第2章:ことばにならない名前
第9節『祝子(ほうりこ)の記憶』
家へ戻った蓮(れん)は、戸を閉めると、そのまま囲炉裏の傍に座りこんだ。
ほたる婆の座っていた場所。まるで、そこだけ時間が止まっているかのように、灰の中に埋もれた炭がまだ、微かに温もりを残していた。
箒(ほうき)は隅に立てかけられたままで、湯を沸かしていたはずの鉄鍋(かなべ)も、蓋が傾いて冷えていた。
すべてが、少しだけ婆の不在を嘘(うそ)みたいに見せていた。
──ただいま。
声には出さず、心の中でつぶやいた。
けれど、その言葉の行き先はなくて、部屋に返ってきたのは静けさだけだった。
蓮は手を伸ばし、囲炉裏の横の床板に埋め込まれた小さな箱を開けた。
そこにしまわれていたのは、婆の形見の一つ──
薄い木片に彫られた、見慣れない紋(もん)。
何度見ても、蓮にはそれが何を意味しているのかわからなかった。
それでも、これだけはと、婆が言葉少なに渡してくれたものだった。
──それは、祝子の証かもしれん。
たしか、そんなふうに言っていた。
けれどそのあと、婆はぽつぽつと咳(せき)をして、うまく言葉にならなかった。
「……祝子(ほうりこ)って、何?」
ぽつり、と声が出た。
言葉に出してから、胸の奥にずしりと落ちた。
祝子──その響きは、聞き覚えのあるような、ないような、不思議な重みをもっていた。
すると、ふいに記憶の奥から、あのときの婆の手がよみがえる。
まだ蓮が、物心つくかつかないかの頃。
真夜中、囲炉裏の火を囲みながら、婆がひとつ、祈りのような唄を口ずさんでいた。
──月がめぐれば、櫂は目覚め
櫂がうたえば、祝子は歩む
祝子が歩めば、道がひらく
その声は低く、語りでもなく、唄でもなく、呼びかけのような響きをもっていた。
「櫂が……うたう……?」
蓮は木札を見つめた。
何も音などしない。ただ、木の香りと、ほのかな煤(すす)の匂いがあるだけだ。
そのとき、不意に戸が開いた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、遼馬(りょうま)だった。
彼は、いつもの軽さを押し殺したような顔で、手に湯の入った瓶(かめ)を抱えていた。
「さっき、村の井戸で湯をもらった。……飲むか?」
蓮は、うなずこうとして──やめた。
そして、問いの方を選んだ。
「……“祝子”って、知ってる?」
遼馬の眉が、ほんのわずかに動いた。
「どこでそれを?」
「婆が言ってた。木札を渡すときに、……それが祝子の証かもしれん、って」
しばらくの沈黙。
遼馬は、何かを測るような目で蓮を見ていたが、やがて、静かに言った。
「都(みやこ)でも、その言葉を耳にすることは、滅多になかった。……書物で見た限りだと、ずっと昔、薄民の間にいた“特別な役目の者”のことを、そう呼んだらしい」
「役目?」
「……精霊(もの)を鎮(しず)める者、だとか。火を操る者、だとか。……でも、それが実在したのかどうかは、定かじゃない。伝承の域を出ない記述だった」
蓮は俯(うつむ)きながら、手のひらの木札を見つめた。
まるで、問いかけるように。あるいは、自分自身に重ねるように。
遼馬は囲炉裏の向かいに座り、湯を注いだ。
白い湯気が、ふわりと二人のあいだに立ちのぼる。
「その札、見てもいいか?」
蓮は、ほんの一瞬だけためらって、それでも黙って差し出した。
遼馬は両手で受け取り、陽にかざすようにして、木の面をじっと見つめた。
「……やっぱり、見たことはないな。ただ──」
言いかけて、言葉を切る。
「ただ、何かを思い出しそうなんだ。……どこかで、似た紋を見た気がする。でも、うまく引っかからない。……まるで、誰かに見せられた夢みたいだ」
蓮もまた、頷いた。
「おれも、そんな気がする。……夢だったのか、昔ほんとに見たのか、わからないけど。──でも、火の音と一緒に、その言葉が浮かぶんだ。“祝子”って」
囲炉裏の奥で、炭がはぜる。
二人のあいだに落ちた沈黙は、前よりも少しだけ、やわらかだった。
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