01_Reverse: White City - 05
「一か月前のことだ。開胸手術を終えた直後、まだ彼女がICUに入っていたとき……」
嘴馬は恐る恐る話し始めた。それを口にしてしまえば、全てが真実であると認めざるを得ない──そんな恐怖を抱いているような印象を受けた。
「影の中から、女が現れたのを見た」
「影の中から──ですか?」
俺は考える。影に潜む幻想の者。人の形を取る幻想は少ない。現代でも社会に紛れているとすれば──。
「ああ。背が高い、黒髪の女が……彼女の身体に何かを入れているところを見た。絶対にあれは人じゃない。黒いヤギを何匹も傍に侍らせていた」
椿は「妖精だな」と呟く。
妖精は信仰によって確固たるイメージが形成され、安定化される。また、何らかの恐怖や共通認識から〝ゆらぎ〟としてこの世界に出力されることがある。椿の侍らせるアノマロカリスが良い例だろう。その〝ゆらぎ〟たちは正確に言えば、妖精未満であるが。
「それはつまり、彼女の腹に何かを植え付けているところを目撃したという意味か?」
「そうだ。こんなの見たのは医者やってきて初めてだ……」
嘴馬は深々と息を吐きだす。誰にも話さず胸に秘してきたのだろう。
「それで、そいつは他に何かしていましたか」
「俺が慌てて走っていったら、風船が弾けるみたいに消えた。それで終わりだ……」
軽く左右に頭を振る。
「莫迦げたことを言ってるのは分かってる。けどあれは絶対に寝不足の幻覚なんかじゃない。俺だってこんな話、信じたくねえよ。だけどあれは間違いなく現実だ。現実に起こった出来事で──」
「魔女は空間を渡る。影を門にして移動しているなら、嘴馬が目撃した謎の女が魔女である、という話の筋は通るな」
椿はごく真面目に言った。嘴馬は少し驚いた表情で考え込む彼女を見た。寝惚けていただけだろうと一蹴されるかもしれない、と思っていたのだろう。
確かに椿の言うとおり、空間魔術は〝魔女の魔術〟と呼ばれる。ここで言う『魔女』とは女の魔術師ではなく、幻想種として独立した種族である存在を指す。そして空間魔術は魔女のみが扱うことを許された奇跡だ。
俺は椿の言葉に頷いた。
「魔女は、純粋な幻想種であれば単為生殖が可能です。基本的に女性しかいませんし、仮にその謎の女が魔女なら、何らかの理由があって板取まひろを選んだ……という可能性もあります」
「そう。しかもこの一件に魔女が関わっている可能性が出てきた今、最早お前にも、峯岸の手にも負えない」
椿は一度目を伏せる。そして自信と活力に満ち溢れた表情で、カッと目を開いた。
「光栄に思え、嘴馬」
そして白衣のポケットに両手を突っ込み、実に不遜な態度で言った。
「──お前は私の才能を大脳新皮質に焼き付け、未来永劫語り継ぐ権利を得た」
***
その少女が入院しているのは、東医の十階──特別病室と呼ばれている、随分高い代金が設定されている個室病室だった。柔らかいセミダブルベッドを軽くリクライニングさせて、その患者──
焦げ茶色の少し波打った長髪。前髪は額がはっきり見えるほど短く、深窓の令嬢といった儚げな雰囲気を持っている。しかしその雰囲気とは裏腹に、少女が読んでいたのは最近話題のSFミステリー小説だった。確かイギリスの作家が執筆したもののはず。
忙しさを言い訳に、俺はすっかり本を読まなくなっている。最後に手に取った本のタイトルすら思い出せず、意識が逸れる。まひろがこちらへ視線を向けたのに気づくのに数秒送れ、椿に肘でどつかれてから漸く気づいた。
「あの、どちら様でしょう」
まひろは鈴の音のような声色で椿へ呼びかける。俺は彼女の背後から一歩踏み出し、捜査官手帳を掲げた。
「厚生労働省の螺旋捜査官です。少しお話をお伺いしたいのですが」
「──ッ!?」 まひろは露骨に表情を強張らせて、「お、お引き取りください! わたし、何もしていません!!」
「落ち着け。こいつは私のポチだ」
「誰がポチや」
好き勝手言いやがって、とは思ったが、椿の横暴な言葉にまひろは幾許か落ち着きを取り戻したようだった。
「ぽ……ポチ……? ええと、その、ええと……」
「私は四宮椿。嘴馬の紹介で来た専門医だ。お前の身に何が起きているのかを解き明かしてやれる」
「本当ですか!?」
まひろはベッドサイドに近寄った椿の両腕を勢いよく掴んだ。あまりにも鬼気迫る様子に俺は一瞬気圧される。
「だ、誰も信じてくれないの! わたし、わたし、そんなふしだらなことしてない! お友達だって女の子しかいませんし、寮で暮らしてて……関わる子たちだって、みんなそう! 中等部からずっと!」
「理解している。お前が窮地にあることも、お前が有り得ない症例であることも。
案ずるな、板取まひろ。私はお前を救うために来た」
まひろは「わたしを、救う……」と、椿の言葉を繰り返す。限界まで見開かれた瞳から一筋、堪えきれなくなった涙が零れる。
「ぁ…………あ、ああ……! う、うう…………うあぁ…………!」
まひろは椿に掴みかかるようにして嗚咽を漏らした。ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち、椿は咽び泣く少女を抱え込むように抱きしめ、背中を摩ってやる。
彼女はこのとき、間違いなく医者だった。
たとえ多くの鎖に縛られ、この医学特区に留め置かれている存在であっても。
「四宮」
「余計な事を言う気なら、その綺麗な顔面をぶん殴るぞ」
「んなこと言うか、ボケ」
俺は息を吐き出して、それを告げる。
「螺旋捜査官権限で、本案件におけるお前の行動の一切を容認する」
椿は一瞬動揺したように固まって、目を見開く。泣きじゃくるまひろの背を摩る手が止まった。俺は言い訳を重ねるように続ける。
「これは必要なことやからな」
「──やはり私は〝あたり〟を引いたようだ」
そう言って、椿はだいぶ落ち着いてきたまひろから身体を離した。ベッドサイドのキャビネットに置かれていたティッシュペーパーを数枚引き抜き、彼女に手渡してやる。
椿のドクタースクラブはまひろの涙で濡れていた。だがそれには一切気を留める事もなく、椿は少女をじっと観察している。
「産婦人科の峯岸とは話したか?」
椿は鷹のような鋭い視線でまひろを見つめた。少女はか細い声で「はい」と呟く。しかしその様子を見る限り、何か事態が好転するようなことは何一つなかったのだろう。
「私、本当に訳がわからないんです。だって、関わったことがある異性の方って、学校の先生、お父様……」
「一ヶ月ほど前、東医に救急搬送されているだろう。その際に関わった異性はいるか」
「きちんとお話ししたのは、救急の先生と、それから心臓外科の嘴馬先生だけです」
「気を悪くするなよ。とても重要なことだ」 椿はそう前置きして、
「お前の友人や知人に、同年代の異性はいるか? SNS上だけの付き合いや、誰にも話していない交友関係などは?」
まひろはスマホを取り出してロックを解除し、そのまま椿に差し出した。
椿は迷いなく受け取ってアプリを閲覧する。唯一インストールされていたSNS──Instagramの投稿は空白だったが、数十人と相互に繋がった状態だった。しかしそこに異性はいない。全員女子校の同級生か、先輩後輩の間柄であることがわかる。
「アカウントはこれだけか?」
「もう一つありますが、そちらはパスワードを忘れてログインできなくなってしまって。一年以上放置しています」
「......お前。重要なことを話していないだろう」
まひろは椿の声にびくりと肩を一瞬震わせる。そっと様子を伺うと、椿はスマホを眺めている。画面には直近でやり取りされた履歴があるダイレクトメッセージの一覧が表示されていた。
「で、でも、その……」
「構わん。言え。何が真実に迫れる手掛かりかわからんからな」
「でも本当にあり得ない話なんです」
彼女はそう言って掛け布団をきつく握りしめた。指先が白んで、力がこもっている。
剃刀のような鋭さを持った椿に、それがまやかしであると断じられることを恐れているのが容易に理解できた。
「板取さん。どうか話してほしい」
俺はできる限り柔らかく、優しい声を出すことを心がけながら口を開いた。
「俺と四宮は、板取さんのような不可解な症例を扱う専門家だ。必ず貴女の力になると約束する」
「あ……」
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