きみの【役割】を知っている

水池亘

きみの【役割】を知っている

「なら誰が殺したっていうんですか!」

 そう叫ぶ彼女の頭上には【犯人】の文字が浮かんでいた。いま急に現れたのではない。初めて会ったときから私はそれを目にしていた。大雨の中、みみこ君と共に這々の体でペンションに転がり込んだ私の視界に彼女が入り込んだ、その瞬間の絶望を想像してみてほしい。それは疑いようもなく残業が確定した瞬間だった。一銭にもならない残業が。


   *


 私には人の【役割】が見える。この世界において重要な役割を持つ者の頭上にそれは文字として現れる。私はそれを視認することができる。望むと望まぬに関わらず。

 十歳の誕生日、母が目前で死ぬと同時にこの能力は発露した。血を吐いて倒れる母を看取るように現れた【名探偵】の三文字が何を意味しているのか、私はすぐに理解した。「やっぱり、母さんは名探偵なんだ」。私は妙に冷静にそう思った。

 でも、なら、名探偵の死んだ世界で母の死の謎は誰が解く?

 衆人環視の中毒殺された母の事件は結局迷宮入りとなり、私は犯人を暴くために探偵の道を選んだ。幸いいくつかの難事件を解決できたこともあり、私の事務所は界隈でも一定の地位を築いている。おかげさまで、私の休日はもう何年も前から消滅している。

 そして今日も私たちは絡みついた糸をほどき終え、ヘトヘトのまま車で事務所へ帰る途中だった。強い雨が降っている。ひどい疲れを象徴するかのような土砂降りだ。まだ十六時前だというのに薄暗く、周囲の木々は強風に軋んでいる。前方はぼんやりと白く霞んでいる。霞んでいる。霞んで……

「寝ないでください、所長」

 みみこ君の言葉に私はハッと目を開ける。

「……許してくれよ、みみこ君。昨日からろくに寝てないんだ」

「わたしに運転押しつけて自分だけ勝手に寝るなんて、ひどい雇用主ですね。労基に訴えますよ」

「訴えたら君が負けるぞ」

「これだから日本の法律は」

「話が大きくなってきた」

「あ、ところで所長」

 楽しいことでもあったかのような口調でみみこ君は言った。

「何だい?」

「迷いました、道に」

 私は虚空に向けて大きなため息を吐いた。スマホを取り出し現在地を確認すると、確かに道なき道を行っている。おそらく、どこかの山の中だろう。

「確かに、寝ている場合ではなかったな。君の方向音痴を甘く見ていたよ」

「次からは気をつけることですね」

「何でそんなに堂々としていられるんだ」

 文句を言っていても仕方ない。とにかく下山するべく車を出発させたが、雨足は強くなるばかり。運転するのも辛そうなほどだった。

「ううむ、どうしたものかね」

「あ、所長! 何か見えますよ!」

 指さした方角に明確な明かりが灯っている。そちらに車を向けると、現れたのは木造二階建てのこじんまりとしたペンションだった。

「きっと宿ですよ、ここ」

「それにしては小さいが」

「まあとにかく入ってみましょう。それともそこらで車中泊しますか?」

 私は何も言わずに首を振った。


 ずぶ濡れの体でインターホンを押し、出てきたのは二十歳前後といった風貌の青年だった。細い眉に投げやりな瞳。茶の短髪。何らかのバンドらしきロゴが飾られたシャツと黒いズボン。腰にチェーンを垂らしている。

「何すか?」

「すみません、すみません」みみこ君が愛想良く対応する。「この宿のかたですか?」

「ここ宿じゃないす」

「え?」

 首を傾げるみみこ君の顔に青年は釘付けになっている。無理もない。みみこ君はとびきりの美人だ。少なくとも外見は。

「このペンション、丸ごと俺らの貸し切りす。そういうサービスなんすよ。だから俺ら以外だれもいないす」

「へー、そんなのあるんですね!」

 かわいらしい声で言うみみこ君。

「今度わたしも使ってみようかなあ」

「……ていうかあんたら、何者?」

「あっ、ごめんなさい! わたしたち、こういう者です」

 みみこ君は慣れた手つきで名刺を差し出す。

「……夜加部、探偵事務所?」

「はい。わたしは助手の日裏みみこ。そしてこの方が所長の」

「夜加部ロウです。すみません、急に押しかけて」

 私はこれまでの事情を話した。といっても、仕事の帰りに道に迷った、以上の情報はないわけだが。

「というわけで、少し雨宿りさせていただけませんか? 止んだらすぐに出ますので」

「そう言われてもなあ」

 青年は渋い顔を隠そうともしない。無理もない。仲間だけの楽しいパーティに闖入者が現れたら誰だって嫌な気分になる。

「申し訳ないすが……」

「別にいいじゃん、宗介。泊めてあげようよ」

 青年の背後から高い声。現れたのは小柄な女性だった。少し大人っぽい顔立ち、ブランドものらしきピンク色の服装。茶色のショートヘアには薄くパーマがかかっている。

「あかり。でもさあ」

「断っても嫌な気分になるじゃん。部屋も空いてるし、貸してあげてもいいでしょ」

「まあお前がそう言うなら……」

 そんな会話を私はぼんやり聞き流していた。それどころではない、というのが本音だった。私の視線は彼らの後方に向いていた。そこにはもう一人の女性がいた。淡い色の髪を肩まで伸ばし、耳には青色のイヤリング。服も青系統の色味で統一している。整った顔立ちは一言で言って、美しい。そして、そんな彼女の頭上に【犯人】の文字が躍っていた。

 ……私はここに泊まらなければならない。いや、

「わかりました。いいすよ、泊まっても」

 青年の言葉を聞いて、私は諦めたように「ありがとうございます」と口にした。


 借りたタオルで体を拭き、中に入るとすぐに大部屋に出た。右方には大きめのテーブル、左方には大画面のテレビとそれを囲む複数のソファ。大きめのリビングだ。大きな窓が入り口側の壁にあり、廊下の様子がよく見える。だがその先は視認できない。

 ソファには二名が離れて座っていた。どちらも困惑した目線で私たちを見つめている。

「だ、誰ですか……?」

 小動物のような瞳の女子が呟く。真円の眼鏡に、黒くて長い髪。

 返答はあかりと呼ばれた女性がした。

「この人たち、雨で帰れなくなったんだってさ。だから、止むまで空き部屋にいてもらうことにした」

「えー」

 眼鏡を光らせるのは、ソファに座るもう一人の男。

「そんなの嫌ですよ。僕たちだけで遊ぶ予定じゃないですか」

 不満そうに口を歪める、その頭上には【被害者】の文字が浮かんでいた。そうか。かわいそうに。

「すみません、本当に」

 私は口を開いて、大げさなくらいのお辞儀をした。

「決して邪魔はいたしません」

「でもさあ」

「まあまあ、いいじゃん真藤。人助けだよ、人助け。ねぇ、ともり」

「うえっ!?」

 急に振られて慌てたのは、【犯人】の女性。

「う、うん。お姉ちゃんがそう言うなら、いいと思うよ」

「よかった。じゃあ決まりってことで。ね、宗介」

 今度はチェーンの男に水を向ける。

「うーん。俺はまだ納得してねえんだけど……」

「いいから! ひ・と・だ・す・け!」

「わかった、わかったよ」

 口を曲げつつ言う男。

「じゃあ、案内するすよ」彼は私たちのほうに向き直った。「部屋、一つしか空いてないんで、二人で泊まってもらうことになるすけど」

「もちろん、かまいませんよ」

 朗らかに言いながら、横目でみみこ君の顔を見る。それに気づいたか、彼女はこちらに視線を向けニヤリと笑った。

「よかったですねえ、所長」イタズラを仕掛けるように言う。「こんな美人と一緒の部屋ですよ」

「それ、自分で言うのか」

「私は自己肯定感の高い女ですから」

 堂々と膨らんだ胸を張る。スタイルも良いことをよく自覚しているのだ、彼女は。

「残念ながら、好みじゃないのでね」

「知ってます。でも単純に、きれいな顔が近くにいたら嬉しくないですか?」

「まあ、否定はしない」

 無駄口を叩くうちに部屋についた。一階、大廊下の突き当たりを左に曲がった先の部屋だ。

「全部で何部屋あるんですか?」

「六部屋す。俺たち、五人で来てるんで」

「ではあの部屋にいた方々で全員ですか」

「そうすね」

 こんな会話も、情報収集の一環だ。

「ところでそこの壁、なくなっているんですね」

 指さした先、部屋の扉の正面部分にある壁が五十センチ四方にくりぬかれている。実はリビングに入ったときにも気になっていた。

「あー、なんなんすかねこれ。こっちからもあっちからも丸見えで、気持ち悪いから空き部屋にしたんす。悪いけど、我慢してください」

「いえいえ。私たちは大丈夫です。むしろ便利かもしれません」

「便利?」

「いや、こちらの話です」

 私は曖昧に言って微笑む。宗介は少し不審そうな顔を見せた。怪しまれるのは本意ではない。だが説明しても理解されることはないだろう。

 部屋に入ると爽やかな柑橘系の香りがした。六畳ほどの広さで、本物の木で出来た壁が穏やかな雰囲気を作っている。正面奥側には横長の作業机。申し訳程度にコンセントの付いた素朴なもので、喫煙用なのか灰皿とマッチがおいてある。背もたれ付きの椅子が添えられており、それに座ると入口に背を向ける格好になる。左側には白いシーツのセミダブルベッド。小さな窓が奥側に一つあるが、少ししか開かないタイプだ。あと目に付くものは、入口付近の小さな棚。彫刻風のオブジェが飾ってある。持ってみるとずしりと重い。

「トイレ、共用みたいですねー」

 みみこ君がやや残念そうな声を上げる。

「小さなペンションだからね」

「むー」

 不満げに頬を膨らませて、ベッドにポンと寝転んだ。

「はー、疲れました」

 実に気の抜けた声。

「君は運転し通しだったからな」

「本当ですよ。早く所長も免許取ってください」

「知ってるかい、将棋棋士は免許を取らないんだ」

「はい?」

「運転中にふと将棋の局面が浮かんでしまい、それに気を取られて運転がおろそかになるらしい」

「はあ、つまり所長もそれと同じと」

「探偵は考えることが多すぎるんだよ」

「そーですか。まあ所長が頑張ってるのは知ってますけどね。たまには休んだらどうです?」

 君のほうこそ、と言いかけて止める。

「……トイレに行ってくるよ」

 部屋を出、リビング近くのトイレに行く。手洗いを済ませ顔を上げると、鏡の中の自分と目が合った。思わず私は視線の少し上、つまり頭上を見てしまう。そうして改めて知る。自分の【役割】が何なのか。

 事件は起こる。確実に起こる。事前に止めることはできない。それが世界のルールだ。

 だが、もちろん打てる布石はある。私にしか打てない布石が。

 トイレを出て私は部屋ではなくリビングへ向かう。ちょうど五人がテレビの前で何やら話しをしていた。

「だからホラーは嫌だって」

「僕はアメコミ映画じゃなければ何でも」

「なら、『ある容疑者について』にでもするか」

 その台詞が聞こえたタイミングで私は声をかけた。

「すみません」

「え、なんすか?」

 宗介の面倒そうな声が届く。

「もしかしてあなた方、映画見ようとされてます?」

「そうすけど」

「私たちも一緒に見ていいですか? 『ある容疑者について』、前から見たかったんです」

 その言葉に、「ええー……」と不満げな声を出したのは【被害者】真藤だ。

「決してお邪魔はいたしません。後ろの方で静かに見るだけですから」

「そうは言いますがねえ」

「まーまー、いいじゃん真藤。ただ映画見るだけだし。ねえ、ともり」

「私はいいよ。お姉ちゃんがそう言うなら」

「わ、わたしも別に大丈夫です……」

「小鳥ちゃんもこう言ってるし。どう、宗介」

「んじゃまあ、いいすよ。すぐ見始めるすけど。もういい時間すし」

 言われて壁時計を見ると十七時を指していた。

「感謝します。助手も連れてきますね」

 私は足早に自室へ戻る。みみこ君は鍵も掛けずに眠っていた。穏やかな寝顔を見ていると、彼女と初めて会った時のことを思い出す。それは平日の十七時。夕暮れの赤に染まる普通電車に駆け込み、息を整えつつ吊革を掴んだ、その目の前に彼女は座っていた。絵画のような顔立ちで、静かに文庫本を読みふけっている。だが私の目にその容姿は映っていなかった。私が見ていたのは彼女の頭上だった。ぷかぷかと浮かぶその【文字】を十秒ほども見つめ、そして私は口を開いた。

「すみません、お嬢さん」

 その言葉に彼女は一瞬静止し、そしてさっと顔を上げた。大きな瞳をぱちぱちさせながら彼女は「はい?」と音を発した。

「いきなりすみません。ひとつ、お願いがあるのですが」

 きっと彼女は断らないだろう。ただ純粋にそう思った。

「私の探偵事務所で一緒に働きませんか?」

 ……そして今彼女は私の助手として、ひとつしかないベッドに横たわってすうすう寝息を立てている。

 私は声を掛けるのを諦め、音を立てずに部屋を出た。丁度映画が始まる様子が、壁の穴を通して見えた。私はすり足でリビングへ行き、後方の椅子に身を隠すように座った。そしてともりの観察を開始した。

 この映画はもう何回も見ている。展開も記憶している。後から訊かれても問題はない。

 ともりは真剣な表情で画面を見続けていた。最終盤、物語に没入する彼女の瞳からつうと涙がこぼれる。それに気づいた彼女は、ほぼ無意識のような動きで胸元のポケットからピンク色のハンカチを取り出し、目を拭った。そしてエンドロールが流れ始めた。

「あー、おもろかった」

「僕は微妙だったな。原作のほうが数倍面白いですよ」

「興ざめなこと言うなよ真藤」

「あたしは映画のほうが好きだよ」

「お姉ちゃん、久住の演技好きだもんね」

「た、確かに凄い演技でした……特に、最後の泣くところとか」

「お、小鳥ちゃんわかってるねー」

 そんなおしゃべりを背後に、部屋に戻るべく立ち上がる。

「あの」

 声かけられて振り向くとあかりの姿があった。

「ご飯、買ってきてあるんですけど、あなたたちも食べます?」

「あー」そういえばもう十九時だ。「いえ、こちらで何か出前取りますので」

「無理ですよ。この豪雨じゃ、ピザとかウーバーとか、全滅ですから」

「ああ、そうか」

 私は思わず頭を掻いた。

「しかしご迷惑を掛けるわけには」

「いえ、実はあたしたち晩飯買いすぎちゃって。宗介なんか、どうすんだよこれ、ってちょっと怒ってたくらいで。だからむしろ食べてくれるならありがたいんです。お金は安めにしときますから」

「なるほど……」

 彼女は今回、何の【役割】もない人間だ。特に嘘をついている様子もないし、素直に受け取って良いだろう。

「わかりました。ではご厚意に甘えます」

 頷いて、みみこ君と二人、しばらく部屋で待機する。やがてお呼びがかかり、リビングで食卓に着いた。当然ながら、ご一行とは離れた位置だ。しかし様子は覗けるし、会話も聞ける。

「美味えな、このパン。あかり、これどこで買ったん?」

「え、マルイだけど」

「お姉ちゃん、いつもここのパン買ってくるよね」

「だって美味いじゃん」

「ほ、ほんとに美味しいです……」

「悪くないですね、確かに」

「へっへっへ」

 あまり品の良くない笑い声で胸を張るあかり。ともりも今のところ、ただ楽しく食べているだけだ。ちなみにパンの味は普通。

「ねー、このあとどうする?」

「どうすっかなあ」

「部長、ボドゲ持ってきたんですよね」

「でもあれ一回三時間くらいかかるんだよ」

「長っ!」

「でもおもろいんだよ、マジで」

「そ、それなら先に、お風呂入りたいです……」

「あたしもあたしも」

「まあそーなるよなあ」

「なら、軽く麻雀しませんか?」

 その言葉はともりが発した。

「麻雀って、どうやって」

「『雀心』ですよ部長。スマホのアプリ。知ってるでしょう」

「聞いたことはある。でも打てるやついるの?」

「わ、わたし、ちょっとなら……」

 小鳥が小さく手を上げる。

「あたしもまあ打てるっちゃ打てる。てか真藤がいるでしょ。たしか『雀天』じゃん」

「お姉ちゃん、知ってたの?」

「前一回打ったことあってね」

「雀天?」

 首をひねる宗介に小鳥が解説する。

「さ、最高ランクです……プロレベルですよ。すごいです」

「僕、やることあったんだけどな」

 真藤が気の乗っていないポーズを取る。

「でも、ともりさんの誘いなら断れないね。雀天同士、戦おうか」

「え、ともりもう雀天なの?」

「ちょっと前に昇級したんだよ、お姉ちゃん」

「ってことは何、俺以外みんな打てるの」

 宗介が気の抜けた声を出した。

「つまんねーなあ。じゃ俺はさき風呂入るか」

「ゆっくりでいーよ、宗介。どうせ二戦くらいやるし」

「さ、三十分はかかりそうです……」

「そうなん? まあ適当に入るよ」

 予定もまとまったところでちょうどパンもなくなった。

「所長、何か気になることが?」

 トイレから戻ってきたばかりのみみこ君が囁き声で訊いてくる。

「いや……特にはないな」

 まだ事件も起こっていないし。

 時計を見れば二十時を指している。私たちは部屋に引き上げた。彼らはアプリを起動して麻雀を始めたようだが、すぐに真藤が「僕、ちょっと部屋戻りますよ」と言いだした。

「は? なんで」

「やることあるって言ったじゃないですか。それに麻雀は一人でじっくり打ちたいので」

「このガチ勢が……」

「まあまあ、お姉ちゃん。別に一緒にいないと打てないってわけじゃないんだし」

「そ、そうですね。それがアプリのいいところです」

「まーそういうもんか。わかった。自由にやろう」

「私も戻るよ、お姉ちゃん」

「あ、そう? じゃーあたしも戻ろうかな」

「わ、わたしもそれでいいです」

 そんな会話の結果、全員が部屋に帰っていった。といった流れを私が知っているのは、自室のドアの前で椅子に座り、本を読むフリをして壁の穴から様子をうかがっていたからだ。

 いま、【犯人】と【被害者】は共にひとりきりだ。すなわち犯行のまたとないタイミングである。とはいえ私がそれを邪魔するわけにはいかない。私には二階に上がる動機は何一つない。「気まぐれに二階に行ったらたまたま犯行を目撃してしまった」などという言い分を世間が許してくれるとは思えない。それに、そんな解決法では名探偵としての実績にならない。

 というわけで私は淡々と本を読み続けていた。

 二十時半ごろ、ともりがあかりと共に階段を降りてきた。表情を盗み見ると若干の紅潮が見られる。おそらく事を為してきた後なのだろう。

「強かったね、ともり」

「運が良かっただけだよ」

「しっかし真藤、憎まれ口叩くだけはあったね。全然放縦しやしない」

「やっぱり上手いよね、真藤君」

「あれ、もう終わったん?」

 男の声が響く。髪を湿らせた宗介がソファに座ってテレビを見ていた。

「まーね。てか髪くらい乾かしなよ、宗介」

「別にいいじゃん。誰と会うわけでもねえし」

「あたしたちと会ってるでしょ」

「だって面倒なんよ。それより次、誰が入る?」

「お姉ちゃん、先に入ったら?」

「え、別にいいけど、何で?」

「なんとなく、まだ入りたくないなって」

「ふーん。ま、いいや。さっさと上がるから待ってて」

 姉の言葉に頷くともり。順番を不自然に譲ったのは、おそらくは犯行に関係する何かしらの理由があるのだろう。

 会話を終え、あかりは足早に風呂場に消えていった。ちなみに風呂場は階段と逆方向にあり、こっそり戻って二階に上がろうとしても確実に我々の前を通る。

 ともりは部屋に戻らず、リビングで宗介と共にテレビを見ていた。

「先輩、最近のお姉ちゃん、どうですか」

「え、どうって?」

「何か落ち込んでたり、怖がってたりとか、ありませんか」

「あー? 特にないけどなあ」

「そうですか」

「まさか俺が怖がらせてるとか思ってない? そんなことねーからね」

「信用してますよ、宗介さん」

「笑顔が怖えって。お前怒らせるとヤベえからなあ」

「ふふふ」

 その笑顔は確かに怖い。人を殺した者の顔だ。先入観かもしれない。

 十五分後、あかりが湯気を上げながら戻ってきた。ピンク色のハンドタオルを首に掛けている。交代でともりは風呂場に去っていった。

 あかりは妹同様この場に留まり、宗介と他愛のない会話をしていた。

 しばらくしてともりが青いタオル片手に戻る。

「んじゃあたし、小鳥ちゃん呼んでくるわ」

 連れられてきた小鳥は目をしょぼしょぼさせていた。

「小鳥ちゃん、お風呂入ってきて」

「んにゅ……わかりました」

「もしかして寝てた?」

「いえ、うとうとしていただけです……」

 そう呟くとぼんやりした瞳のまま入浴場へ歩いていった。

「さて」宗介が口を開く。「真藤も連れてくるかね」

 そう言って立ち上がり、二階へと向かった。時計を確認すると、二一時過ぎ。

 と、館内に叫び声が響いた。

 宗介がドタバタと駆け下りてくる。そして息も吸わずにわめいた。

「死んでる! 死んでる!」

「は?」

「真藤が死んでるんだよマジで! ちょっと来てくれ!」

 彼の様子はあきらかにただ事ではない。姉妹は気圧されたように立ち上がった。

 三人が揃って階段へ向かう様子を見ながら、私はさてどうしたものかと考える。すぐ近くの自室に戻ると、中ではみみこ君がベッドに転がってスマホを眺めていた。

「どうしました所長。人でも死にましたか」

「軽く言うなよみみこ君……まあ、その通りだが」

「じゃあさっさと現場に向かいましょう」

「それがいいか。勝手に荒らされても困るしな」

 私はみみこ君を引き連れ二階へ上がった。真藤の部屋は廊下の右端だった。そう知っていたわけではない。扉の前で腰を抜かすあかりの姿を見れば誰にだってわかる。その側に座ったともりは震えながらあかりの手を握っている。

 私はつかつかと歩き、「ちょっと失礼」と姉妹に声を掛けながら部屋の中に入る。そして青ざめながら死体を見つめる宗介の肩をトントンと叩いた。

「あ?」

「すみませんが、外に出ていただけませんか。調査を始めますので」

「はあ? 何であんたが」

「探偵ですから」

「探偵だから何なんだ。どうせあんたらが殺したんだろ!」

 大声でわめく宗介。そこに外から声が飛んだ。

「それはないよ、宗介。この人、ずっと部屋の前で本読んでたから」

「ああ、見られていましたか」

 本当はが正しい。

「でももうひとり女がいたろ。あいつがやったんだ」

「あの人は部屋からほとんど出てないよ」

「何でわかんだよ」

「何か盗まれたりしたらやだからさ、あたし、ちょこちょこ様子見てたんだ。あの人はずっと部屋にいたはずだよ」

「ご証言いただき感謝します」

 私は深く頭を下げた。

「別にあんたのためじゃないよ。ていうか助けてくれない? あたしたち、どうすればいいか全くわかんないんだ」

「ええ、もちろんそのつもりです。泊めていただいたご恩がありますから」

 私は場を落ち着かせるように微笑み、ポケットからスマホを取り出した。「ひとまず、警察に連絡しますね」ただし、一一〇番ではなく、馴染みの個人番号だ。四度目の呼び出し音が途切れ、乱暴な男の声が流れる。「なんだ、昨日の事件は解決済みだろ」「いえ、別件でして」「はあ、君もよく事件に遭遇するねえ」私は現状を伝え、いくらか話をして電話を切った。そして皆に体を向ける。

「警察はすぐ出動してくれるそうですが、この雨風ですから数時間はかかるようです。なので、先に解決しておいてくれ、と言われました」

「はあ?」不審そうな顔を見せる宗介。「あんた、そんなに信頼されてるんすか」

「これでも一応、探偵ですから」

 平然とした表情で言う。私にとっては当然のことなので、自慢する気にもならない。

「まずは現場を調査します。皆さんはリビングで待っていてください」

 私の言葉に、皆頷いて一階に降りていった。それを確認し、私は室内に向き直る。

 レイアウトは私の部屋と同じだった。私に背を向けた死体は椅子に座り、机に覆い被さるように突っ伏している。血の付いた両手はぶらんと横に垂れ下がり、頭と上半身だけが机に載った状態だ。

 横顔を見る。間違いなく真藤だ。苦悶に歪んでいるが、別人とは考えられない。

 後頭部は明らかに固い物がぶつかったように陥没し、肉がえぐれている。出血は止まっていたが血の色はまだ黒になりきっておらず、おそらくは死亡して十五分~四十五分程度。血は机の上にも流れ出ており、赤黒いたまりを作っている。

 部屋に争った形跡は見当たらない。真藤の服なども綺麗に整っている。窓は閉まっており、不審な点はない。ベッドも純白のままだ。

 凶器は探すまでもなく側に転がっていた。血にまみれた彫刻風オブジェ。私の部屋にもあったものだ。あの重さならクリーンヒットすれば一撃だろう。

 ここまで調べて、私はある不審な点に気づいた。しばらく室内を調べたが、疑問は解消されなかった。

 ……リビングに戻ろう。


 私が現れるなり、「な、何かわかりましたか……?」と心細そうな声が投げられた。いつのまにか小鳥が合流している。私が調べている間に風呂場からから呼び戻されたのだろう。

「そうですね。わかったことも、わからないこともあります」

 私は調査結果を皆に話した。どこか楽しそうなみみこ君を除く全員が神妙な面持ちで聞いている。

「……というわけで、死因は頭への一撃で間違いないでしょう」

「じゃ、女には無理じゃないすか」

 そう言ったのは唯一の男性、宗介だ。自分が疑われることを承知で指摘するあたり、誠実なのか、肝が据わっているのか、何も考えていないのか。

「いえ、そうとも限りません。争った形跡が全くありませんから、犯人は背後から不意打ちで殴ったと考えられます」

「あー、そんなら女にも出来そうっすね」

 納得したように頷く宗介を横目に、話を進める。

「他に重要な情報として、死亡時刻が二十時十五分~四五分の間とわかりました」

「え、でもあたしたち雀心してたよ。三十分まで」

「はい。あかりさん、ともりさん、小鳥さん、真藤さんの四人で遊ばれていましたね」

「全部盗み聞きしてたんだ、あんた」

「はは、申し訳ありません。職業病でして」

 私はぽりぽり頭を掻く。

「ま、いいよもう。とにかく、三十分までは一緒に遊んでたから、殺されたのはその後だよ」

「となると、犯行時刻は二十時三十分~四五分の間ですね。その時間に何をされていたか、お伺いしてもよろしいですか」

「え、俺ら疑ってんすか?」

 宗介の言葉に呆れた顔を見せるあかり。

「そんなの当然でしょ。この雨の中誰が入って来れるってんのよ」

「そりゃそーだけどさ、俺、俺らん中に人殺しがいるなんて思いたくねえよ。何とかならないすか探偵さん」

 泣きそうな表情の宗介。

「残念ながら、我々は真実を明らかにするのが仕事ですから。あかりさんの言うとおり、犯人はこの中にいると考えて間違いないでしょう」

 私の台詞で場が一瞬、凍える。皆うすうすと気づいてはいたのだろうが、改めて事実を突きつけられる重みはまた別のものだ。

「わかったすよ……でも俺は犯人じゃないすよ。その時間はともりと喋ってたすから。探偵さんも見てたすよね?」

 その言葉にともりも力強く頷く。

「はい。ともりさんと宗介さんが話をしていたのは事実です。では、あかりさんは」

「シャワー浴びてたけど。知ってるでしょ」

「それを証明できる人は?」

「いないけど、でもあたしも犯行は無理だから。風呂場からこっそり二階になんていけないっしょ」

「あっ、た、確かに……」

 小鳥が小さく手を叩く。

「ええ、その通りです。風呂場から階段に行くためにはリビングの前を通らねばなりません。大きな窓から身を隠して通りすぎるのは難しいでしょう」

「そう。つまりあたしにはアリバイがあるわけ」

「では最後に、小鳥さん。あなたは何をされていましたか」

「えっ、わっ、わたしは……」

 か細い声で言う小鳥の体がカタカタと震え始める。

「ね、寝てました。部屋で、ずっと……」

「なるほど。それを証明できる人は?」

「い、いないです……」

 そこで言葉が途切れ、静寂が舞い降りた。全員が自然に小鳥のほうを向く。

「小鳥ちゃん、まさか……」

「いえ、証明者はいるのです」

 ともりの言葉を遮るように私は声を発する。

「えっ……?」

「私です。不肖、夜加部ロウが証人になれるのです」

「ど、どういうこと……?」

「私は自室の前でずっと本を読んでいました。小鳥さんの部屋は一階の右端、つまり私の視線の突き当たりにあります。だから、小鳥さんが部屋を出入りすれば私は必ず気づきます」

「本を読みふけって気づかなかったのでは?」

「ともりさん、私は探偵ですよ。仕事柄そんなことはありえません。と言ったところで信用は出来ないでしょう。実際のところ、本当に私が見ていたかどうかは関係ないのです」

「関係ない?」

 私は笑って頷いた。

「私が座っていることは小鳥さんもわかっていたでしょう。ということは、外に出ようにも、その瞬間を目撃される可能性が非常に高い、ということです。そんな状況で、それでも外に出て犯行に及ぶ、更には自室に戻る、なんて危険を冒すでしょうか」

「そっか。なるほどね」

 あかりが納得したように頷く。

「というわけで、小鳥さんにもアリバイがあるということになります」

「なら誰が殺したっていうんですか!」

 いきなりの叫び声。立ち上がったのはともり、つまり【犯人】だ。あなたですよ、ともりさん。と言いたくもなるが、もちろん言うわけはない。それは全てを解明してからの話だ。

「落ち着いてください、ともりさん。確かに全員にアリバイがある状況は不可解ですが、一旦それは脇に置かせてください。実は、もう一つ大きな謎があるのです」

「謎?」

「ええ。私は犯行現場、すなわち真藤さんの部屋を丹念に調べましたが、絶対に存在するはずの物が一つだけ、どこにも見つからなかったのです」

「絶対に存在する物……何ですか、それは」

「スマホです。真藤さんのスマホが、あの部屋にはないのです」

 その言葉に、四名が首を傾げた。

「犯人が持っていったのでは?」

「おそらくはそうでしょう。ならば、なぜそんなことを……」

「探してみたらどうです、所長」

 急に甲高い声がして、見るとみみこ君がニコニコしていた。

「そんな証拠物件、持ち歩いてたら危険ですし、もうどこかに捨てちゃってる気がします!」

「確かにね。では、ペンション中のゴミ箱をあさってみましょうか」

 皆で手分けして探すと、それはすぐ見つかった。風呂場のゴミ箱の奥に隠すように捨てられていたらしい。見つけたのはみみこ君だった。

「このステッカー、かわいいですねえ」

 何らかのアニメキャラのステッカーが、スマホとケースの間に差し込んである。

「真藤ので間違いないっす」

「そうですか。やはりロックがかかっていますね」

 当然ながら、パスコードを入れなければ中身にアクセスはできない。

「ってことは探偵さん。犯人は真藤殺した後スマホだけかっぱらって、風呂場のゴミ箱に投げ捨てたってことすか」

「ど、どうして、そんなこと……」

 困惑する四人を横目に、私は無言で考える。

 犯人はともりだ。間違いない。私の能力は嘘をつかない。しかし犯行時刻、彼女がリビングにいたことは私自身がこの目で見ている。何かトリックを使っているのだ。私の知らないトリックを。

 争った形跡のない死体。

 全員にあるアリバイ。

 持ち去られたスマホ。

 ……私は思わずみみこ君を見た。頭上に躍る文字を、そして彼女の表情を。

「ふふっ」

 目が合った。彼女はにっこり笑って「大丈夫ですよ、もう」と言った。

 そうか。

 ――ならば、解決編突入だ。


「よろしいですか、皆さん」

 私はパンと手を叩き、全員の注目を集めた。

「事件の謎が解けました。犯人も確定しています」

「マジすか!」

「はい。では真相ですが……それについては、みみこ君」

「はい!」

 元気の良い声と共に、みみこ君は勢いよく立ち上がる。

「彼女に推理してもらいます」

「……は?」

 きょとんとした表情の宗介たち。

「探偵さん、あんたが推理するんじゃないんすか」

「私は調査するのは得意ですが、推理はどうにも苦手でして。それはみみこ君の仕事なんです」

「いやでも、名探偵って」

「我々はチームで名探偵なのです。『名探偵・夜加部』と名乗っているのはあくまで便宜上のものです」

「詭弁すよそれ!」

「詭弁ですよねえ」

 そう同調するのはみみこ君だ。

「でもわたし、目立つの嫌いなんです。助手の立場で推理させてくれるなら、これ以上のことはないなって。ねっ、所長」

「まあ、そういうことです」

「はあ……じゃあまあ、いいっすよもう。早く推理、聞かせてください」

「承知しました!」

 そう手を上げるみみこ君は見るからにウキウキしている。

「この事件のいちばんの謎は、やっぱり『全員にアリバイがあること』です。そのせいで不可能犯罪になっちゃってるんですね。でもこれ、犯人の仕掛けたトリックなんです」

「トリック? 誰かのアリバイがウソってことすか?」

 宗介の言葉に首を振るみみこ君。

「それは違います。ともりさんと宗介さんのアリバイは所長も見ていることから間違いないですし、あかりさんが風呂場から誰にも見られずに二階に行き来したってことも非現実的です。小鳥さんのアリバイ証言者は事実上所長しかいませんが、所長と小鳥さんがグルというのもおかしな話ですよね。そもそも大雨が降らなかったら私たちはこのペンションに入れてもらえなかったですから」

「なら、どうやって……」

「ここでヒントになるのが、スマホが持ち去られたという事実です」

 みみこ君は指を立てて歩き回り始めた。

「一体なぜ、スマホは盗まれたのか。すぐにゴミ箱に捨てちゃってますから、スマホという物体そのものが欲しかったわけではありません。犯人には別の目的があるはずです」

「別の目的……消したいデータがあったから、とか?」

「おっ、鋭いですね! でも残念。ふつう、スマホってほとんどの時間ロック画面になってますよね。ロックを外せなければデータも消せません。スマホを奪っても何の意味もないんです。だからその目的じゃありません。もっと明快で、ロジカルで、トリックに必要不可欠な目的があるんです。それは……」

 みみこ君はふふっと笑って、とっておきの秘密を伝えるかのような表情で口を開いた。

、です」

 場の全員がぽかんと口を開けた。数秒の後、私の脳に電撃が走った。

「ああ、そういうことか!」

「ふふ、わかりましたか所長。面白いことを考えますよね、犯人は」

「どういうことすか……?」

 戸惑う宗介にみみこ君は微笑みかける。

「さっき言ったように、全員に確かなアリバイがあります。それが正しいとするなら、こう考えるしかないです。犯行時刻のほうが間違っている、と」

「でも犯行時刻は探偵さんが……」

 宗介の言葉は、私が受け取る。

「私が見立てたのは死亡推定時刻です。死後硬直や血の色から、二十時十五分~四五分で間違いありません」

「ありがとうございます、所長。それなのに、犯行時刻が二十時三十分~四五分になったのは、一体どうしてでしたっけ」

「それは、アプリで麻雀してたから……」

 そこまで言って、彼は固まった。

「そう。真藤さんを含め四人で雀心を遊んでいた。それが終わったのが二十時半。だから、その時間までは真藤さんは生きていた。そう私たちは思い込んでいました。しかしよく考えると、それを目で見たわけではありませんよね。四人は皆、自分の部屋でプレイしていましたから、実際には誰が打っていたのか、誰も確認していないんです」

「つまり」ぽかんと口を開けて宗介は呟いた。「入れ替わり……」

「そう、そのとおりです!」

 みみこ君は笑って手を叩き、背伸びをするように全員の視線を今一度自分に釘付けにさせた。その姿はまるで輝かしいアイドルのようにも思える。

「事件のあらましはこうです。犯人は真藤さんが雀心をしながら部屋に戻った後、すぐにそこを訪れる。中に入れてもらって、プレイ中の真藤さんを背後から殴って殺害する。客がいるのに真藤さんが机に向かっているのは変だと思うかもしれませんが、彼は麻雀に関してはガチ勢です。局面に集中するタイミングもあったでしょう。で、殺した後、犯人は真藤さんのスマホを奪い取って、プレイを引き継いだ」

「死亡時刻を誤認させるために、か」

「そうです所長。犯人は麻雀アプリを通して真藤さんに成り代わったのです。プレイを続けながら、犯人は真藤さんの両腕を机から下ろした。これは『死の瞬間に真藤さんが雀心をプレイしていたこと』を隠すための工作です。これがバレるとトリックもすぐわかっちゃいますからね。ま、無駄でしたけど」

 得意げに胸を反らせるみみこ君。

「工作が終わったら素早く自室に戻り、麻雀を打ち終わったらすぐに表に出ます。これはアリバイを作るためですね。後はお風呂に行くついでにスマホを捨てればおしまいです。これで嫌疑から逃れられる……はずだったんでしょうが、誤算は所長がいたことですね」

「私が?」

「だって所長がずっと部屋の前にいるなんて変なことしたから小鳥さんにアリバイが生まれたんですよ。そうじゃなかったら彼女が疑われていたところでした」

「よ、よかった……ありがとうございます、夜加部さん」

「どういたしまして」

 とりあえずおじぎを返しておく。 

「まー、最大の誤算はわたしがいたことですけどねっ!」

「自慢はいいが、それで犯人は誰なんだ?」

 私は当然の質問をする。これでともりじゃなかったら頭を抱えるところだが、それはないと断言できる。それくらいには私はみみこ君を信頼している。

「そうでした、そうでした。犯人はです」

 あまりにさらりと言うので、皆、一瞬理解できなかった。直後、ともりの目が見開かれるのを私は見逃さない。

「麻雀下手な人が成り代わっても牌譜、つまり打ち筋のログでバレちゃうんですよね。明らかにいきなりダメになりますから。だからこのトリックは、怪しまれないくらい麻雀が強い人でないと実行不可能なんです」

 そこまで言って、ようやく全員の理解が追いついた。そして自然と、ある一人に目が行く。

「というわけで、犯人は雀天のともりさんです」

 しんと音がなくなった。長い間時が止まっているような感覚に陥ったが、実際は数秒程度だっただろう。

「……麻雀が強いだけで犯人扱い、ですか」

 口を開いたともりは鋭い目つきをしていた。

「少し無理筋じゃないですか」

「そんなことはないですよ。ロジックはいつだって正直です」

「はあ。こんな映画みたいなこと言いたくないですが……」

 ともりはすっと立ち上がり、みみこ君の瞳を睨みつけながら言った。

「証拠は? 証拠はあるんですか?」

「あります」みみこ君は笑顔で言った。「あるはずです」

「はずって何ですか」

「言葉の綾です。今から説明しますね」

 みみこ君はまた部屋をぐるぐると動き始める。

「注目すべきは、真藤さんの腕です。あの腕、両方とも血で濡れていました。そうですよね、所長」

「ああ、間違いない」

 私は神妙に頷く。

「そんな腕を引きずって机から落としたなら、机には血の跡が残るはずです。でも、そんなものはなかった。どうしてでしょう」

「それは、何かでぬぐったから……」

 そこまで言って、私はハッと息を呑んだ。

「そう。犯人が拭いたんです。手を動かした証拠を消すために」

 そこでみみこ君は言葉を切り、微笑んだ。

「では、その拭いた布は、今どこにあるんでしょうね」

 ……これは、私へのパスだ。私はそれを正確に受け取った。その自信がある。

「さて、推理の時間はここまでです。ここからは、所長の仕事です。ですよね、所長」

「ええ。任せてくれ、みみこ君」

 私は場の中央に進み、全体を見回した。そして最後に、ともりに目を合わせた。ともりは芯のある表情で私たちを見すえている。

「所長だか推理だか知りませんが、馬鹿げた茶番はここまでにしてください」

「そうはいきません。私は私の仕事をきっちり果たす必要がある。ともりさん、ひとつ質問させてください」

「嫌です」

「そうはおっしゃらず。いいですか、お尋ねしますよ」

 私は瞳を鋭くする。まっすぐにともりを射貫きながら、言った。

「ともりさん。

 瞬間、ともりの動きが止まった。息づかいが徐々に荒くなる。

「……どうして、それを」

「夕方、皆で映画を見たでしょう。あの時、あなたは涙をぬぐうためハンカチを取り出した。私はそれを見ていたんです」

 当然のように私は話す。ともりは目を大きく見開き、どこか恐怖しているような表情で私の顔をじっと見つめた。

「あなた……あなた、あの映画のクライマックスで、テレビじゃなくわたしをずっと見ていたんですか」

「それが私の【役割】なんですよ」

 その台詞はやや自嘲気味だったかもしれない。鏡に映る私の頭上にはいつでも【ワトソン役】の文字が躍っている。この世界において、私は名探偵ではない。だから謎は解けない。それでも、やれる仕事はある。

「そう、血を引きずった跡が描かれてしまったことに気づいたあなたは、とっさに手持ちのハンカチで拭き取ったのです。そのハンカチ、どうされたんですか」

「知るわけないでしょう。でも普通、そんなものは捨てるか燃やすかするはずです」

「もちろん、普通はそうです。普通は」

 私は流れるように言葉を紡ぐ。

「あなたのハンカチを見て、不思議だなと思ったんです。あなたは服とアクセサリーを青系統で統一しています。なのにハンカチだけはピンクの物を使っている。一体なぜなのか」

 私は横目でみみこ君の顔を見た。彼女は実に楽しそうに微笑んでいる。私は思わずため息を吐きたくなった。だがもちろん、それが許される状況ではない。

「ピンクを好んでいるのは、あなたではなく、姉のあかりさんです」

 そう言ってあかりを見れば、苦しげな表情で目をつむっている。

「あかりさん、ご自身のハンカチをともりさんにあげたことがあるんじゃないですか?」

「……あるよ、ある」

 諦めたようにあかりは言葉を吐いた。

「ともりさん、あなたはあかりさんを深く敬愛しています。それは端から言動を少し見るだけでもわかります。そんなあなたにとって、姉の私物のハンカチは何より大切な物だった。それを、たとえ殺害相手の血が付いてしまったからといって、簡単に捨てられるでしょうか」

 ともりの反論は何もない。彼女はうろんな表情で、力なく宙を見つめている。

「きっとあなたはまだハンカチを所有している。それも、おそらくは肌身離さずに。違いますか、ともりさん」

「……もういい。もういいから」

 それだけを呟いて、ともりはその場に崩れ落ちた。


  *


 ノートを読んだのだという。

「ノート?」

 事務所のソファで解決祝いのコーラを飲みながら、みみこ君は首を傾げる。

「ああ。一ヶ月くらい前、部室に置いてあったらしい。中を開くと、姉に関する記述やら写真やらでびっしり埋め尽くされていた」

「あちゃー。そんなの見ちゃったら、彼女がどうなるかは想像に難くないですね」

 その言葉にわたしは頷く。

「ノートはすぐ真藤のものとわかったそうだ。実際、真藤はあかりへのストーカー行為を以前から続けていたみたいだね。あかりに気づかれないよう、上手くやっていた」

「でも、うっかりノートを置き忘れちゃった、と」

「まあ……そうだね。で、見つけたともりは一通り目を通して、殺意を身に宿した。だが、どうやって殺す? そのとき……」

「そのとき?」

「彼女の頭に降ってきたんだ。今回のあのトリックが」

「あー」みみこ君は哀れみの表情を見せた。「それは運が悪かったですね。トリックなんて思いつかなかったら、殺人なんてしなかったかも」

 それはない。と私は断言できる。

 彼女は絶対にトリックを思いつく。なぜなら、彼女は【犯人】だから。

「ところで今の情報、警察から聞いたんですか?」

「え、もちろんそうだよ」

「はー、いつもながらあの人たちは口が軽いですねえ」

 みみこ君は呆れたようにくすくす笑う。その頭上に浮かぶ【黒幕】の文字を見ながら、私は無言で目を閉じる。

 この世界の全ての事件は彼女が裏で糸を引いている。

 初めて会ったときから彼女は【黒幕】だったし、それは世界に確実に決められたことだった。

 だから私には、真相がわかる。

 ノートを作ったのはみみこ君だ。

 彼女はともりたちのことを事前に知っていた。真藤の秘密やともりの性格を把握し、あと一押しすれば事件に発展すると確信していた。そしてその一押しを『置き忘れたノート』という形で実行したのだ。

 もちろん雨で道に迷ったというのも嘘だ。彼女は同好会があのペンションに泊まることを知っていて、意図的にそこに車を回したのだ。

 巧妙なのは、みみこ君自身は何の犯罪も犯していない、という点だ。彼女がやったのは『フェイクのノートをともりに見せた』ただそれだけ。一体それが何の罪に問われる? 事実として、殺人の全ては間違いなくともり一人が考え、実行したのだ。

 つまり、みみこ君はただ、事件の種に火をつけただけなのだ。

 こういった『事件の種』を、彼女は無数に所有している。そしてことあるごとに着火して、行く末を楽しんでいるのだ。

 ……そんな馬鹿げた妄想を、間違いなく真実なのだと確信できるのはこの世界で私しかいない。彼女が【黒幕】だと知る、私だけ。

 私はかつての、夕暮れの電車内を思い出す。

【黒幕】の彼女と行動を共にすれば、いつか【名探偵】に出会えるかもしれない。

 だから、私は彼女に声を掛けたのだ。

「……なあ、みみこ君」

「何です? 所長」

「次の事件が楽しみだね」

 私がそう言うなり、みみこ君はくすくす笑った。

「本当にその通りですね、所長!」

 屈託なく笑うみみこ君を見て、私はいつも、感情がよくわからなくなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きみの【役割】を知っている 水池亘 @mizuikewataru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ