5 僕はその林檎を探しているんです

少し時間をおいて、黒はもう一度屋上へ向かった。封筒の中に入っていた鍵が、ほんとうに屋上の鍵かどうかを確かめるためだ。


結果から言えば、本物だった。屋上の扉の鍵穴は、黒が拾った鍵を歓迎した。


間違いない。これは、生徒会室から盗み出された、正真正銘の屋上の鍵なのだ。


黒は一階まで下りて、昇降口を出た。そして校舎裏に向かった。


一時間ほど前まで降っていた大雨の影響で、校舎裏のアスファルト通路は紺色に濡れていた。


ゴミステーションを通り過ぎ、倉庫のそばに到着した。ここは、上履きが置かれていた場所の真下だ。


黒は、あたりを見回した。

もしアオハルが本当に飛び降りたのだとしたら、どこかにその痕跡が残っているはずだ。


「まあ、そんなものあるはずないけど」


アオハルは飛び降りてなんていない。一連の出来事は、単なる悪戯なのだ。


「え……」


しかし、黒は見つけてしまった。うっかり、見つけてしまった。


「うそ……血……?」


アスファルト通路は水浸しになっている。その水たまりに、うっすらと、赤い物が混じっているのだ。


黒の頭に、ひとつのストーリーが浮かび上がった。


アオハルは屋上から飛び降りて、ここに落ちた。血が流れた。しかし、彼は死ぬことができなかった。奇跡的に生き延びた。そして、あまりの痛みに耐えきれず、自力で病院へ向かった。


その後、血液は雨で洗い流され、そばの排水溝へ吸い込まれた。しかし完全には洗い流されなかった。少しだけ、血が混ざった水が通路に残った。


これなら、飛び降りたにもかかわらず死体が見つからない理由になる。


「ありえない」


黒は苦笑した。


本校舎は七階建てだ。猫だってただでは済まない高さだ。


もし奇跡的に生き延びたとして、どうやって学校の敷地から外に出た?


黒は、目の前のフェンスを見上げる。


学校の敷地は周囲をぐるりと高いフェンスで囲まれているから、脱出するには苦労して登らないといけない。七階から落下したばかりの人間に、そんな体力が残っているとは思えない。普通、校門から外へ出ようとするだろう。


しかし、唯一開放されている正門には守衛所があって、守衛さんが人の出入りをチェックしている。血だらけの人間が通ろうものなら、ちょっとした騒ぎになっているはずだ。


「そうだよ。アオハルくんは、飛び降りてなんていないんだよ……。そうに決まってる」


黒は自分にそう言い聞かせる。


水たまりに混じった赤いものは、血なんかじゃない。絵具かなんかだ。


黒はそう結論付け、帰宅することにした。ひどく疲れてしまった。今日は帰って、ゆっくり休みたい。考えるのはまた後だ。


黒は正門へ向かった。

そして門の前でぴたりと立ち止まった。


「ところで」

言って、黒は振り返った。

「あたしに何か用ですか?」


黒はさっきから、何者かに尾行されていた。

いや、尾行なんて上等なものではない。その人物はまるで存在を隠そうとせず、ずうずうしく黒の後ろをついてきていた。


「あ、えっと……」


その人物は、黒の鋭いまなざしを受けると、あからさまに狼狽した。


黒をつけていたのは、ひょろりと背の高い男子生徒だった。180センチ以上ある。奥二重の切れ長の目をしているが、どこか頼りなさそうな印象を受ける。全体的に色白で、ちょっと不健康そうな感じ。


いわゆる「塩顔」ってやつだな、と黒は思った。

もう少し堂々としていれば、割とモテそうな感じはする。


「あなたは誰ですか?」


「怪しい者ではないんです。そんなに身構えないでください、黒木さん」


……あたしの名前を知っている?


全く身構えていなかった黒は、今度こそ身構えた。


「僕は三年の灰原はいばらこうです。あだ名はコウちゃんです。誰もあだ名で呼んでくれませんが……。黒木さんもコウちゃんって呼んで大丈夫です。僕の方が先輩なわけだけど、敬語は使わなくて大丈夫です」


「灰原先輩は、どうしてあたしをつけていたんですか?」


黒は灰原の要望を全て無視して言った。


「癖なんです」


そう言って灰原は、手に持っていたスマホを掲げて見せた。


「は?」


「気になる光景に出くわすと、どうしても撮影したくなってしまうんです」


「ちょっと待ってください。撮影ってまさか……」


「ええ。ずっと黒木さんを撮影していたんです。背後から」


「それ、盗撮ですよ」


「僕、映画部なんです。部長やってます」


「……それがなにか?」


「将来は映画監督になりたいんです。ドキュメンタリーが撮りたいんですよ。ドキュメンタリーはいいものです。どうしても現実に根差した内容になるから、誰だって無関係ではいられないものになるんです。それはすばらしいことなんです」


そんなことは聞いていない。ほんと、マイペースを煮詰めて抽出したような男だ。


「そのためには、どんな努力を重ねればいいのか。黒木さん、分かりますか?」


「……ドキュメンタリー映画をたくさん観る、とか?」


「そのとおりです。でも観るだけじゃダメなんです」


「じっさいに映画を撮ってみる、とか?」


「そのとおりです!」


灰原は満足そうにうなずいた。そしてスマホを構えて、また黒の姿を撮影し始めた。


「それこそが、僕が黒木さんを撮影する理由なんですよ!」


「つまり、今は映画を撮影している最中。そういうことですか?」


「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えます。今は撮影中であり、取材の段階でもあるんです」


「あたしにも分かるように説明してください」


「映画作りのネタは、日常に転がっています。いま僕は、それを集めている最中なんです。ニュートンは木から林檎が落ちるのを見て、それが万有引力の法則にたどり着くキッカケになったって有名なエピソードがありますよね? 僕はその林檎を探しているんです、今」


分かるような分からないような……。


「黒木さんは、見つけたんですよね?」


「え……。何を、ですか?」


「林檎です」


「……」


「黒木さんは今、何か重大な悩みを抱えていますよね? そしてそれは、本校舎の裏を調べることで、解決できるかもしれなかった」


「いや、それは……」


「そんなに警戒しないでください。ちょっとしたインタビューですよ」


「無茶言わないでください。警戒するに決まってるじゃないですか。こんな強引なインタビュー、快く受けてくれる人なんていないですよ普通」


「そんなことないですよ! 今日だって、黒木さんのほかにもう一人、インタビューを敢行しました。動画も撮らせてくれましたよ。その人は、今日、本校舎内で不審な人物を見たらしいんです。その人物の特徴について、快く話してくれましたよ」


たしかに、それが普通の対応なのかもしれないなと、黒は思った。同校の生徒相手に、こんなに警戒するほうがおかしいのだ。


警戒してしまうのは、むろん、自分にやましいところがあるからだ。

アオハルが自分のせいで飛び降りてしまったかもしれなくて、それを暴かれるのが怖いのだ。……いや、もちろん、アオハルが飛び降りたなんて本気では思っていないけど……。


「ところで」

灰原は声のトーンを落とした。

「生徒会室から、屋上の鍵が消えたらしいですね?」


……この人、どこまで知っているんだ?


「これは僕の勘ですが、鍵の消失、このたわいもない小さな事件の裏には、センセーショナルな人間ドラマがある。そう感じるんです」


なんとなく灰原の目的が分かってきた。


「灰原先輩は、その謎を解き明かす過程を、ドキュメンタリー映画にしようとしている。そういうことですか?」


「そのとおりです! そして、あらすじはこうです!」

灰原は表情を輝かせる。

「今回の映画の主人公は、『黒』の愛称でおなじみ、黒木桜さん。彼女には二人の大切な友人がいた。しかし、ある理由から、一人とは気まずい関係になってしまった。そして間もなくして、もう一人の大切な友人が不登校になってしまった。短い間に、二人の友人が失われてしまった――」


やめて、と黒は思った。


でも灰原は喋り続けた。


「そして、7月20日――つまり今日――黒が通う『私立海星館かいせいかん学院高等学校』の生徒会室で、屋上の鍵がとつぜん消えるという事件が起きる。たわいもない、語るに足らない事件、のはずだった。だけど調べを進めていくと――」


灰原が言葉を発するたびに、扉が次々に閉められていくのを、黒は感じた。やがて明かりも消されてしまうだろう。そして彼女は、閉ざされた暗い部屋に独りぼっちになるのだ。


「黙ってください!」


黒は灰原に掴みかかった。


いけしゃあしゃあと喋り続けていた灰原だけど、まさか黒が掴みかかってくるとは思っていなかったようだ。驚愕の表情を浮かべ、一瞬で言葉を失ってしまった。


そばを歩いていた生徒たちが、何事かとざわつき始める。


黒は目に涙を浮かべ、灰原を睨みつける。長身の黒でも、灰原を前にすると見上げる形になった。


「ごめん……」

灰原はしゅんとなって、素直に謝罪した。

「つい、熱くなってしまって……」


黒は灰原から手を放し、涙をぬぐった。それから踵を返し、帰路についた。

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