第2章:ことばにならない名前
第2節:あしおと、音のない問いかけ
昼下がりの市場は、ひとときの喧騒を終えて、熱の残り香だけが石畳の上に滲んでいた。
蓮はふたたびひとりで歩き出していた。人混みに紛れていたあの短い時間も、気づけばもう、遠いもののように思えた。
そんなとき、不意に肩を叩かれた。
「なあ。時間、あるか」
声に振り向くと、あの男──遼馬が、少しだけ息を弾ませながら立っていた。
さっきとは打って変わって、今度はどこか急ぎの気配がある。
「少し、案内してほしい場所があってな。……断ってもいい」
蓮は一度、視線を逸らした。
目の前の男をまっすぐ見ることが、なぜだか妙に、こそばゆかった。
――案内?
自分がこの町のどこを知っているというのだ。
けれど、口をついて出たのは、否定でも肯定でもなく。
「……どこまで?」
「森のほう。ちょっと気になるものがあってな」
その言葉を聞いたとき、蓮の胸に何かがざわめいた。
森、という響きは、蓮にとって“ただの地名”ではない。
けれど、それを言葉にできるほど、自分でも整理がついていなかった。
わずかに考えて、蓮は静かに頷いた。
ふたりの影が、傾き始めた陽に沿って伸びていった。
歩幅が合わない。
それが、たまらなく気に障った。
木々のざわめきが風に揺れ、地面に濃い影を落とす。森の道は細く、二人が並んで歩くには狭すぎたが、遼馬(りょうま)はさほど気にしていないようだった。ときおり前を歩き、また振り返っては蓮の歩みに合わせる。そのたびに蓮の歩幅が、わずかに乱れた。
「……こんなに森に入るの、はじめてかもしれん」
遼馬がふと口にする。
蓮は返事をしなかった。靴音だけが、くぐもって響く。
「ずいぶん静かやな」
「しゃべることもない」
蓮は、まるで吐き捨てるように言った。
遼馬は少し笑って、言葉を飲み込んだ。
ふいに、遼馬が足を止めた。小さな石に蹴つまずいたらしい。何もなかったように体勢を戻すと、くるりと蓮の方を振り返る。
「おまえ、怒ってんのか?」
唐突に問われて、蓮は眉を寄せた。
「……なんで」
「いや。さっきからずっと、棘あるように見えるし」
「……怒ってない」
答えながらも、声音は冷たい。
遼馬はそれ以上追及しなかった。ただ、どこか納得いかないように、蓮の顔をじっと見つめている。
その視線が鬱陶しくて、蓮はひとつ小枝を踏みしめた。ぱき、と音が鳴る。空気が少し、揺れた。
「……なあ」
遼馬が口を開いた。
「ひとつ、聞いてええか?」
蓮は無言のまま、顔だけを向けた。
その目の奥で、何かが小さく波打った。
「おまえ、その木札──どこで拾ったん?」
蓮の指先が、無意識に胸元へと伸びる。首に下げた革紐の先にある、あの
さっきからずっと、遼馬の視線はそこに落ちていた。
「ひろったわけじゃない」
「……じゃあ、なんなん。誰かにもろたとか?」
「わからん。覚えてない」
答えながら、蓮は目を逸らした。
思い出そうとしても、断片しか出てこない。ほたる婆(ばあ)の手のひら、小さな布に包まれていた記憶。そして──「それはな、祝子(ほうりご)の証かもしれん」と、誰かが言っていたような気もする。夢かもしれないし、本当だったかもしれない。
「……ずっと、持ってた」
「ふうん……」
遼馬が静かに頷いた。何も言わず、しばらく空を仰いでいた。
「そっか」
それだけ呟くと、再び歩き出す。
蓮は少し遅れて、その背を追った。
何も変わらなかった。なのに、何かが変わった気がした。
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