朝露に揺れる

七宮叶歌

朝露に揺れる

 例えば、こうしよう。俺は命を付け狙われている。奴の狙い通り、俺は人気の無い路地へと入り込んでしまう。そこに銃声が鳴り響く。と同時に、俺は胸を射抜かれて倒れる。

 果たしてこれは本当の『死』なのだろうか。

 確かに肉体は滅びるが、心までは死んではいない。

 まあ、盗賊なんかしているくらいだ。俺の命を狙う奴は一人や二人居ても可笑しくはない。実際、銃口を向けられた事は何度かある。

 その度に謎の声が聞こえ、俺を助けてくれたのだ。


“此方を向け!”


 銃声が鳴る直前に背後から聞こえ、振り返った。弾丸は俺の左頬を掠め、洞窟の壁を穿つ。


「……チッ!」


 此方もやられるばかりでは無い。咄嗟に左腰にぶら下がる拳銃を抜き、引き金に指を掛ける。

 銃口が火を吹いた時には、そこに存在していた者はただの物と化していた。

 声の正体は未だに分からない。何故、俺を助けてくれるのかも。

 もしかすると、愛するシルビーの父親なのかもしれない。

 シルビーの父は、彼女が幼い頃に亡くなっている。もう、顔を思い出す事も出来なくなってしまった。

 彼が俺を助けてくれるのでは。そう思うには理由がある。

 幼馴染みであるシルビーは半年ほど前に『失心症』という病を患った。徐々に心が、感情が欠落していくのだ。最初は笑顔が減ったな、程度の症状だったが、三ヶ月前に会った時には窓の外を無表情で眺める事しかしなかった。

 俺は肉体の死よりも失心症の方が何倍も、何十倍も残酷だと思うのだ。

 ただし、失心症を治す手立てが全く無い、という訳では無い。

 五十年に一度だけ咲く、夜闇の中で青白い光を放つ花――受心草の朝露を飲ませれば、失心症は治る、とされている。

 それが理由で盗賊なんかをやりながら、旅の資金を貯めている、という訳だ。

 そして、今日の深夜が受心草の咲く日とされている。森を抜け、山を登れば山頂に生息している筈だ。

 この島へと渡る直前に、俺には相棒が出来ていた。


「花が咲くまでに、登頂に間に合うか?」


「間に合わせるんだ。エリイが待ってるだろ?」


「あぁ、そうだな」


 希望に胸を膨らませるアランもまた、エリイという恋人を失心症から救い出そうとしている。エリイはシルビーよりも病状が進行しており、眠り姫となっているらしい。旅の途中の酒場で自棄酒を煽っていると、アランが隣の席へビールを片手にやってきて、身の上話を聞かされた。

 それから意気投合し、今に至る。


「のんびりしてる暇は無いぞ。急ごう」


「そうだな」


 草の香りを含んだ涼しい追い風に誘われるように、二人揃って鬱蒼と生い茂る森へと足を踏み入れる。

 此処に来てまで命を狙われる事は無いだろう。その小さな油断が悪い状況へと転んでしまった。背後に複数の気配を感じたのだ。振り返ってみても、木が邪魔になっていて姿を確認する事が出来ない。


「付けられてるか?」


「多分」


「タチの悪い盗賊狩り、か」


 此処で死ぬ訳にはいかない。かと言って、状況を打破出来る術を持っている訳でもない。

 二人で焦りを滲ませていると、不意にあの声が森に木霊したのだ。


“走れ!”


 従うが勝ちだ。


「アラン、走れ!」


 叫ぶと同時に、鉄砲玉の如く駆け出した。気配と足音も俺たちを追ってくる。


“前方に向かって思い切り飛べ!”


「前にジャンプだ!」


 言われた事を復唱し、大地を思い切り蹴り上げた。着地すると同時に、背後で土砂の崩れる音が響く。

 俺たちがジャンプをして避けた場所には、大穴が空いていたのだ。敵と思しき気配は既に無い。


「落とし穴か? それとも陥没か?」


「それよりハイン、どうして地面が抜ける事が分かった?」


 アランは訝りながら、俺に鋭い眼光を向ける。


「それは……」


 俺が作った穴だと疑われているのだろうか。この状況ならば、それも仕方が無い。

 真実を話して信じてくれるのならば、それが一番なのだが。


「信じられなくても、俺は知らないからな」


 一言断りを入れつつ、重たい口を開く。


「ピンチになると、声が聞こえるんだ」


「声?」


「あぁ、誰だか分からない、謎の声がな。で、俺を助けてくれる」


 アランは納得していない表情で「ふぅん」と漏らす。


「ま、別に俺はお前が嘘を吐いてても、吐いてなくてもどっちでも良いんだけどな。兎に角、さっきの事は礼を言っておく。本当に助かった」


「あぁ、素直に受け取っておくよ」


 タッチを交わし、互いの無事を喜び合う。今は、俺の話を信じてくれなくても良いだろう。

 森を抜けた頃には空がオレンジ色に染まっていた。カラスが不気味に鳴き、一斉に翼を羽ばたかせる。


「本番は此処からか」


 眼前に聳える山は道という道が無い。ゴツゴツとした赤色の岩肌をよじ登って行くしかないだろう。

 何も、こんな場所に自生しなくても良いではないか。空に向かって唾を吐きたくなったが、シルビーの為だ。文句は言っていられない。

 アランも顔を顰めたものの、溜め息を吐いて気を落ち着かせたようだ。


「エリイ、待ってろよ」


 独りごちると、アランは我先にと岩肌に手を掛けた。

 俺も負けてはいられない。

 掴めそうな岩に手を伸ばし、一歩ずつ確実に登っていく。休憩が出来そうな場所も無く、命綱も無く、ただただ手と足を動かした。体力は奪われていき、次第に四肢は震え始める。

 これまで盗賊として家々の壁や屋根を登ってきたのだ。俺ならやれる。自身を奮い立たせ、歯を食いしばった。

 崖の終わりは目と鼻の先だ。

 

「アラン、大丈夫か?」


「一応、な。ハインは?」


「まだ行ける」


 こんな所で諦められない、と言った方が正しいだろうか。

 最後の力を振り絞り、待っているであろう地面へと手を掛けた。肘を曲げ、身体を上へと持ち上げる。隣からも呻き声が聞こえる。

 やっとの事で平らな地へ辿り着くと、身体を横たえた。立っていられる力は残っていない。アランも同じだったようだ。大きく息を吐きながら、俺の隣に倒れ込んだ。


「此処が頂上か?」


「恐らくな」


 荒く息をしながら、空を仰ぎ見る。そこは星が瞬く世界へと変わっていた。雲は一つも見当たらない。


「……おい、花は何処だ?」


 狼狽えるアランの声に、耳を疑う。

 視線は自然と空から地面へと移っていった。花どころか、草すらも生えていない。星灯の下でも分かる。小さな荒野が広がっているだけだ。


「嘘だろ……?」


「此処まで来て、無駄足だったのかよ……!」


 余りにも悔しくて、大地に拳を振り下ろした。

 そんな事があって良い筈が無い。このままでは、シルビーが物言わぬ人形に成り果てたまま生を終えてしまう。

 他に何か手立ては――少し考えたが、思い付くものは無い。

 首を横に振り、現実から目を逸らそうとした時だった。


“アランを撃て”


 また、あの声が聞こえたのだ。

 アランを撃てとは、アランを殺せという意味だろうか。相棒となった彼を。


「そんな事、出来る筈がない!」


“アランを撃てば花が咲くとしてもか?”


「えっ?」


 驚きと僅かな希望が芽を吹き始める。

 視線を上げてみると、俺を見るアランの瞳は酷く脅えていた。


「ハイン、誰と話している?」


 目の前に居る此奴を殺せば、シルビーは助かるのだろうか。彼女の月光のような、穏やかな笑顔が思い出される。

 シルビーと比べれば、アランとの付き合いはかなり浅い。後腐れも無いだろう。散々、今まで人を殺してきたのだ。

 唯一、エリイは心配ではあるが、後で俺が見付け出せば良い話だ。居住地は聞いてある。


“アランを撃て”


 駄目押しの一声が掛かる。


「ハイン?」


「……済まない」


 真っ直ぐにアランの目を見る事が出来ない。唇を噛み締め、拳銃に手を掛ける。


「ハイン――」


「うるさい!」


 頼むから、これ以上俺の決意を鈍らせないでくれ。

 一気に銃口をアランの額へと向けた。彼も大人しく殺される筈が無く、右手を左腰へと持っていく。

 拳銃を抜かせる訳にはいかない。

 瞬時に反応し、発砲する。弾はアランの右手の甲を掠り、地面へと刺さった。


「……ってえ!」


 右手を庇いながら跪くアランに、最後の言葉を投げ掛けた。


「安らかに眠ってくれ」


 言い切ると同時に引き金を引く。

 恐怖と哀れみに満ちたアランのあの顔は、一生忘れる事は出来ないだろう。

 

 花は咲いた。確かに咲いた。アランの遺体の胸部から芽吹き、茎が伸び、葉を纏いながら、青白く光る受心草は咲いた。

 俺の心は空っぽだ。失心症にでもなってしまったのだろうか。


“ハイン、良くやった”


 ケタケタと笑う声の主は、未だに姿を見せない。


「お前は誰だ?」


“俺か? 『悪魔』だ”


 そう言われて、納得した。此奴が話し掛けてくる時は、必ず誰かが死んでいた。


「俺が殺した奴の魂でも食ってたのか?」


“それもあるが……最大の目的は受心草の朝露だ”


「何の為に」


“人間の心を得る為に、だ。お前にはもう必要が無いだろう?”


 何故、必要が無いと言い切れるのだろう。

 そもそも、俺は何故、此処に居るのだろう。誰かを救う為だったような気もするが、分からない。

 朝日が昇り、受心草から朝露が溢れ落ちる。それを真っ黒な手が掬った。その人物が誰なのかを鑑みようという意思は無い。


「良い事を教えてやろう」


 それまでは反響していた声が、はっきりと聞こえる。


「失心症になった人間は、悪魔に魅入られた者の証だ。失心症になった人間の数だけ、地上に住まう悪魔が増える。地上から人間が消えるのも時間の問題だな」


 言いたい事を放り投げ、不快な笑い声は気配と共に消えていった。

 残された俺は為す術も無く、身体を地に預ける。

 心を持ったまま逝ったアランを羨ましいと思う精神も持ち合わせてはいなかった。

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