さよならとㇱ・フラット
「考え直さないか」
絞り出された男の声が、冷房の効いた部屋の中に響いた。男の前に座る少女は、その様子をまっすぐな目で見ている。
「藤崎、お前がいないと困るんだ」
どうにか縋ろうとする男に対し、藤崎と呼ばれた少女は微笑みながら、しかし、はっきりと首を振った。
放課後、隣の音楽室からは吹奏楽部員たちが練習する音が聴こえてくる。ここは音楽室から一枚の扉を隔てた音楽準備室。
向かい合う二人の男女……安住と藤崎は、吹奏楽部の指揮者兼顧問と吹奏楽部員であった。なぜこの二人が向かい合っているのかといえば、藤崎がもつ「退部届」に端を発していた。
四月、夏のコンクールに向け始動し始めた吹奏楽部。メンバー選定もだいたいめどがつき始め、バンド一丸となって、練習に励む時期だ。そんな時期に、目の前に突きつけられた退部届。しかも、と安住は小さく歯噛みする。
藤崎は、吹奏楽の花形と言われるトランペットのエースプレイヤーだ。今年のコンクールは彼女の音を活かす曲を、そう考えていたほどに、彼女の華やかでまっすぐな音色は、まさにバンドの柱だった。藤崎の離脱はバンド全体の方向性に大きく関わる。
「考え直す気はないのか」
安住の問いにも藤崎の凛とした雰囲気は崩れることがなく、頭の動きについてくるようにポニーテールが左右にゆれた。藤崎は「安住先生」と小さな声で男に語りかけた。
「『部活動』を辞めることは、生徒の自由であるはずじゃないですか?」
その言葉を聞いて、安住は冷や水を浴びせられたような心地になった。
そう、彼女の言葉は正しい。藤崎は学業が本分の学生で、部活動は基本的にあくまでおまけの二の次。しかし、その『建前』を安住はすんなりと飲みこむことが難しかった。
目の前の少女より一回り以上も大人の男が必死に「行かないでくれ」と訴えかける。なりふりかまわない様を自身の生徒にさらすのは、安住としても情けないほどこの上ない。しかし、彼がそこまでして必死に藤崎を引き留めるほどには、安住にとっても吹奏楽部は「たかがおまけの部活動」ではなかったのだ。
「……わかってる。俺も、お前の意思はできる限り尊重したい。でも、せめて、理由を聞かせてくれないか」
まあ座れよ、と安住に促され、藤崎は椅子に腰を下ろす。ようやく握られていた手が机の上に放り出されるのを見て、彼女も緊張していたのだとようやく理解した。生徒が意思を固めてやってきている場で、自身の意地と感情を優先させてしまったことへの申し訳なさも同時に湧き上がってくる。
藤崎は、少し目線を彷徨わせていたが、やがて口を小さく開いた。
「──わたし、先生が好きでした」
「……あ?」
「そういう意味じゃないですよ」
ずいぶんとマヌケ面をしていたのだろう安住を見て、藤崎はいたずらが成功したような笑顔を浮かべる。
「さすがに勘違いはしないよ。だけどね、一応今はまじめな場なんだから、紛らわしいことを言うな」
わざとらしい咳払いが添えられた返事に藤崎はクスクスと笑う。それは教師をからかおうという悪戯な表情ではなく、一瞬緊張が解かれていつものやり取りに戻った安堵の表情に見えた。
室内の空気が緩んだ時、ふっと扉の向こうの音が止み、そしてすぐに部員たちのそろった挨拶が聞こえてきた。横目で時計を確認すると、部員全員そろっての基礎練習の時間になっていたらしい。低音楽器から、基準の音に合わせてチューニングをしていくのが扉越しに響いてくる。
オクターブで重なっていく基準の音ㇱ♭を聴きながら、安住は細くため息をついた。聴き慣れた音は波立った心を落ち着かせる。藤崎もまた、息を整えてから話を続ける。
「でも、先生のことが好きなのは本当ですよ。先生の指揮で演奏している時が、わたしは何よりも楽しかったから」
そう語る彼女は静かだった。しかし顔は恋する少女そのもので、憧れの存在に目を奪われて他のものが一切見えなくなった、危うい純粋さを感じさせる。
「先生も、わたしのこと好きだったでしょう?」
藤崎の口調は、自信に満ちていた。いたたまれなくなって視線を逸らした安住を、逃さない。
安住は観念したように小さな声で返事をする。
「……当たり前だろう。お前のトランペットは本当に魅力的で、このバンドの要なんだ。お前の演奏に何度助けられたことか。お前たちには何度も伝えたと思うが、俺は本気でこのバンドを全国へ連れていきたいと思っている。お前たちの熱意に俺も全力で答えたいからだ。コンクールも近いんだ。お前がいなくなると困るんだよ。これは指揮者としての俺の本音だ」
今、聴こえてくる部員たち音色に藤崎の音が入っていないだけで、何かが欠けていると感じてしまうほどには、と安住は言うべきではないもう一つの本音を飲みこむ。
「……わかってます。わかってます、先生がそう思ってくれていることは。だって、先生と創る音楽は本当に楽しかったから」
その言葉と同時に、今度は音がぴたりと止んだ。
静かになった部屋の中を、藤崎の物語でも語るようなうっとりとした声が満たした。彼女から伝わってくるのは、心底音楽が楽しいという感情。
「まるで、広くて大きな海みたいだった。その海はわたしの知らないものがたくさんあって、わたしはそこを泳ぐのが楽しくてしかたなかった。フランス革命みたいな昔の出来事も、火の鳥みたいな伝説の生き物も、音楽を通じてなら触れることができた」
「そこまで言うなら、どうして退部を……」
「──夢中になりすぎたから」
今まで藤崎の声から、柔らかさが消える。
「わたしには先生との音楽だけあればいいと、本気で思っていました。勉強よりも、友達と遊ぶよりも、部活が楽しかった。でも、わたしが先生の元で演奏できるのはこの三年間だけ。今のわたしから吹奏楽を奪ったら、何も無いって気付いちゃったんです」
彼女の言うことはもっともだった。
高校三年生という大事な時期、部活よりも将来のための準備を選ぶことはあるべき選択だ。プロになるわけでもない学生限定の「お遊び」に興じるくらいなら勉強すべきというのが常識なのかもしれない。
それでもなお、安住は「お遊び」に全力でありたかった。立場を忘れて音楽という大海原を一番楽しんでいるのは自分なのだと、この仕事に就いてから幾度目の実感をさせられる。
安住はとうとう、何も言えなくなってしまった。藤崎の将来を考えたなら、ここで退部届けを受け取ることが正解なのだ。
安住と藤崎は指揮者と音楽家ではなく、どこまでいっても教師と生徒。生徒の未来を潰しかねない真似は、教師としての理性がそう告げていた。
「私ね、先生に自慢してもらえるような人になりたい。だから、もう一緒に音楽を奏でられないことを許してください」
「……わかった」
丁寧に育ててきた稚魚が、生簀を飛び出して本当の大海原に泳ぎ出していく。彼女が今まで大きな海だと思っていた、安住の世界から去っていく。子供が親離れするような、仲間が故郷から去るような淋しさが安住を支配する。しかし安住はそれを振り切って、縒れた退部届けを受け取った。
「ありがとう」
その言葉を告げたのは、お互い同時だった。
藤崎は立ち上がり、深々と頭を下げた。そして音楽準備室から出ていく背中を安住は何も言わずに眺めていた。パタリと扉が閉められるのを確認して、安住は息を吐きながら天井を仰いだ。
再び一斉に聴こえてくる『シ♭』。
安住の音楽の基礎になるその音は、昨日までとは違う音だった。
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