嫉妬している自分がいる。そのことを正直に伝えて、私の気持ち、そしてアキナの気持ちを知ることで私自身もアキナとの関係や気持ちの整理が出来るのかもしれない。あるいはもっと仲が悪くなる可能性だってある。それでも――。
そこまで考えると、ハルカは缶に残っていたお茶を一気に飲み干した。口の中に残る苦みを飲み込んで立ち上がろうしたとき、一層強い風が吹いたかと思うと、頬に冷たい感触があった。雪だ。たちまち空から降りしきる雪が海に吸い込まれて消えていく。もうアキナは帰っているだろう。スーツを買えなかったことに母は何か文句を言うだろうが、また来ればいい。今度は私からアキナを誘うようにしよう。ハルカがそう決心して海に背を向けたとき、暗闇の中からこちらに近づいてくる。足音だ。思わず身構える。
「お姉ちゃん?」
「え?」
聞き覚えのある声に少し警戒を解いて目をこらすと、そこにはアキナが立っていた。ここまで走ってきたのか、白い息が何度もアキナの口からこぼれている。
「何でこんなところに」
「いや、それはお姉ちゃんの方でしょ。スマホの位置情報オフにしてなかったから、それでここに来たわけ。……お母さんから返信ないって言われたし」
「あ」
スカートのポケットに入れたままのスマホを取り出して確認すると、お母さんからのチャットが何件も通知されていた。
「ごめん、気づいてなかった」
「そう。……まあ別に気にしてないけど」
アキナは目線をそらすと、そのまま黙りこんでしまう。ハルカもかける言葉が見つからず、アキナの顔をちらりと見る。アキナのうつむいた横顔にもどこか迷いのある表情が見え隠れしているようだった。沈黙の中、雪を呑み込んで風とともに揺れる波音が聞こえてくる。
「……今日はあんな風に頬を叩いちゃったこと、急にいなくなったこと本当にごめん。でもどうしても話したいことがあって。……聞いてくれる?」
「……」
アキナは変わらず黙り込んだままだったが、先ほどまでの沈黙と違い、話に耳をかたむけているのだと姉妹の長い付き合いの経験から何となく分かった。
「私、あなたに嫉妬してた。ディーヴァになれるかもしれないアキナの姿を見ていると苦しくて、自分の気持ちに嘘ついてた。本当はまだ夢を諦めきれて、ないのに……。それがとても惨めで悔しくて……」
寒さとは違う身震いをこらえながら懸命に胸の裡にある気持ちを絞りだしていく。
「でも……もしアキナがディーヴァになれるなら。……そのときは一番近くで見てみたい。ディーヴァになれなくても、アキナの隣でまた……一緒に歌いたい」
ハルカが言い終わると同時に、アキナは顔を上げる。アキナも目を潤ませて何かを噛みしめるようにハルカの目をじっと見つめる。
「私も本当はお姉ちゃんのこと……」
言葉を遮るように突き上げるような強風がハルカとアキナの間に吹き付ける。ハルカはたまらずのけぞると、左足が突然地面の感触を失って、吸い込まれるような錯覚を覚える。
「え」
「お姉ちゃん!」
アキナの絶叫がどこか遠くで聞こえるような気がした。私、落ちてるんだ。そんな他人事のような感想が頭の中をよぎる。狭まっていく視界の中で手を伸ばして飛び込んでくるアキナの姿が映った。
闇の中でハルカは泡に包まれていた。手足はもう感覚がなかった。泡が身体から離れていくたびに、自分という意識が海に溶け出して失われていくような気がした。アキナに抱きしめられている部分だけはかろうじて温かい。互いの体温が溶け合い、混ざり合うと新たな泡がいくつも生まれて浮かび上がる。幾重の記憶が走馬灯のように通り過ぎたあと、アキナの姿が思い浮かぶ。最後に何を言おうとしたんだろう。そんなことを思いながら意識を完全に手放した。
◇ ◇ ◇
目を開けると、白い天井が視界に入る。体全体が鉛のように重く、口元を覆う酸素吸入のマスクや腕に挿入されたチューブが目にとまる。未だぼんやりとした意識の中で、ここが病院なのだと思い当たる。
「竜宮寺さん?」
巡回に来ていたらしい若い看護師が驚いた表情とともにこちらに駆け寄ってくる。ハルカは返事をしようとしたが、目覚めたばかりで口を動かすことしか出来ずに声が出ない。返事代わりに少し頷くと、すぐに慌ただしい様子で病室を出て行く。
両親が病室にやってきたのは、看護師が出て行ってからしばらく経ってからだった。二人とも仕事を途中で切り上げてきたのか、スーツ姿だった。
「あんた、本当に目が覚めたのね。私たちもう駄目かと……」
泣きじゃくるお母さんの姿に少し困ってお父さんの方を見たが、いつも寡黙な父も目が赤く、潤んでいた。無事を喜んでくれているのは嬉しくもあり、むずがゆい気もした。
「あの子は残念だったけど、あなただけでも……」
お母さんの発言に不吉な予感とともに、アキナのことに思い当たる。アキナの所在を聞こうと口を開けたとき、看護師とともに医師が病室に入ってくる。
「竜宮寺さん。お目覚めになったようで何よりです。意識ははっきりしていますか。……半年も眠ったままでしたので」
「半年……」
思いがけない時間の経過に声を詰まらせる。
「そういえば……もう一人は……」
かすれた声で問いかけると、医師は困ったように黙りこんでしまう。両親の方を見ても、お互いに顔を見合わせて言いよどんでいるようだった。少し間を置いて、意を決したようにお母さんがベッドの側で座り込むと、少し震える手で私のやせ細った指を握りしめる。
「あの子は……ハルカは亡くなったの」
「……は?」
母の一言に思わず上半身を起き上がらせる。心臓がどくんと飛び跳ねるような鼓動を何度も繰り返している。頭に鈍い痛みがはしる。私はハルカだ。じゃあ私は一体……。心配そうに見つめる両親から顔を背けると、備え付けの真っ暗なテレビ画面に顔が映り込む。そこには紛れもないアキナの顔が私を見つめ返していた。
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