第6話 忌まわしき記憶
アレックスの足音が遠ざかり、彼の気配が完全に館から消え去った後、深い沈黙が辺りを包み込んだ。まるで永い時の中に取り残されたような、冷たい空気が棺桶の周囲を漂っていた。
しばらくそのまま沈黙を守っていた棺の中から、やがて小さく押し殺したような声が漏れた。
「……クリス。奴も……苦しんでいたのか……。」
それは誰に向けるでもない独り言。彼女は、先ほどアレックスに向かって「知らん」と突き放すように言い放ったばかりだった。しかしその言葉の裏に、彼女が抱え続けていた記憶と真実が潜んでいた。
そう、カレン――吸血鬼として封印され続けてきた彼女こそが、アレックスの夢に現れたあの女性だったのだ。
今も記憶に焼きついている。彼の20歳の誕生日、あの日のことを――。
それは月が雲に隠れた、どこか不穏な夜だった。カレンは屋敷の窓辺に座り、心を躍らせていた。今日はクリスがやってくる日。そして、彼の20歳の誕生日。人間の寿命が短いことを知っていた彼女は、二人の未来について口に出すことに慎重だったが、それでも彼の愛を信じ、今日こそは何かが変わると期待していた。
玄関の扉が勢いよく開き、息を切らしたクリスが飛び込んできたとき、彼女の胸は高鳴った。
――来た。ついにこの日が来たのだ、と。
だが、彼の口から放たれた最初の言葉は、彼女の心を凍らせた。
「……カレン。君は……吸血鬼だったんだな?」
血の気が引くのを感じた。心の奥底に隠していた恐れが、現実となって突きつけられた瞬間だった。
「な、何言ってるの?そんなわけないでしょ?どうしたの、クリス?……熱でもあるんじゃない?」
自分でも分かるほどに、声が震えていた。だが、クリスは動揺する彼女をまっすぐ見つめ、静かに続けた。
「今思えば……君と会うのはいつも夜だった。それだけなら、仕事のせいだと思っていた。でも、君は常に光を避け、灯りの少ない場所を選び、昼間はいつもカーテンが閉め切られ……そして今、明かりさえついていない……。カレン、君は……本当は、何者なんだ?」
それ以上、偽ることはできなかった。彼の瞳が真実を求めていたからだ。
「ええ……そうよ。私は吸血鬼。でも……あなたのことは本当に……」
その瞬間、屋敷の扉が激しく叩かれた。重い音が空気を震わせ、クリスの父の怒鳴り声が響いた。
「クリス!何をしている!その吸血鬼を狩れ!」
クリスの顔が苦悩にゆがみ、唇を強く噛みしめた。次の瞬間、彼はカレンの前に立ち、呪文を唱え始めた。
カレンの体から力が抜けていく。膝が崩れ、視界がゆらぎ始める。
「ク、クリス……どういうこと……どうして……?」
遠のく意識の中で、彼の姿だけが最後まではっきりと見えていた。苦しげな笑顔。頬を伝う涙。愛しさと絶望が入り混じった、あまりにも優しく残酷な表情だった。
「……クリス。お前は私を……本当に、愛していたから……命を奪わずに封じたのだな……。」
今、ようやくその行動の意味を理解することができた。彼もまた、運命に逆らおうとしていたのだ。憎んできたはずのクリスへの感情が、少しずつ溶けてゆく。冷たい棺桶の中で長年押し殺してきた想いが、静かに揺らぎ始めていた。
そして、昨夜の夢を語っていたアレックスの姿が、再び胸に浮かんだ。
「……アレックス。お前は、何を望んでいる……?なぜ、何度もこの館を訪れる……?」
彼の声。彼の言葉。その優しさと真っ直ぐさは、過去のクリスを思い起こさせた。まるで運命の残響のように、二人の姿が重なる。
今を生きる青年・アレックスと、かつて愛した青年・クリス。カレンの心は、二人の面影の間で揺れていた。
長い時の封印は、少しずつだが確かに、解かれ始めていた。
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