第21話 儀式前夜Ⅱ──祈りを支える者たち
星辰神殿・南門搬入口──。
朝霧がまだ石畳の隙間に滲む刻限、王都の喧噪から切り離されたこの神域に、財務府の輸送馬車が二台、重い軋みを響かせながら滑り込んだ。先導するのは王立警衛隊の小隊、そして荷台には祈祷用具の納品目録を手にした財務府の若手官吏──ユーリの姿がある。
「財務府納品班、到着しました! 本日分、搬入を開始します!」
張りのある声が石造りの門壁に反響し、門番の神官が手早く認可状の印を確認する。認可の札が掲げられ、音もなく門扉が開くと、清められた石畳が奥へと続いていた。
荷台から次々と降ろされる木箱。それらはいずれも特注の一点ものであり、いずれも破損厳禁。なかには「儀式槍銘刻用具」や「星見窓補助具」など、神託に関わる秘儀の品も含まれていた。ユーリは工程表と納品目録を交互に睨みながら、確認作業に走り回る。
「“香炉一等”、確認しました! 銘刻番号“セレス・第十九紋”、運搬異常なし!」
「“祈祷布セット・純白”、三組すべて封印状態良好、破損なし!」
神殿側の神官が青銀の儀服を揺らしながら、穏やかな所作で検品を進める。その衣の裾からは微かな香が漂い、搬入現場に静かな神聖さを帯びさせていた。
その香に気づいたユーリは、思わず調香担当官へと声をかける。
「“夜風の香”の受け渡しは、昼の鐘が鳴り終えた後で間違いないですか?」
「ええ。最終精製を終えました。今は焚き合わせ室で調香師の印を待っています」
「了解。搬入タイミングだけ、再確認させてください」
対話は短く、しかし誤解を生まぬよう丁寧に交わされる。香の扱いは儀式そのものの印象を左右する、繊細な工程だ。
その一方、神殿搬入口の傍では、グラムが手元の設営図を睨みながら指示を飛ばしていた。監査課の課長として、全体の進行と調整を担っている。
「第三搬入口はまだ空いてる。あそこに“儀式槍”と“台座”をまとめて搬入。騎士団の通行時間と被らないよう、次の便を早めに動かしてくれ」
「了解、再配置かけます」
応じたのはラインハルト。すでに数回、物資の出入りを経験してきた彼の指示は滑らかで、混乱なく人と荷が流れていく。
馬車の車輪が軋む音、木箱の揺れ、儀服の衣擦れ──。朝の神殿に、日常とは異なる時間が静かに満ちていく。
少し離れた回廊からは、神殿の副典儀官・マルセロの姿が見える。彼は無言で、各部署の神官に確認の印を送り、搬入の流れを監督していた。その所作は淀みなく、まるで星図を描くように整然としている。
その背中を見ていたユーリは、不意に言葉を失った。
──これが、“神事”というものなんだ。
自分たちが搬入しているのは、単なる物資ではない。神域に触れる儀式の一部であり、“祈り”を形にするための礎だ。彼の胸に、初めて確かな実感が芽生えた。
「ユーリ、次の便の再検品、終わったぞ」
「はっ、はいっ!」
そのとき、納品検品を終えた神殿の神官がふと足を止め、ユーリにだけ聞こえるような声で静かに言った。
「……こうして“形”が整うのも、香が届くのも。財務府をはじめ、皆さまの尽力あってこそです。
儀式は神官だけのものではありません。あなた方の誠実さが、祈りを現実に変えるのです」
──その一言は、ユーリの胸に深く染み渡った。
地味で、息もつけぬ奔走の日々。そのすべてに意味があったのだと、初めて確信を得た気がした。
そして、納品の第一便は、すべて滞りなく完了した。
星辰神殿・調香所──。
昼下がりの光が差し込む中、厳重な香封棚が並ぶ奥の部屋に、デュランの足音が静かに響いていた。
幾重にも重ねられた布のれんをくぐるたび、空気の密度がわずかに変わっていく。そこは、神殿内でも選ばれた者しか足を踏み入れられない“焚き合わせ室”だった。
迎えに出たのは、白銀の髪を後ろで束ねた年嵩の調香師だった。衣には微かな香が染みつき、瞳には長年の知見と静かな威厳が宿っていた。
「財務府からのご足労、痛み入ります」
「こちらこそ、貴重な香をお預かりする以上、我々も粗略には扱えませんので」
儀礼的な挨拶を交わした後、調香師は奥の台へと案内した。そこには封印紙を巻かれた小箱が三つ、並んでいる。朱で記された印──“夜風の香”。
「こちらが最終検印を経た焚き合わせ品です。第三鐘から六鐘にかけての星角と香流に一致するよう、微細な調整が施されています」
デュランは頷き、慎重に小箱を手に取る。掌に伝わる冷たい木肌。その重みは、単なる物質ではない。
「昨年の式と同配合、かつ、新月周期への調整済み……香輪は二層、芯材はユーカ精と白露草、間違いありませんね?」
「はい。貴殿方が求められた“夜風”の再現です。香の流れも、例年と変わらぬ強度で。……ただ、一つだけ」
調香師は、ふと目を細めた。
「星の動きが、少しだけ、早いようです」
「天球環の射角ですね。こちらも観測班と連携して、時刻補正をかけました。焚き初めは第四鐘三刻予定。変更は?」
「いえ、問題ありません。それだけ準備されていれば、神も喜びましょう」
──神も、か。
「……この香には、いかほどの職人が関わったのですか」
「精香師が四名、焚き合わせが二名、検印が一名でございます。皆、夜を徹して仕上げました」
「それほどの手が加えられて一つの香が生まれる……。香にすらそれだけの想いが込められているのです。──であれば、我々が過つわけにはいきませんね」
調香師は目を細め、微かに頷いた。
そこには、同じ責任を知る者だけが持つ、静かな共感があった。。
デュランは箱を風呂敷に包み直すと、そっと抱えるようにして立ち上がった。
その背に、調香師の声がかけられる。
「……どうか、この香が導く先が、穏やかな光でありますように」
デュランはわずかに肩越しに顎を寄せ、視線だけを向けた。
「拝命いたします」
調香所を出たその瞬間、神殿の中庭から鐘の音が響いた。第四鐘──時刻は、着々と“あの刻”へと近づいている。
道すがら、彼はふと、昨日の深夜にノエルと交わした言葉を思い出した。
「……それでも、届ける者がいなければ儀式は成立しません。任せられるのは、あなたしかいないと思っています」
ノエルはいつも、物事を冷静に切り分ける。だがその根底には、誰よりも儀式の意味を知る者の信念があった。
──そうだ。俺たちは、ただの運び屋じゃない。
ユーリの奔走、カイルの配置調整、バルドの文書処理。
それらすべてが、この一箱に“意味”を持たせている。
神に祈る者の背を支えるのは、香の香りであり、道を整えた者たちの汗なのだ。
その重みを腕に感じながら、デュランは神殿回廊を抜けた。
陽は傾き、影が長く伸びていた。
彼の胸にあるのは、不安でも焦燥でもない。
ほんのわずかに、誇りに似た、静かな感情だった。
王都・財務府──。
夕刻。
神殿からの最終納品が完了したとの報が届き、ノエルは静かに立ち上がった。
応接室の窓辺から見える空は、すでに茜色に染まりつつある。
「……すべて、通ったか」
窓に背を向け、彼は机に整えられた報告書の束へと視線を移した。
各部署からの進捗報告には、すべて“完了”の印。
儀式用具の納品──済。
調香所からの香受け取り──済。
衣装の再染色──済。
工程動線の最終調整──済。
いずれも、わずかなズレが式全体の齟齬に直結する。
数か月におよぶ調整の末、ついに“すべてが揃った”。
そのとき、控え室からラインハルトが顔を覗かせた。
「香、届いたよ。デュランさんが直接確認してる。神殿側も“問題なし”ってさ」
ノエルは小さく頷き、湯飲みに視線を落とした。
「ありがとうございます。……引き継ぎに問題がなかったこと、記録に残していただけますか。式典監査で香の系統を問われる可能性があります」
「了解。記録、入れておくよ」
去っていく背を見送りながら、ノエルは冷めた湯飲みに口をつけた。
すっかり温度は落ちていたが、不思議と喉に沁みた。
「……ここまで来た、か」
声はごく小さく、応接の木壁に吸い込まれていく。
──召喚儀式。
本来は神官たちの手の中で完結する行事だった。
財務府がこれほど深く関わる日が来るとは、数年前の自分には想像もできなかっただろう。
だが今は違う。
納品記録の一行一行に、自分たちの足跡がある。
誰もが、ただの“裏方”ではなかった。
ノック音。
入室してきたのはユーリだった。
少し緊張した面持ちだが、どこか達成感をにじませている。
「……これ、最後の工程表です。夜間見回り班の交代スケジュールと、明朝第五鐘時点の配置図です」
ノエルは黙って受け取り、細部を確認する。
修正なし、誤記なし。
初期配属時には手が震えていた新人が、今やこの実務を一人でまとめ上げたのだ。
「……ご苦労様。あとは明朝、第一鐘集合だ」
「はい。……あの、もし──」
ユーリは言いかけて口を噤む。
ノエルが視線を向けると、少し言葉を探すようにして口を開いた。
「……“僕たちのやったこと”って、本当に意味、あったんでしょうか」
ノエルはふと、笑みを浮かべた。
「――あるとも。ユーリも見ただろう、“夜風の香”を。
あれは、我々の工程と予算がなければ存在し得なかった香だ」
「でも……最終的に祈るのは、神官の方々で」
「違うな。祈りとは、“形”を支えたすべての手を通じて、成立するものだ」
ノエルは立ち上がり、書棚から巻物を一本引き出した。
召喚儀式の初期草案。
汚れと修正跡の残るそれを、彼はゆっくりと机に戻す。
「ユーリが帳簿を整え、カイルが人の流れを支え、バルドさんが一行一行の文書を通した。
……そのすべてが、明日、神殿の床に顕れる」
ユーリは目を見開き、そして小さく、深く頷いた。
「……はい」
「もう帰っていいよ。今日はよく頑張った。夜は冷えるから、湯でも飲んで、少し休んでね」
「ありがとうございます」
ユーリが頭を下げ、応接室を出ていく。
ノエルは残された書類の山を一瞥し、椅子に腰を戻した。
王都の空はまだわずかに茜を残していたが、その輪郭はすでに夜の色に染まりかけていた。
儀式の開式は、明朝第五鐘。
すべては、あとひと晩を越えるだけ。
彼は再び目を閉じ、椅子の背に体を預けた。
──ここまで来た。
何かを成し遂げるとは、こういうことかもしれない。
言葉も、拍手もない。それでも、満ちている。
静かな部屋に、星辰神殿の方向からわずかに鐘の音が響いた。
それはまるで、明日へと続く約束のようだった。
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