先生

@MeiBen

先生

 クソみたいに暑い。


 休日はいつも昼前ぐらいに起きる。これ以上寝てると近所の弁当屋が閉まるからだ。ノソノソと起き上がり、顔も洗わず歯も磨かず服だけ着替えて寝癖だらけの頭で部屋を出る。

 階段を降りてアパートの外に出ると大音量の蝉の鳴き声が迎えてくれた。クソみたいにいい天気で、陽の光が肌を焼く音がする。

 夏だ。呆れるぐらいに夏だ。

 弁当屋まで徒歩5分。オレは雪駄をカツカツ鳴らしながらダラダラ歩く。なぜ雪駄履きなのか?カッコつけてるだけだ。

 弁当屋に着くと扉を横に開く。涼しい風が肌に当たる。とても心地良い。オレはこの瞬間が好きだ。愛想の悪い店員の女がオレを睨む。仏頂面を下げてレジに立ち、オレの注文を待つ。オレは唐揚げ弁当を注文した。

 金を払い横の椅子に座る。エアコンの風が風鈴を揺らす。客はオレしかいないのに、店員はセカセカとせわしなく動き回っている。予約の注文でもあるのだろう。

 何もない時間だ。何も起こりえない時間。なんの特別もない時間。でも無性にこの時間が好きなんだ。でも店員の誰かがオレに話しかけてきたら、その瞬間に壊れてしまう時間。誰かしら知り合いがこの店を訪れたらその瞬間に壊れてしまう時間。ヒビの入ったガラスのような時間。永遠に続けと願う。

 唐揚げ弁当を手に店を出ると、また太陽がオレを焼く。オレはまたノソノソ歩いて部屋を目指す。

 アパートに辿り着きいつものように郵便受けを確認する。小さな蓋を開けて広告の束を掴みだす。その瞬間、一通の封筒があることに気づいた。オレは一通り広告に目を通し、脇にあるゴミ箱に放り込む。そして最後に残った封筒を見る。差出元は市役所だった。

 オレは封筒を持って部屋に入った。封筒を布団の上に投げ捨て、コップに水道水を注ぎ机の前にドサリと座り、弁当を食う。音が無いことに寂しさを感じて、スマホでYOUTUBEの動画を流す。

 昼飯を食い終わったオレは布団に寝っ転がり、封筒を破る。中にはもう一通封筒が入っていた。封筒の表には小さく綺麗な字で"遺書"と書かれていた。それを見てオレは思い出した。随分前に市役所に行ったときのことだ。


"繋がりが希薄になった社会に繋がりを取り戻す"

"あなたのメッセージを届けませんか?"

"遺言で誰かの人生を動かそう"


 そんな感じのポスターだった。馬鹿馬鹿しいと思った。こんな馬鹿げたことをやるやつはいないと思った。けど、オレにこの封筒が届いたということはその馬鹿がいたわけだ。

 差出人の名前を見る。女の名前だった。


"横川優子"


 全く見覚えのない名前だ。ただでさえ人付き合いの少ないオレだ。ランダムで届いた遺書が知り合いのものである可能性は宝くじ並みに低いだろう。それに当たり前だが、この女はもう死んでいるわけだ。でも知り合いの訃報は届いていない。

 まあいい。特にやることもない休日。暇つぶしができたことを喜ぶべきだ。オレは封筒を開けて中を見た。便箋が一枚だけ入っていた。オレはそれを取り出して開く。封筒の文字と同じく綺麗な字だった。






"拝啓 これを読んでおられる方へ

初めまして。横川と申します。


 あなたがこれを読んでおられる時にはもう私は生きてはいないと思います。このようなことを自分で書いていてると不思議な気持ちになりますね。

 私が生きられなくなる原因は分かりません。これまでにも何度も死にたいと思うことはありました。私が初めて死にたいと思ったのは、おじいちゃんが亡くなった時です。両親は共働きだったので、私の遊び相手はずっとおじいちゃんでした。遊び場はだいたい神社でした。神社は大きな田んぼの真ん中にあって、町の子供の定番の遊び場でした。でも私が子どもの頃には同世代の子供が全然いませんでした。だから私の遊び相手はいつもおじいちゃんでした。神社で二人でできる遊びなんて限られています。かくれんぼとだるまさんが転んだ。後はおじいちゃんが笛を吹いて聞かせてくれました。

 小学生の時でした。ある日、学校から帰るとおじいちゃんが入院することを伝えられました。それから間もなくおじいちゃんは亡くなりました。でも棺に入ったおじいちゃんを見てもなんとも思いませんでした。何をしているのかよく分からなかったのだと思います。

 おじいちゃんが車に乗って行った日の夕方。私は神社へ行きました。いつもおじいちゃんと遊んでいた場所でした。いつもみたいにお参りをしてから、境内の階段に座りました。そしていつもみたいに夕陽を眺めました。いつもみたいに綺麗でした。でも、いつもみたいに傍におじいちゃんがいませんでした。その時に私はようやく理解しました。これからはこれが続いていくのだと。これからのいつもはこうなるのだと、それを理解しました。その途端に身体がブルブルと震えました。寒くなんてないのに、身体が震えて止まりませんでした。寂しさ、孤独、一人ぼっち。世界に取り残されたような気がしました。日が暮れてお父さんが迎えに来るまで、私は階段の隅で小さくなって座っていました。

 それから数ヶ月後に、我が家にこなつがやってきました。こなつはコーギーという犬種の犬です。赤ん坊のこなつを抱いて、私は色んなところへ行きました。こなつと一緒に起きて、こなつと一緒に寝ました。

 夏休みは毎日ラジオ体操に行きました。こなつはよく分からないという表情で周りの子達を見つめていました。その後は河へ水遊びに行きました。こなつはとても泳ぐのが上手でした。短い手足を器用に動かして泳ぎます。私とこなつは同じ浮き輪に挟まってプカプカと浮いていました。

 冬休みは図書館に行きました。本当は犬は入っちゃダメなんだけど、こなつはこっそりと入れさせてもらってました。

 大学生になった私は少し遠くの大きな街で一人暮らしをすることになりました。実家に帰るのはお盆休みや正月休みだけになりました。その頃には、こなつは10歳を超えてあまり歩けなくなっていました。でも私がたまに家に帰るとめいいっぱいに尾を振って喜んでくれました。

 大学生活に慣れた頃、ある日親から電話が来て、こなつ死んだことを聞かされました。私は悲しもうとしました。泣こうとしました。でも全然そんな気持ちになりませんでした。

 お盆休みに実家に帰りました。家の庭の門を開けました。そして私はいつものように立ち止まりました。でも何も起きません。その時に私が待っていた相手はもういないことを思い出しました。私はこなつの小屋に行って中を覗きました。でもこなつはいませんでした。


 私はずっと死ぬことについて考えていました。おじいちゃんが死んで、こなつも死にました。そしていずれは私も死ぬはずです。私にとって死ぬということはいなくなることでした。消え去ることでした。それはとても悲しいことです。そこには悲しみしかないように思います。


 でも今はそう思いません。死ぬというのはこの世から消えることではありません。生きることを続けられなくなることです。生きている状態からそうでない状態へと移り変わることです。いなくなることではありません。消え去ることではありません。


私は風になってあなたの傍を通り抜けます。

私は雨になって木々の葉を鳴らします。

私は月明かりになって夜をやわらかに照らします。

私は夕陽になって思い出を照らします。


この手紙を読んでくれてありがとうございました。

あなたに会えることを祈っています。


最後に一つだけお願いがあります。

私の大切なモノを白陽神社に隠しておきました。

どうか見つけてください。

横川優子"









 メルヘンな女だと、そう思った。矛盾に次ぐ矛盾。矛盾の嵐。気持ち悪い、気色の悪い考えだ。でももうこの世にいない人間を非難しても仕方ない。

 オレは手紙を布団の脇に放り投げてシャワーを浴びた。そして何のあてもなく街へ出かけた。


 皆がやっているようにできない。街を歩いているとつくづくそう感じる。女連れ、家族連れ、友達同士。皆が連れ合って街を歩く。店の看板を見ながら笑い合う。交差点の信号を待ちながら笑い合う。よく分からないカフェの中に列をなして並ぶ。店内ではギュウギュウ詰めになりながら、スイーツの写真を撮る。その店の手は道路工事中。おっさん達が手際よくアスファルトを削っている。

 やっぱり失敗だった。いつも通り夕方になるまで家でだらだらしているべきだった。せっかくの休日。気まぐれに街をぶらついてみようなんて考えたのがいけなかった。皆が当たり前のようにやっていること、それがオレにはできない。そんなことを言えば、努力してないからだと言われるかもしれない。でも努力も含めてできない。それを達成できることが想像できないのに努力なんてできない。身一つで空を飛べと言われても、それをやろうと努力できない。できるはずがないと思うから。

 でも何かが必要なんだ。身体を維持するには水と食べ物が必要だ。社会の中で生活するには、清潔な身なりと住処と身分が必要だ。オレの心を保つには、何かが必要だ。たぶん街ゆく皆が持っているあれだ。あれが必要だ。でもあれは手に入らない。じゃあ何だ?オレには何が必要だ?オレの心には何が必要だ?

 親和性の良いものがいい。身体を持っていること、社会の中で生きること、それらと親和性の良いことがいい。例えば強姦や殺人はだめだ。麻薬もだめだ。何でもいいなんてことはない。何が良いのか分からない。でも、みんなの真似はできない。

 何かって言うとみんな理由を求める。何をするにも何をしないにも、好きでいるにも嫌いでいるにも、生きるにも死ぬにも理由が必要だ。当たり前のように理由を求める。理由。理由。理由。みんな理由が無いと生きていけない。だからみんな理由を探してる。理由探し競争。上手く理由を手に入れられた奴がいれば、どれだけかかっても何も見つけられない奴がいる。そいつらは理由を持たないまま生きる。理由を持っている奴らを妬みながら生きる。理由を持たない自分を恥じながら生きる。そいつらを見て、理由を手に入れられた奴らは安堵する。そしてより強く理由を握りしめる。優越と劣等が簡単に生まれる。劣等者が優越を得る物語や、優越者が劣等に陥る物語が生まれる。感動的な物語。感動の犠牲者がまた街からはじき出されていく。もう夕暮れだ。


 あたりが暗くなる頃を見計らって、街の離れに来た。一面に田んぼが広がる場所。田植えの時期で、あちこちから水の流れる音が聞こえる。オレはあぜ道の上に座って深呼吸をする。風が田んぼの水面を揺らす。水面が向こうに見える街の光を反射して眩く光る。向こう側には鉄道があって、たまに電車が通ると水面に逆さの電車が映る。こっち側は街灯一つ無い真っ暗闇。でも向こう側は街の光がまばゆく輝いてる。風で揺らされた水面がこっち側を照らす。イルミネーションみたいにキラキラと照らす。聞こえるのはかえるの鳴き声と風の音だけ。オレだけ取り残されて別世界にいるみたいな孤独。心地の良い孤独。

 いつしか風は止んで、街の光も消えて眠りにつく。世界は元に戻っていく。元の暗闇に戻っていく。風も音もない暗闇に戻っていく。たぶんオレはずっとここにいて、ここで死ぬ。そんな心地の良い時間に浸ろうとしていたのに、それを妨げるものがあった。

 月明りだ。

 今日は満月でもないのにやけに月が明るい。オレは空を見上げる。雲の隙間から月が見えた。それと同時に一陣の風が吹く。その風は植えたばかりのまだ背の低い稲を揺らし、オレの傍を通り抜けていった。その瞬間だ。オレは何かを感じた。まるで意思を持った何かが通り抜けていくような。オレはしばらく風上を向いて待った。でも風はそれっきり止んだままだ。オレはまた月を見上げる。月はもう雲に隠れていた。ふいに誰かの言葉を思い出した。


 "先生はお月様の光になるよ"


 先生?記憶を探しても思い当たらない。そんなことを言いそうな先生はいなかった。漫画かドラマの言葉だったか。

 まあどうでもいい。感傷に浸るのはここまで。明日からはまた仕事だ。

 

 社会というのは価値交換を行う場所だ。オレは会社で働くことで、金という万能な価値をもらう。金はあらゆる価値と交換できる。食べ物、飲み物、住居、服、車、時計、女。世界にはありとあらゆる価値があって、みんな日々交換して生きる。オレも同じ。交換して生きる。でもどうしてオレは価値を求めるんだろう。二つ理由がある。


 一つはオレが人間の身体を持っていることだ。オレの身体はオレの意思に関係なく生きようとする。生き続けようとする。水を求め、食べ物を求め、休息を求め、安全を求め、暖を求め、涼を求め、女を求める。身体の生存本能。オレの身体が否応なく求める以上、それらは価値を持つことになる。

 もう一つは社会の中で生きているということだ。社会で生きていくには適切な価値基準を持つことが必須だ。移動時間は短いほどいい。住居は広くて綺麗な方がいい。仕事は重んじられる方がいい。彼女は美人な方がいい。子供は賢い方がいい。身につけるものは手に入りにくい物がいい。酒は飲まない方がいい。タバコは吸わない方がいい。etc。

 社会というのは価値の交換を行う場所だ。だから適切な価値観が必要なんだ。労働の対価として、ゴミをもらったのなら抗議しなくてはいけない。そして価値の交換を行う場所で価値を持たずに生きるのは不可能だ。つまりは価値を求めること、価値を失うことを恐れることは社会における生存本能と言えるものだ。ガキの頃からオレ達はそれを養い続けてきた。適切な本能を獲得できたやつが社会の中で成功する。つまり強者となり生存確率が大きく向上する。

 まとめてみれば簡単なことだ。オレが価値を求める理由はこの2つの本能だ。平たく言えば、身体本能と社会本能だ。

 じゃあどう生きるか。社会という場所で、人間の身体を持ってどう生きるべきか。これも2つだ。

 本能が満たされるまで価値を獲得し続けるか、得られるものに満足して生きるかだ。ここで問題がある。資本主義ってやつは必ず搾取される者、つまり敗者を生むってことだ。必ず負けるやつがいるってことだ。自分がその負ける側になっちまうこともある。

 じゃあ仕方がねえ。また来世に期待しよう。そう言って死んでいくやつもいるんだろう。勇気ある連中だ。でもそんな勇気すらないやつはどうしたらいい。死ぬ勇気すらないやつはどうしたらいい。オレみたいなやつはどうしたらいい。簡単だ。負け続ける。それだけだ。

 今日もオレは敗北を実感する。敗北の確認作業。オレが会社でやってることは正味それだけのことだ。

 株価みたいなもんだ。毎日毎日オレは自分の価値を計算される。他の奴らと価値を比較される。勝ってれば称賛され、負けてれば侮辱を受ける。毎日毎日同じことの繰り返し。中には自分の価値を上げようと努力するやつもいる。まんまと成功したやつはそれを自慢気に語る。お前らもできると、なんの根拠もなく語る。

 くそったれ。ギャンブルで一番やっちゃいけないことを知ってるか?負けをでかくしないことだ。負けを最小限に抑えることだ。大逆転で勝とうとしちゃだめなんだ。余計に深い傷を負うだけだ。自分は負けたと、自分を納得させること。それが肝心なんだ。どいつもこいつも負けないことを説く。でも無理な話だ。競争に勝って次のステージに上がれば、もっとキツイ競争が待ってる。いつまでも続いていく。いつか必ず負ける。そしてここが限界だと知る。そこから上がることもできないし、降りることもできない。

 毎日毎日、ひたすらに耐える。負けることに耐える。それが肝心なんだ。そいつができないやつがもっと負けていく。手の施しようがないほど負けていく。

 自分の持ってる価値を見極めることだ。客観的に、究極的にまで客観的に価値を見る。その点、金はいい。誰にとっても100万円は100万円だ。グローバル時代にあっては日本を出ても同じ価値だ。金を持つことだ。資本主義社会にあっては何よりも優先して金を手にするべきだ。

 昔は違ったんだろう。金というものが無かった時代。例えば原始時代。樹の実がたくさん採れる場所を知っていたり、動物の狩りのやり方が上手かったり、鉱石のナイフを作れたり、火を早く起こせたり。様々な価値があって、それら全てが代替できない価値だった。だからこそ、それぞれの価値がそれぞれに重んじられただろう。価値それぞれに代えられない意味があった。

 でも今やどうだ。ほぼ全ての価値が置き換わる。牛乳と違って消費期限もない。つまりは上位互換だ。ありとあらゆる価値が、貨幣という価値に置き換わる。現代の価値は実質、カネという一次元に並べられる。一次元の中で順番が決まる。良かったな。話は単純になった。シンプルになった。何も悩む必要はない。カネを得ればいい。それだけになった。

 オレもその一次元に並べられる。オレが日々やってることは、その線の上で前のやつを追い越そうとしたり、後ろのやつに追い越されまいとすることだ。

 多様性。どこにそんなものがある。くそくらえだ。

 諦めろ。カネなんだ。貨幣を保有すること。それがこの豊かな社会を豊かに生きるための唯一絶対のルールだ。

 きっとオレは死にたいんじゃない。ここから逃げ出したいんだ。



 いつからだ。一人になると叫ぶようになった。自分でもおかしいと思うんだ。でも止められない。思考の中に何かがよぎって、身体が勝手に動く。壁を蹴る。ガラス窓を殴る。コップを投げつける。割れた破片を見て、オレは自分が遠くなった気がする。自分なのに自分が遠い。そんな感じ。ガキの頃、オレは世界の最前線にいた。それなのに今じゃ世界がどんどん遠のいていく。オレを置いていく。待ってくれと、置いていくなと、オレは叫んでいるのだろうか?

 

 取引先を訪問するときだ。オレは幼稚園の前を通り過ぎた。その時にふと中の様子が見えた。膝を抱いて座る男の子がいた。顔をうずめている。すると先生らしき女が現れて、男の子の頭を撫でる。でも男の子は相変わらず顔をうずめたままだ。先生は困り果てた様子だった。その様子を見てオレはあることを思い出した。そう。一人だけいた。オレの記憶の中に一人だけいた。




 重たいカバンを背負い、汗でまとわりつくワイシャツをうっとおしく思いながら、坂道を歩く。オレの前をオレよりももっと死にそうな雰囲気のやつが歩いている。オレは男を追い抜く。その瞬間に横目で男の顔を見る。まるで生きていることを忘れているようだった。オレはまた嫌な気分になった。けどすぐにふっと笑えてきた。たぶんオレだって似たような顔をして歩いてたんだ。笑い合いながら歩く男女とすれ違う。彼らからすればオレもあいつも変わらないんだろう。

 アパートの階段を登り、部屋の鍵を開ける。カバンを放り投げて、扇風機をつけた。靴下とワイシャツを脱ぎ捨てて、布団に倒れ込む。

 飯も食ってない。洗濯もしなきゃならない。シャワーも浴びないといけない。でも、こうしていることしかできない。笑みを絶やさず活き活きと働いた。謙虚に見えるように、真面目さを取り繕いながら働いた。濁流のように偽物が流れ込んできて、もうオレの中には何も残っていない。明日も同じ。明後日も同じ。死ぬまで続く。死ぬまでは生きていかないといけないから。もういっそのこと死ねと言ってくれないか。お前は生きるなと、そう言ってくれないか。オレに優しい言葉をかけてくれないか。

 眠りに落ちそうになった瞬間、カーテンが大きく揺れた。風だ。めくれ上がったカーテンがオレの頭を撫でる。くすぐったかった。また脳裏に言葉が走る。


"風になるんだよ"


 またこの類の言葉だ。好きに思え。でも、死んでまでオレに関わるな。



 お盆休みに入った。でも友達も恋人もいないオレにはなんの予定もなかった。そんなことを知ってか知らずか、お母さんは実家に帰ってこいと言った。面倒ではあったが、断る用事もないオレはしぶしぶ実家に戻った。



 親戚の赤ん坊を見せられた。可愛い、そう言った。おめでとう、そう言った。本当に祝うべきことなのか。こいつは本当に生まれたかったのだろうか。オレはどうだ。気づいたら生きていた。そしてたぶん気づいたら死んでいるのだろう。無から有へ、有から無へ。オレはただ移ろいゆくだけの存在。オレだけじゃなくて世界の全てがそうなんだろう。


夕食の後で、オレはお母さんに聞いた。

「なあ、幼稚園の時にな、横川先生って女の先生がおったやろ?」

「うん、あの可愛かった先生な」

「あの先生の下の名前ってなんて言うん?」

「さあ〜、覚えてへんわ」

「そう」

「確か連絡網があったわ」

 そういうとお母さんは引き出しをゴソゴソとあさり始めた。

「ほらこれや、ここに書いとるわ」

 オレは手渡された古い紙を見た。連絡網の一番先頭に先生の名前が書いてあった。

"横川優子"

 偶然だろとオレの中で誰かが囁く。オレも同意した。姓も名もよくある名前だ。


「でも横川先生ってあんたが卒業する前に途中でやめてもたんやったな」

「なんでやめたん?」

「なんや先生同士でなんかあったらしいで」

「なんかって何よ?」

「いじめられとったんやって」

「いじめ?」

「聞いた話やけどな、可愛い先生やったから、目をつけられたんかもしれへんな」

「そうなんか」


 親が寝静まった夜、オレはこっそりと起き出して家を出た。子供の頃に通い慣れた道を通って幼稚園へ向かう。


 田舎の幼稚園だ。セキュリティもクソもない。簡単に忍び込めた。オレは庭に周る。とてつもなく大きく感じていた幼稚園がこんなにも小さかったことに驚いた。

 ブランコ、砂場、滑り台、竹馬。懐かしい遊具が並んでいる。オレは先生の記憶を探した。

 砂場。オレはなんとなく砂場に腰を下ろした。あぐらをかいて座る。違った気がする。オレは座り方を変えて、体育座りになった。そして自分の膝の間に顔を埋めた。

 そうだ。オレはこうしていた。そんな気がする。オレはゆっくりと記憶を揺らす。


 男の子が砂場で俯いて座っていたんだ。そこに先生がやってきて傍にしゃがんだ。男の子は俯いたまま言った。

"はるが動かへんなって"

男の子はボソボソと喋り始めた。

"そんでお母さんが死んだんやって言うとった"

 ようやく顔を起こす。男の子は泣いていた。

"死ぬってどういうこと?死んだらどうなるの?"

 子供が大人に不安げに尋ねると、大人は困り顔で答えた。

"先生にも分からないの"

 その答えを聞いた子供は視線を足元に落とした。

"何も無いんだよね?もうどこにもいなくなっちゃうんだよね?"

 ませた子供だ。ちゃんと真理を見抜いている。

"僕もお母さんもお父さんもみんないなくなっちゃうんだよね?みんなみんないなくなっちゃうんだよね?"

 そうだ、とはっきり答えてやりたい。お前が関わってきたもの、関わっていくもの、そしてお前自身も消えていく、そう伝えてしまいたい。そうしてやればいい。そうしてやるのがいい。でも先生は違ったんだ。

"違うよ"

 先生は大きく首を振ってそう答えた。

"例えばさ"

 先生が話し始めた瞬間に、一陣の風が吹く。タイミングを見計らったように。まるで先生が魔法を使ったみたいに。ハッと意識させられるような心地の良い風。

 オレも先生も同じタイミングで顔を上げた。でもすぐに風は止み、また太陽がジリジリと肌を焼く。

"例えば今みたいな瞬間"

 オレは先生を見た。先生はまだ風が来たの方を向いている。

"なんでもない瞬間に、ふと強く意識させられるような風が吹くでしょ?なんてことない日常の中で、ふと何かを感じてしまう。何かっていうのがなんなのか分からないけど。でも今みたいな風が吹く瞬間があるでしょ?"

 先生は遠くを見つめながら言った。

"あれになるんだよ"

 オレは黙って先生の言葉を聞いていた。

"きっと今も誰かが通り抜けたんだよ"

 先生はオレの方を向いた。優しい表情だった。でも今にも泣いてしまいそうな気がした。

"風になるってこと?みんな風になるの?"

 違う。黙って聞いてろ。

"違うの"

 先生はまた首を振った。

"そうじゃなくて。それ自体じゃなくて、その瞬間。その一瞬になるんだよ"

 オレは必死で先生の言葉を理解しようとしていた。

"例えばお空を見て、雲の大きさに気づく瞬間とか、帰り道で雨が降り始めて、木々の葉をざあって鳴らす音とか、あぜ道を歩いているときに目の前を蝶が横切ったりとか。なんてことないありふれた時間の中にふと何かに気づく瞬間がある。何かを意識させられる瞬間がある。きっとその時には誰かが居るの。いや、居たって言った方がいいかもしれない"

"分かんないよ、全然分かんない"

 オレは泣きそうになりながら言った。

 すると突然、先生はオレの身体を抱きしめた。先生の長い髪が顔に当たる。オレは気恥ずかしくて、誰かに見られていないかが気になった。先生はオレの耳元で囁くように言った。

"いま、先生が傍に居ることが分かるでしょ?"

 オレはうんと答えた。

"先生はまだ生きてるから、こうやって先生が居ることを分かってもらえるの"

 やめろ。

"だけど、死んじゃったらこうやって触れ合うことはできなくなっちゃうから"

 やめてくれ。

"だから別の方法で分かってもらおうとするの"

 分かったから。

"風になったり、夕陽になったり、雨音になったり、蝶になったり"


"そうやってみんなの傍に現れるのよ"


"一瞬だけね。とても短い限られた瞬間だけね"

"なんで?どうして長くいられないの?"


"みんな旅をしてるんだと思うよ。きっと世界中をね"


"先生は?"

 オレはなぜだか泣きそうになっていた。

"死んじゃったらなにになるの?"

 消えるだけだ。何もない。

"先生はお月様の光になるよ"


"君が暗い夜道を歩いてたら、雲の中から出てきて、君を少しだけホッとさせてあげる"





 次の日、オレはアパートへ帰った。その夜はオレはバイクに跨りエンジンをかけた。ネットで調べてみたら、白陽神社はオレの住んでいる地域からそう遠くないところにあるらしい。先生の大切なモノ。それが知りたかった。

 バイクで30分ほど走った。山の裾にその神社はあった。村からは随分外れた場所。周りは田んぼだらけで、街灯もなく、人気もまったくない。神社の周りは石垣で覆われていた。オレは神社の入口付近にバイクを停めた。エンジンを止めて、ヘルメットを外すと冷たい空気が頬に当たるのと同時に蝉の鳴き声が響き渡る。

 オレはしばらくぼおっとしていた。落ち着くいい場所だ。





 結局、あちこち探したが先生の隠したものは見つからなかった。それから週末の夜になると、オレは毎夜、白陽神社に行った。別に探そうとしたわけじゃない。ただ居心地のいい場所だった。ただそれだけの理由だ。


 その日もいつも通りだ。いつも通り夜中に白陽神社へ向かう。でも白陽神社に着く少し前で、急に何かが道端から飛び出してきた。オレは咄嗟にハンドルをきった。そんでそのままガードレールに突っ込んだ。



 夢をみていたらしい。男の子が神社で膝に顔を埋めている。すると女の子が近づいてきて、男の子の隣に座った。女の子は男の子に言った。

"ねえ、もっと周りを見て"

 男の子は何も答えない。

"君はいっつも夜に来るね"

 男の子の何も答えない。

"どうしてなの?"

「月の光になるって、そう言ったでしょ」

 咎めるように男の子は言った。

"あ〜、私に会うためなんだ?"

 女の子はいたずらっぽく笑いかけた。

"ねえ、今度は夕陽を見にきてよ"

 女の子は男の子の頭を優しく撫でる。

"約束だよ"


 目を覚ますと田んぼに大の字になって寝ていた。田んぼがクッションになったおかげで、どこも怪我はなかった。バイクはウインカーが折れたり、ライトにヒビが入ったりしたものの、他に大きな故障はなかった。



 先生の言いつけ通りオレは夕方に来た。夜とは違って、畑仕事終わりのじいさんばあさんとすれ違う。でもやっぱり神社には誰もいなかった。いつもの場所に座る。石段の隅っこ。境内を背にする。初めて気づいたが、この神社は西を向いていたんだ。真ん前に夕陽が見える。オレは沈みゆく夕陽を眺めながら、いつも通りぼうっとしていた。

 夕陽に気を取られていると、いつの間にか子どもとじいさんが来ていた。だるまさんが転んだをやってる。じいさんが鬼らしい。じいさんは木に向かって顔を隠す。女の子は反対側の木まで走って行く。じいさんの声を聞きながら、女の子は勢いよく近づく。でも急ぎすぎたみたいだ。

"はい、ゆうちゃん、動いた〜"

 じいさんが笑いながら女の子に言った。

"おじいちゃん、言うの早い!"

"はやないわ、ふつうやふつう"

"おじいちゃんずるい!おじいちゃん嫌い!"

 そうやって女の子は叫ぶ。

"おじいちゃんずるい!おじいちゃん嫌い!"

 女の子は何度も叫ぶ。じいさんはそれを見て笑っている。

 見た覚えなんてないのに、なぜか既視感があった。この光景をオレはずっと見ていたような、そんな気がした。


「あ〜あ、見られちゃったな」

 オレは慌てて声の方を振り向く。女がこちらを見て座っていた。肩口で揃えられた滑らかな髪。まん丸の大きな眼鏡。小さな鼻頭。薄い唇。優しいまなざし。子供の頃はわからなかったけど、とても魅力的な女性だ。


"おじいちゃんこっち来て、今度はゆうこが鬼やる"

"はいはい"

"だーるーまーさんがころんだ"

 女の子は引っ掛けようと緩急をつけて言う。けどじいさんは全然引っかからない。結局、女の子はじいさんに触られてしまった。

"おじいちゃんずるい!おじいちゃん嫌い!"

 また女の子がぐずりはじめる。


「全然ずるくないのにね」

 先生は笑いながら言った。

「仕方ないよ、子供なんだから」


「ねえ、あっちも見て」

 先生が指を指す方には男が立っていた。男は夕陽に向かってハーモニカを吹いている。物悲しい調べだ。

「上手だねえ」

 先生はうっとりとしながら聞き入っている。オレも一緒に黙って聞いていた。


「ねぇあっち見てよ」

 学校の制服を着た男の子が、制服を着た女の子に手紙を渡していた。何かを言っているみたいだけど声はまったく聞こえない。

「素敵だな~、あんな経験してみたかったな~」

「なかったんだ?先生ならありそうだけど」

「あれ?それってどういうこと?」

 先生はいたずらっぽい笑みを浮かべてオレを見た。オレは正直に白状する。

「可愛いからさ、そういう経験、いっぱいしてるんじゃないかなって」

「意外だな〜、はっきり言うんだ」


 「ほらあの子見てみて」

 また先生が指をさす。その方をみると、男の子が砂場に体育座りで座っていた。男の子は膝の間に顔を埋めている。すると横に背の小さい女が現れて、隣にしゃがんだ。そして男の子の頭を撫でた。撫でられた男の子は顔を上げる。でも夕陽のせいで顔は見えなかった。でもどうしてか見覚えのある光景だ。


 それからも先生が指をさす方には魔法みたいに色んな情景が現れた。オレは夢中になってそいつらをみていた。

 そうしていると夕陽はより一層輝きを増し、オレ達が見ていた景色を消し去った。オレと先生は話すのをやめて、ただ黙って、眩しすぎるほど輝く夕陽を眺めていた。


 やがて夕陽が輝きを弱め、その赤が雲に移っていく。

「ねえ」

 先生はオレの方を向いて呼びかける。

「分かった?私の言ってたこと」

 オレは声に出さずゆっくり頷いた。

「そっか〜、よかったよかった」

 そう言いながら先生は立ち上がり石段を降りていく。そしてこちらを振り返って言った。

「忘れないで、また会いに来るから」




"きっと気づいてね"








 気がつけばもう月が爛々と輝いていた。

 オレはバイクに跨り、エンジンをふかして、来た道を帰った。


 孤独なんてのは無理な話だ。風を感じるたび、月を見上げるたび、夕陽をみるたびに、オレは先生を想う。これは呪いみたいなもんだ。






終わり

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