第15話 決裁の裏にて──宰相と監査課の対話
国政庁の奥、石畳を静かに踏みしめて歩くひとりの男がいた。
財務府監査課長、グラム・オルディア。灰色の上着に身を包み、手には細身の革綴じ資料を携えている。取次の役人に名前を告げると、すぐさま案内がついた。
「宰相閣下かお待ちしております。こちらへ」
宰相の執務室へと通される廊下は、整然としていて無駄がない。だが、その静けさの裏には、王国の機密と判断が日々交差する重みがあった。
執務室の扉が開かれると、広々とした室内に、ひときわ存在感のある人物が座っていた。
王国宰相、ベルンハルト・リューゲル。
軍務出身でありながら、今は文官の頂に立つ老紳士。
銀髪に鋭い目、だがその声には冷たさではなく、研ぎ澄まされた知性が宿っていた。
「……おう、オルディア君。王命だの勇者だの、最近は騒がしいな」
「ご多忙のところ、恐縮です。勇者召喚に伴う特別予算枠について──本来であれば、局長級が伺うべき場と存じますが、召喚儀式はあまりに特例が多く。実務を担う者として、経緯と現場状況を直接お伝えできればと思いまして、最終確認をいただきたく参上しました」
グラムが深く一礼すると、リューゲルは側仕えに合図を送る。
「茶を二つ。煮詰めず、柔らかい香のやつを頼む」
そのあいだに、グラムは静かに応接の椅子に腰を下ろした。
目の前の男と話すときは、いつも「戦盤遊戯の中盤」から始まる。
互いに既に読み合いを重ねているため、最初の数手は探りではなく、仕掛けそのものだ。
リューゲルは軽く頷き、切り出す。
「……ほう。召喚か。ついに火蓋を切る段となったか」
それは驚きではなく、状況を測る言葉。事態の始まりにして、慎重に構えねばならぬ局面の訪れを、彼はそう表現した。
グラムは少し肩をすくめる。
「まだ火種です。ですが、消すにも燃やすにも、火の性質を見極めなければなりません」
言葉の端に皮肉が混じる。勇者召喚という不確かな存在──
王命であっても、むやみに扱えば国家の負担となりかねない。
逆に、適切に扱えば希望にもなり得る。その“見極め”を担うのが彼らの仕事だった。
リューゲルの口元がわずかに緩む。
「相変わらずだな、オルディア君。前例と現実を天秤にかける癖は、君の部署の伝統か」
一見、揶揄するような言葉。だがこれはリューゲル流の敬意の表し方でもある。
規則に縛られながらも柔軟な解釈を模索する監査課の手腕を、長年見てきた者にしかできない言い回しだった。
グラムは、眉ひとつ動かさずに応じる。
「ならば、閣下は秤そのものということで」
これはまさしく“返し”。
宰相が国の決定を量る天秤の役割を担っているという事実を認めつつ、
同時に「あなたこそ我々を正す存在だ」と、対等な目線で返しているのだった。
ふっと口元だけで笑ったリューゲルが、グラムへ目を向けた。
──二人のやり取りは、まるで鍛え抜かれた剣同士の触れ合い。
刃を立てずに、だが確かに互いの切れ味を確かめるような静かな緊張が、室内に立ちのぼっていた。
グラムが姿勢を正すと、リューゲルは椅子の背にもたれ直しながら問うた。
「で、議会・神殿・枢密院。三方面の根回しは?」
問いはあくまで淡々と、だが目は鋭く。
「議会は予備費転用に概ね了承、神殿とは形式において一部の歩み寄りを確認、枢密院は“文言の整合性”を条件に了承の意向です」
グラムが事務的に報告すると、リューゲルは微かに頷く。
「残るは我々の判断というわけか」
グラムは無言で頷き、小型の書類ケースから、羊皮紙を取り出す。
要点のみを箇条書きにした、簡潔な整理表だ。召喚儀式に必要な費目、執行責任部署、予備費計上の根拠が、淡々と列挙されている。
「問題は、儀式そのものが“確実な成果を保証しない”点にあります。費用対効果で測れぬがゆえに、反対論の余地も大きい」
リューゲルの指が、資料の端をなぞる。目は細く鋭く、その内側で何かを測っている。
「──成果とは何だ。民意か? 戦果か? 歴史か?」
その問いには、答えそのものよりも、“答えられぬこと”が意味を持つ。
グラムが、わずかに肩をすくめた。
「“神の御意”とでも言えば、美しくはありますが……記録には残りません」
リューゲルの視線が羊皮紙の文字を追い、やがて静かに頷いた。
「……異議はない。ただし、監査課として“実施後の効果測定と記録”を残せ。結果が出なくとも、“その時点で何が正しかったか”を遺すためにな」
──その言葉は、将来の誰かが、過去の正当性を問うときの“道標”となるべく語られたものだった。
リューゲルは一拍置いてから、書類から視線を外し、壁のほうへと目を向ける。
窓の外、遠く鐘楼の尖塔が朝の光を受けて霞んでいた。
「……この王国では、百年前の予算書もいまだ写本棚の中に眠っている。“なぜこうなったか”を問い直す者が、必ずどこかにいるのだよ。五十年後か、百年後かは分からんがな」
グラムは静かに頷いた。
「だからこそ、我々の記録は“書いた者の理屈”ではなく、“当時の選択肢と根拠”を正しく残すべきです。善悪でなく、合理性の積み上げを」
「監査課の出番だな。議事録に残るものだけでなく、“その裏にあった現実”も書き残せ。──事後検証に耐えるようにな」
リューゲルが卓上の木箱を指差した。中には布で包まれた薄い冊子がいくつか並んでいる。彼が日々書き継ぐ「公務備忘録」の写本だった。
「私も昔は、そうして書いていた。公用とは別に、“この決裁の裏に何があったか”を短く記すだけだが──あれは意外と後から役に立つ」
「……ならば、我々も一冊、私記を設けましょう。若手にも順に引き継いで、“過去の言葉”の意味を伝えるために」
グラムのその言葉に、リューゲルは目を細めて微笑んだ。
「やれやれ、君がそう言うなら──今のうちに、良い筆を手配しておいた方がよさそうだな」
二人は互いに席を立ち、静かに握手を交わした。
「相変わらず、口調は柔らかくても肝は鉄だな」
「閣下に比べれば、まだ真綿です」
廊下に出たグラムが背後で扉の閉まる音を聞いたとき、彼の表情はわずかに緩んでいた。
「──さて、準備は整った。あとは勇者の登場を待つだけだ」
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