第2章:ことばにならない名前
第5節:木札の名は、櫂(かい)
祠の奥、土に沈みかけた小さな石垣の裏手。
そこに、誰かが落としたように、ひとつの木札(きふだ)が転がっていた。
朽ちかけた紐。掠れた文字。
けれど、それは蓮にとって、どこか懐かしい形をしていた。
──違う、“どこか”じゃない。
何度も、夢の中で見た。
細い指がそれを持ち、ゆっくりと振っていた光景。
誰かが名を呼ぶたびに、ひらひらと揺れた、あの札。
祝子(ほうりこ)に伝わる、祈りの木札──《櫂(かい)》
拾い上げた瞬間、蓮の中で何かがずるりと動いた。
身体ではなく、もっと深いところ。
名もつけられない感覚が、胸の底から湧いてくる。
「これ……」
ぽつりと呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。
遼馬は黙ってその様子を見つめていた。
風が吹き、木々がさわさわと揺れる。
祠の前の空気が、ふっと、少しだけ澄んだように感じた。
「祝子のもんかもしれん、って……ほたる婆が、むかし言ってた」
蓮がぽつぽつと話し始める。
おぼろげな記憶。はっきりしない言葉。
でも、それが確かに「自分の一部」だったことを、蓮は知っている。
「でも、よう思い出せん。……あんとき、婆は泣いてた気がする」
木札を手にしたまま、蓮はじっとそれを見つめる。
遼馬は何も言わなかった。ただ、そばに立っていた。
ふと、蓮が顔を上げる。
「──あんた、何か知ってるん?」
目が合う。
遼馬はゆっくりと首を横に振った。
「知らない。……けど、見てたいと思った」
「……は?」
「おまえがそれを拾ったときの顔。まるで、……」
言いかけて、遼馬は言葉を切った。
蓮は少しだけ眉をひそめる。
「まるで?」
「……名前を、やっと思い出せた子どもみたいだった」
蓮は目を逸らした。
風の音が、またひときわ強く吹き抜ける。
木札は、ひらりと、風に揺れた。
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