電撃的、あるいは亡霊的ひと目惚れの真偽
いかろす
前編:電撃的ひと目惚れ
唐突に降ってきたその恋は、通勤途中の無防備なわたしを電撃的に焼いた。
なんてことない朝のこと。眠気と共に電車に揺られながら、いつも通り
まず表示されるのは、
人工知能によるマッチングアプリの
うんざり。
退屈なそれらを眺めている内、うつらうつらと船を漕いでいた。
脳みそにナノマシンを入れ、
眠っては覚め、覚めては眠り──無限に抜け出せない眠気の螺旋のさなか。
不意に、脳裏を
わたしはカフェに居た。最寄り駅から二駅離れた先にあり、機械がどれだけ発達してもハンドドリップを提供しているこだわり系。一度訪れたことがある店だった。
カウンターの奥で、知らない女性がコーヒーを淹れている。
長身で、ピンと背筋の伸びた凛々しい佇まい。たたえた微笑の優しさは、ただのコーヒーに美味しくなれよとささやいているよう。
見惚れる。視線を奪われる。いっそ眺め下ろされるコーヒーになりたいとすら思わせる、芸術的な刹那の光景。
ズキュ────────────ン。
と、胸を撃ち抜かれる音がして。
そして、よだれを啜りながら目を覚ます。
夢。今のは夢だ。匂いを感じるくらいまでのリアル感からして、明晰夢というやつか。
胸が高鳴っていた。貫かれるような衝撃が、今も体の奥に刻み込まれている。
ひと目惚れだった。それも、夢の中の女性に。
その日のわたしはまったくもって仕事が手につかず、ヒリヒリやきもきする心を抑えるので精一杯だった。
最も幸いだったこととしては、例のカフェが夜まで営業しているタイプの店だったことだろう。退勤後、帰路についてからでも行くことができる。
夢で見た女性に恋をして、その実在を確認すべく会いに行こうとしている。なんと滑稽だろう。それでも、わたしはわたしの衝動を止められそうにない。
対して最悪だったのは──カスのパフォーマンスを見せたわたしの仕事ぶりが残業を発生させたことだった。
這々の体でオフィスを出たわたしは急いで電車に飛び乗り、寝不足の体をひきずって目的の駅へと降り立つ。そこから小走りで約十分。
目的のカフェ〈ラ・セレニダード〉の店先に到着したのは、二十時三十一分。
店のラストオーダーは、二十時三十分。
終わった。完全に終わった。もうこの場で寝てやろうかと思うくらいには体が疲れていたし、もはやコーヒーよりも酒が飲みたい気分だった。
その時、心地よい鈴の音と共に店のドアが開いた。
現れたのは、白いブラウスがよく似合う長身のお姉さん──夢の中で出会った、彼女だった。
彼女はすぐにこちらに気づくと、
「もしかして、お客様ですか?」
わたしは迷いながらも、頷いた。
「まだやってますから、よろしければどうぞ」
夢で見た微笑をたたえた彼女は、うやうやしく扉を開けてわたしを店内へと
ズキュ──────────ン(本日二回目)。
もうわたしに入店以外の選択肢は残されていない。できうる限り背筋を伸ばして、コーヒーの香りただよう店内へと踏み込んだ。
住宅街の中にひっそりたたずむそのカフェは、手狭な店内を控えめの照明が照らしている。だが暗すぎるということはない。木材中心の内装も相まって、落ち着く空間になっていた。
しかし、客はわたし以外誰も居なかった。テーブルにノートとボールペンと飲みかけのコーヒーが置かれていたが、それは店主の物らしい。
「すみません。お客さん居なかったもので、くつろいでました」
彼女はそそくさと私物を片付ける。別にいいのに。紙とペンなんてアナログなんですね。思いつくことは色々あるが、緊張するこの口からは出て来ない。
「いえ……こちらこそ。もうお店閉めるところでしたよね?」
「まあ、そうだったんですが。見たところ、お疲れのようでしたので」
ズキュ(以下省略。本日三回目)。
「お好きな席にどうぞ」
言われて、わたしは壁際のテーブル席に腰を下ろした。
カウンター席に座った方が、彼女がコーヒーを淹れる様を間近で見ることができるだろう。しかし、近いというのは緊張する。
それに、夢で見たのは正にこの距離だった。
本当に居た。夢で見たあの人。
というのも、わたしが前に訪れた時の店主は朗らかなおばあちゃんだった。
それ以来わたしは店を訪れていないし、ネットで調べたりもしていない。彼女の存在を知り得る可能性はないはずなのだ。
そうこう考えている内に、彼女がメニュー表とお冷を持って現れる。今どき紙媒体のメニューというこだわりっぷり。どこも
「
まるで心を見透かされたかのような一言だった。
「いえ。ただ珍しいなと思っただけで。前から紙ですよね?」
「はい。もしかして、祖母のお客さん?」
「いえ、今日が二回目で……。その、お祖母様は」
「ばりばり元気です。時々一緒に店番してるので、よければ会いに来てあげてください」
きっと会いに来ることになるだろう、と思いながらメニュー表に視線を落とす。コーヒーだけでも結構な種類があり、それ以外の飲み物は本当に申し訳程度の品揃えだ。
「お食事も……これとこれなら出せるので、よければどうぞ」
いくつか軽食メニューを指し示すと、微笑みをこぼしてカウンターに戻っていった。そこまでしてくれなくてもいいのに。サービスの鬼なのか。
ナポリタンという文字列が凄まじい誘惑を放っていたが、閉店間際に押しかけた申し訳無さが勝ってしまう。ホットのモカ・イルガチェフというやつと、あんバターサンドを注文した。
いつの間にやら、ジャズ・ピアノのBGMがほんのりと店内を流れている。止めていたものをかけてくれたようだ。そこに冷蔵庫の音、カップを置く音などが続く。
挽いたコーヒー豆を扱うさらりという音が聞こえて、わたしはカウンターに視線をやる。
人間の夢は記憶の整理・定着プロセスだという。記憶という棚に新しい物を放り込んだり整理する中で、昔の記憶なんかもランダムに反映されたものが夢として立ち現れる。
わたしの家は二駅隣が最寄りで、ここにだって来ようと思えば歩きでも……行けなくはない。まず行こうとは思わないが。
つまるところ、わたしと彼女はどこかで会っている可能性がある。
背筋のピンと伸びた凛々しい佇まい。コーヒーにおいしくなれよと囁くような優しい微笑み。
ズキ(以下省略。本日四回目)。
撃ち抜かれている場合ではない。なんというか、この恋は異常だ。偶然見かけたぐらいしか可能性のない女性を夢に見て惚れる。芸能人に恋するよりもありえない道筋である。
だが、してしまったものは仕方があるまい。
「おまたせしました」
陶器のカップに注がれたコーヒーと、三角に切られたあんバターのホットサンドがわたしの前に置かれる。正直お腹が空いていて、今すぐにでもかぶりつきたかった。
「クリームとお砂糖はご入用で?」
「いえ、大丈夫です」
「かしこまりました。モカはブラックが一番ですから、冷めない内に」
そう言って、彼女は今日一番の笑顔を見せる。
ああ、この人はコーヒーを提供するのが本当に好きなんだ。
それはきっと、色恋に現を抜かしている余裕がないくらいに。
この人の振る舞いが持つ毒気のない純粋さ。それはきっと、まっすぐに愛する対象が、そして揺るがない気持ちがあるからこそなのだろう。
ゆえに──そうした熱を入れるような、趣味のような対象を持たないわたしが惹かれているのかもしれない。
「いただきます」
前にここに来たときより、わたしもちょっとは歳を重ねた。コーヒーの味だってわからなくはないはずだ。
まだ熱いコーヒーを、一口。
果たして──きっとわたしは、ここに通い詰めるだろう。口の中に広がる穏やかで芳醇な酸味と共に、確信する。
この恋がどうなろうと、これくらい苦味の弱い味ならば、実らない恋の味でも耐えられる。そんな気がした。
「……美味しい」
思わず、呟いてしまう。
「ありがとうございます」
聞かれていたみたいだ。顔を見たらまた撃ち抜かれてしまいそうなので、恥ずかしさと共に二口目のコーヒーを飲み下す。
まだまだこの
たっぷりバターとつぶつぶ食感のあんこが嬉しいあんバターサンドもさくさく口に入れて、美味しすぎるコーヒーで甘い口の中を中和する。至福の時間が終わるのは早い。
「ごちそうさまです」
流石に支払いはアナログではないらしく、
「少し多いようですが」
「閉店間際に押しかけちゃったので、もらってください。それと……お名前、伺っても?」
「名前、ですか」
「はい。あの……コーヒー、とても美味しかったので」
いや、何を言ってるんだわたしは。品質が高いことと店主の名前は関係ないだろう。
「す、すみません。今のは忘れて──」
彼女は指でなにかを挟むような仕草を取ると、そのしなやかな指をこちらに向ける。
わたしは察して、
いくつかのどうでもいい通知と共に〈名刺〉というデータが送られて来ていた。すぐさまどうでもいいモノどもを払い除けて、送られてきたデータを開く。
〈ラ・セレニダード〉店主/バリスタ
まごうことなき、彼女──芦田さんの名刺だった。
「水曜、日曜が定休日です。よろしければ、また」
そう言って、芦田さんは嬉しそうに笑う。わたしにコーヒーを提供してくれた時の、一番の笑顔で。
ズ(略。本日五回目)。
わたしはその場で顔を覆ってしまいたくなった。きっと顔が真っ赤になっているに違いない。それでも勇気を振り絞って、言葉を発した。
「また来ます」
こんなフツーのことしか言えない自分をブッ飛ばしてやりたい。でも言えただけ偉い。
そうしてわたしの激動の一日は終わりを告げ──翌日は熱を出し、会社を休んだ。
それから、といってもあの電撃的な恋からは一週間ほどしか経ってないのだが。
わたしの日常は激変した。
まず、コーヒーの本を買って読んでいる。あの店で提供されている色々な豆のどれがアレで、アレがどれなのか。それぐらいは知っておくためだった。
ハンドドリップ用の器具も買ってみた。まだ届いただけで開封もしてないけれど、これはいずれわたしの日々を更に変えてくれるはずだ。
そして、安いコーヒーを飲まなくなった。というか、飲めなくなった。
あの味に、あの
もちろん〈ラ・セレニダード〉にも通っている。だがキモがられるのは嫌だったので、ちゃんと日を空けて通うようにしている。
徐々に、わたしの日々は充実を見せ始めている。
同時に、募るモヤモヤは、戸惑いは、大きくなっていた。
彼女──芦田さんへの恋心を、どうすればいいのか。
方法は知っている。告白するか、諦めるか。そうして、現状の停滞を打ち破ればいい。結果がどうなるかは知れたものだが、行動に移せば状況は変わる。
想いを打ち明けるなら、もっと距離を詰めねばならない。ひとまずは、店員と客という関係を打ち破る必要があった。
そうした積み重ねの時間すら惜しいと思ってしまうわたしが居るが、終わらせるには惜しいという想いがわたしを踏みとどまらせる。
であれば、取るべき行動は一つしかない。
妙な焦りがわたしを逸らせる。一刻も早く、今の状況を変えたがっているわたしが居た。
今日は土曜日。〈ラ・セレニダード〉は今日も営業している。そして、明日は彼女の店の定休日だ。
とびきりのおめかしをして家を出て、通勤電車と反対の電車に乗る。
電車に揺られながら揺れる心を鎮めるため、
芦田さんをお誘いする店は決めてあるので、調べ物なんかは必要ない。ただ時間を潰すためのネットサーフィンだ。
人工知能による恋愛マッチングサービスの
落ち着く。
飽きるほど見ているという退屈は、緊張に高鳴っている今に安心を与えてくれた。
二駅なんて一瞬で着いてしまい、歩いて約二十分の距離を進んで〈ラ・セレニダード〉の前に着く。店内は程々に混雑していて、芦田さんに個人的な話をするのは躊躇われる状態にある。
だとしても、決めたのだ。
店へと足を踏み出し、扉に手をかける。
「ヘイ、そこのあなた」
明らかに自分に向けられた声に振り向く。
振り向くと、メガネをかけたクールな女性が立っていた。
「
〈つづく〉
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