化け猫
猫は、飼い主を慕っていた。夕暮れ時の公園で、一人の少年が今日もその名を呼ぶ。
「
「にゃ~」
猫が鳴き声とともに、彰造の前へと姿を見せる。
「あっ、そこにいたのか! 無事でよかった……」
彰造がマグロの肉を割きながら、その身を猫皿の上に乗せる。猫は食事の準備ができるや否や、勢いよく餌をほおばった。
「ははっ、ずいぶんお腹を空かせていたんだな。たくさん食べるんだぞ。そしてまた、僕へ元気な姿を見せておくれ」
「にゃ~」
彰造が毛並みの揃った猫の背中を優しく撫でる。猫は嫌がるようなそぶりを一切見せず、むしろ食べる速度を緩め、少年の温もりをゆったりと堪能していた。
「あっ、おい! また彰造の奴が野良猫にエサをやってるぜ!」
「うわー、ばっちい」
彰造と同じ学生服を着た少年たちが、面白半分で彼をののしる。そんな声には耳も貸さず、彰造は依然として猫の背中を撫で続ける。
「おいおい、また無視か? そんなんだから嫌われるんだぞー!」
「やーい! 優秀気取りのお坊ちゃんが!」
猫は人間の言葉が分からなかったが、それでも、飼い主が悲しんでいることだけははっきりと理解していた。
「ごめんな、こんな情けないところ見せちゃって」
彰造がふがいない自分を戒めるかのように、指先を硬直させる。
「にゃっ」
すると、猫は突然身を起こし、少年の指を
「……もしかして、慰めてくれているのか?」
きょとんとする彰造の顔を、つぶらな瞳をした猫が見上げる。
「ははっ」
少年が茶助を抱きかかえ、彼女の顔に
「……僕の友達はお前だけだよ。茶助」
和やかな笑みを浮かべる彰造に対し、猫はくつろぎながら、再度少年の温もりを深く味わっていた。
……
「彰造。次は、これを弾けるようになれ」
父が、数百もの楽譜を机の上に広げる。
「期限は2か月。それまでに、すべてマスターしろ」
「……かしこまりました、父さん」
少年が感情を無にしながら、定型的な言葉を口にする。
「言っておくが、これは基礎中の基礎だ。これが出来なければ、お前に音楽の才はないと思え」
「……はい」
高圧的な声で、父が彰造へ暗示をかける。
「それと、もう一つ。彰造、お前、またあの野良猫と
父が立ち上がり、勢いよく少年の頬をぶつ。
「前も言ったはずだぞ! もうあそこには行くなと!」
怒り狂った父が、体を大きく震わせる。
「あんな汚らわしい物と関わっていることが知られれば、我が家の品性も、威厳も、何もかもが落ちぶれていくのだぞ! お前はそのことが分かっているのか!」
「……申し訳、ございません」
出来る限りの誠意を、彰造があらわにする。
「……っち。まぁいい」
少年を見下すかのように、父がわざとらしく舌打ちをする。
「ただし、次はないと思え。もし、またあのような醜悪な生き物に近づいたのなら、今度お前には家を出て行ってもらうからな」
「……かしこまりました」
苛立ちを顔に映し出しながら、父が部屋を後にする。
「……茶助」
ひとり残された少年が、今日もその名を呟く。
……
「にゃー」
いつものように鳴き声を発しながら、猫は今日も飼い主が来るのを待っていた。生い茂る草木に身を隠しながら、のんびりと身体を休ませる。
「にゃ~」
「にゃっ!」
学生たちが公園の横を通り過ぎていくたびに、猫がその姿を目で追う。しかしそこに、彰造の姿は見られなかった。
「にゃっ」
夜空には可憐な星々が浮かび、月光が闇夜の公園を静かに照らす。猫は依然として横たわりながらも、飼い主が来ないことに一抹の不安を抱えていた。
「にゃ……」
住宅地の照明が途絶えていき、公園に夜が訪れる。周囲で縄張り争いがはじまる一方、猫は陰に身を潜め、ひそかに夜が明けるのを待っていた。
「……」
「にゃ……」
目をこすりながら、猫が朝の到来に身を揺るがす。
「……よし」
彰造が意を決して、今日もその名を口ずさむ。
「茶助ー! どこにいるんだー!」
「にゃっ!」
飼い主が我が名を呼ぶのを聞き、猫は嬉しそうに飛び起きた。
……
「なぁ。彰造の奴、また例の野良猫に会ってたらしいぞ」
「あいつも飽きないなー。なんでそこまでして
男子たちが皮肉めいた口調で、彰造をののしる。彰造は依然として机に座ったまま、父から提示された楽譜の譜面を確認していた。
「っち。なんか言えよ」
大柄の男子生徒が、ずかずかと少年の前に立ちふさがる。
「お前さ、もうちょっと愛想よくしたらどうだ? その舐めた態度も、いい加減改めた方がいいぞ」
「……」
彰造が口を閉じたまま不愛想に楽譜を見返す。
「おい! 聞いてんのか!」
すると、
「ピアノのコンクールで優勝したことが、そんなにすごいのか? 俺には、ちっともそうは思えねぇがな」
「……そうだね。君の言う通りだ。」
整然とした声で彰造が淡々と言い返す。
「……っち」
目線をそらし、大我が彰造から手を離す。
「気味がわりい」
去り際にそう言い放ち、大我は廊下の奥へと消えていった。
彰造は葛藤していた。プロのピアニストである父の指導を機械のように受け入れ続け、無関心な音楽へとひたすらとのめり込む。今の状況は、果たして自分の人生といえるのだろうか。このまま一生、父の言いなりにならなければいけないのだろうか。
握った拳にじわりと汗がにじむ。教室が騒然とする中、彰造はひとり孤独感を否めなかった。
……
「にゃ~ん」
穏やかな風が吹きかける公園で、猫は今日も優雅にひなたぼっこをしていた。
「……こいつか」
「うん。間違いない、この猫だよ」
数名の男子生徒が、一歩、また一歩と猫の背後へ近づいていく。
「こいつがいなくなれば、あいつは……」
不気味な笑みを浮かべながら、大我ゆっくりと手を伸ばす。すると突然、猫は何かを悟ったかのように立ち上がり、俊敏に少年たちの元から距離をとった。
「っち。大人しくしてろ。ほら、早くこっちにこい」
少年たちの手招きには目もくれず、猫が再び体を丸める。
「にゃ~」
そうして猫は、眠たそうに朗らかな鳴き声をあげた。
「こいつ……!」
猫が眠りの体制に入り、ゆっくりと目を閉じる。その態度が気に障ったのか、大我が猫へ嫌悪の眼差しを向ける。
「ねぇ。や、やっぱりやめておこうよ」
「あ!?」
ひりつく空気。怒り狂う大我に臆するも、男子生徒のうちの一人がこわごわとした声で説得する。
「あ、あいつに一泡吹かせてやりたい気持ちは分かるけど、さすがに可哀そうだよ。確かに生意気だけど、こいつだって生きてるんだし……」
「お、俺もそう思う。さすがに倒すのは、なしにしようよ」
「う、うん! そうしよう、そうしよう!」
ひとつの主張はやがて同調となり、大我を宥めるように少年たちが一致団結する。しかしそれでも、暴徒の怒りはいまだ収まらぬままだった。
「……こいつも、あいつと一緒だ」
吐き捨てるように大我が言葉を連ねる。
「……俺をみてねぇ。あいつと同じように、お前も俺を無視する」
おぼつかない足取りで、大我がゆっくり猫へ近づいていく。
「やっぱり、気味がわりい」
明白たる殺意。そうして大我は、荒れ狂った様子で腕を大きく伸ばし、手に持った金属バットを勢いよく振り下ろした。
……
「茶助ー! どこだー!」
夕暮れ時の公園で、彰造は今日もその名を呼び続ける。
「……おかしいな。いつもならもう出てくる頃なのに」
彰造は不審に思いながらも、再び腹に力を入れた。
「茶助―! ご飯の時間だぞー! 出てこーい!」
彰造が一段と声を張り上げ、その名を呼ぶ。しかし、猫からの返事が返ってくることはなく、ただ拙い時間だけが過ぎ去っていった。
「……どこかに出かけてるのか?」
不安の連なりを象徴するかのように、
「あれ、これって……」
すると、彰造は公園の茂みの中に、何やら見慣れた尻尾が横たわっているのを見つけた。
「茶助……! そこにいたのか!」
落ち着きを取り戻し、彰造がゆっくりと草木をかき分ける。するとそこには、目を見開き全身が赤ぐろい血に染まる、茶助の姿があった。
「ちゃ……すけ?」
猫の後頭部はひどく潰れており、まるで玩具で殴られたような傷ましい痕がはっきりと残っていた。
「なんで」
亡骸を目にするたびに、少年の息がどんどんと上がっていく。
「どうして」
地面の光が失われ、公園が黒一色に染まっていく。
「茶助、おい、どうしたんだ……。いつものように、返事を返しておくれ」
白濁とした視界の中、少年が今日もその名を呼びかける。
「茶助……」
茶助の亡骸を少年が温かな手で抱きしめる。しかしその熱が彼女に届くことはなく、ただ懐かしき思い出だけが二人の間を通りすぎていった。
……
遠くの方から、何やら奇妙な下駄の音が二人の元へと近づいてゆく。
「おやおや、可哀想に」
華麗な姿をした
「これ、あんたの猫かい? こりゃまた、ひどいやられようだねぇ」
柔らかな唇を震わせながら花魁が目を細める。
「黙れ」
粟立つ空気。猫を抱きしめつつも、彰三が花魁へ鋭いまなざしを送る。
「ふふっ。怖いのぅ」
無邪気な笑みを浮かべながら花魁が頬を緩ませる。
「まぁ待て。別に、お主らを
彰三が険しい目つきで眼光をぶつける。
「……お主、妖怪にならんか?」
ひそやかな静寂の訪れとともに、鴉の鳴き声が大きく響き渡る。
「あぁ、そうか。困惑するのも無理ない。まだ何も説明をしてなかったのう。妖怪というのは」
「どうでもいい」
彰造が顔をうつむかせながら食い気味に嘆きの言葉を連ねる。
「もう、どうでもいい。全部、どうでもいいんだ」
嚙みちぎらせた唇から、一滴の血が流れる。
「俺のせいだ。俺が茶助を見ていなかったから……。俺が、茶助を守れなかったばっかりに……」
少年の口元から、何滴もの血液が零れ落ちる。花魁はその様子を、神妙な表情でただ茫然と眺めていた。
「茶助……」
地面へ泣き崩れながら、少年が今日もその名を呼びつける。
「ふむ、そうか……」
身をかがめ、花魁が猫の頬へと優しく手をあてる。
「……おい! 何を」
「黙っていろ」
殺気を帯びた声が止めにかかる彰造の身体をひるませる。
「ふむ……なるほどのぅ」
花魁が猫から手を離し、彰造の方へと眼を向ける。
「こやつの肉体はもう死んでいるが、魂はまだこの地に残っているようじゃな。なにか、深い思い入れがあるのかもしれんのう」
あまりの驚きに、彰造が唖然として口を開く。
「ほ、ほんとうか?」
「本当じゃ。わしは人間と違って、嘘はつかんからのう」
突如現れた希望。彰造が息を呑み、藁にもすがるような想いでで花魁へと頭を下げる。
「頼む。お願いだ! 茶助を、ここに戻してやってくれ。俺のせいで茶助は死んだ。俺が見ていなかったばっかりに茶助は犠牲になったんだ。全部、俺の責任だ」
頭上へ舞う砂埃。矜持を捨て去り、彰造が一心不乱に懇願する。
「俺の命が必要だというならすべて差し出す。この手も、足も、頭も、すべて差し出す。だからどうか、茶助だけは生き返らせてくれ! 俺の、たった一人の友達なんだ……」
降りかかる懺悔の念。少年が見境なく許しの言葉を欲する。
「傲慢じゃのう」
花魁が見下すように、冷たい目線を見せる。
「お主は一つ、勘違いをしているようじゃな」
冷たい冷気が、周囲へ立ち込める。
「貴様の命ひとつで、こやつを救えるとでも? 笑わせるな。対価とは、天秤が、もう片方の天秤に釣り合うものでなければ意味がないのだ。お主の生に、そこまでの価値はない」
目をぎらつかせ、花魁が救いのない
「お願い……します……」
懇願とともに、殺伐とした空気が二人の身を覆いつくす。しかしその刹那、花魁は何か満足したような表情を浮かべ、彰造へ穏やかな視線を送った。
「……はぁ。やはり、傲慢じゃのう」
しびれを切らしたかのように、花魁があきれた様子でため息をこぼす。
「だが、嫌いではない」
右手を彰造の頭、左手を猫の頬へと据え、花魁が緩やかに目を閉じる。
「お主、名はなんと申す」
「しょ、彰造」
「そうか。では、今日でその名は終わりじゃ」
花魁の手から淡い白色の光が漏れ出す。やがてそれは、大きな白色の
「其方は今日から、『化け猫』と名乗れ。その爪をもって、無謀たる悪意の根源を断ち切るのじゃ」
猫の身体へ、新たな生命が吹き込まれる。白色の光は次第に灰のように散っていき、やがてそれは無に帰した。
「……にゃっ!」
生まれたばかりの赤ん坊のように、猫が大きく鳴き声を上げる。
「……ふふっ。可愛いのぅ」
死から目覚めてすぐ、猫が一心に少年の下へと駆け寄る。
「では、さらばじゃ」
そう言い残し、花魁が公園から姿を消していった。残された猫は、冷たくなった皮膚に体をこすり、彰造の亡骸をただひたすらに温め続けていた。
……
「……っけ。これしか持ってねぇのかよ」
小学生から巻き上げた小銭を、大我が手のひらへと乗せる。
「ひい、ふぅ、みい……たった1000円かよ」
財布を襟元にしまい、大我が大股で足踏みをする。
「ね、ねぇ。大我くん」
「あ? なんだよ」
ポケットへ手を突っ込んだまま、暴徒が不機嫌そうに振り返る。
「本当に……だ、だいじょうぶかな」
おどおどした様子で、取り巻きの少年が体を震わせる。
「なんだ。俺に文句でもあるのかよ」
「な、ないよ! ないに決まってる! でも、あれはやりすぎだったんじゃ……」
「うるせーな!」
大我が少年を突き飛ばし、地面へとたたきつける。
「いっ!」
鈍い衝撃音とともに、少年が手のひらから血を流す。
「や、やめて……」
「俺に逆らうとどうなるか、思い知らせてやる」
倒れた少年へ、暴徒が半ば強引に手を伸ばす。
『そうやって、虐めていたのか?』
「あぁ?」
暴徒が振り向くと、そこには、闇夜へ影を落とす一人の少年が佇んでいた。
「……ははっ。なんだ、お前かよ」
少年を嘲笑うかのように、大我が胸元へ手をあてる。
「どうしたんだ? そんな暗い顔して。何か嫌なことでもあったのか?」
少年の顔に、以前変化はない。
「っち。なんか言えよ。まぁ、おおよそ検討はついてるけどな。どうだ? 最愛の猫が死んだ気分は」
片目を大きく見開き、暴徒が口元をにやつかせる。
「いやー、ほんと可哀そうだったぜ。たまたま公園によったら、あいつ、車に轢かれてたんだからなぁ」
目に手をあて、大我がわざとらしく悲しむそぶりを見せる。
「一応言っておくが、嘘じゃないぜ? 俺が寂しそうなあいつを構おうとしたら、急に道路へ飛び出していくもんだからよう。そしたらまさか、あんなことになるとはなぁ。まったく、運の悪いこった」
深夜の道路に、気味の悪い笑い声があがる。
「それと、俺に感謝した方が良いぜ? 通り人の目を汚さないよう、あの猫の死体を移動したのも俺なんだからなぁ。お前だって嫌だったろ? 最愛の猫が、他の奴らにみられるのはな」
興奮気味に、大我が天を仰ぐ。
「どうだお前。今、どんな気分だ? 苦しいか? 苦しいよなぁ。お前の、たった一匹の友達がいなくなっちまったんだもんなぁ! はははは!」
目的を成就したかように、大我が無神経なほどまでの悪意に満ちた声を轟かせる。
『なるほど、そうか』
「あっ?」
少年が息を吐き出すと同時に、無人の道へ冷たい空気が流れる。
「な、なんだ」
少年が歩くたびに、離れの街灯が1基、また1基と光を失う。
『はぁ』
長い尻尾をたなびかせながら、少年が一歩ずつ近づいてゆく。
『全く、人間とは愚かなものだな。息を吐くように嘘をつきおる』
ざらついた舌で鮮血をなぶりながら、少年……否、少女が爪を研ぎ澄ませる。
「な、なんだそれ……」
少女の威圧に圧倒され、大我が声を震わせる。
『あぁ、この血か? どうやらもう一人、我が主をいじめる者がおったようじゃからのう』
爪に付着した薄い朝紅色の血液が、広大な夜空の下で光り輝く。
「お前……だれだよ。一体、なんなんだよ!」
溢れ出す恐怖心。少女の身体がゆっくりと、凶悪な獣の姿へと変わっていく。
「ひっ!」
「た、助けて!」
怖気づく大我。他方、少女の変わりようにひどく驚いたのか、倒れていた男子学生がすぐさま立ち上がりその場を後にする。
「や、やめろ……く、くるな……」
細長い牙を覗かせながら、少女が大我の額に爪を当てる。
『貴様は、我と主人の時間を奪った。極刑だ。万死に値する』
「や、やめろ……だ、だれか、たすけっ」
顔を歪ませた大我が、嗚咽を漏らしながらむせび泣く。
『……やはり、哀れじゃのう』
目を細め、獣が暴徒へと軽蔑の眼差しを向ける。そして少女は、右手をそよ風のごとく振り払い、荒れ狂う暴徒の喉元を即座に断ち切った。
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