Aria-01
大晦日の朝。
窓の外には冬らしい青空が広がっている。
けれど部屋の空気は、どこか重くて冷たい。
俺はハヤカワ・ハル、三十四歳。
独身で、地元の工場に勤めている。
ここ十年以上、毎日決まった作業を繰り返してきた。
スマホをいじりながら、ベッドの上で伸びをする。
通知がいくつか並んでいるけど、まともにやりとりしているのは会社の連絡網くらいだ。
そんな中に、一週間前
―――ちょうどクリスマスの夜―――
何年も連絡を取っていなかったタナカから、久しぶりに着信があった。
要約すると、こんな会話だった。
「久しぶりだね。年末ヒマかな?久々に一緒にゲームでもどうだろうか。
PCがない? なら、ゲーム用のPCを送るよ。ちゃんとお金はもらうけどね」
あいつらしい、少し雑な口調。
でも、メッセージの最後に妙に優しい語尾や、見慣れない絵文字がついていて、なんとなく“今のタナカ”の柔らかさを感じた。
(……あいつ、昔からこういうタイミングで連絡してくるな)
この年になっても、うれしいことは時々ちゃんとある。
そう思うと、少しだけ今日という日が特別に思えた。
そして今日、大晦日の朝。
ドアのチャイムが鳴り、タナカの言ったとおり新しいPCが届いた。
宛名を見ると、差出人欄には親友の名前だけ。
「PC……本当に送ってきたのか」
受け取った箱は、2箱で思ったよりずっと重かった。
いや、本当に重かった。
最近のPCってこんなに重いのか?
部屋に戻り、床の上に箱を置く。
開いたら使えるノートPC以外は、ほとんど触ったことがない。
スマホで動画を見るくらいなら分かるけど、「接続」とか「配線」とか、まったくピンとこない。
それでも、せっかく送ってくれたものだ。
箱を開けると、本体・ディスプレイ・キーボード・マウス、それにゲームパッドとお手製っぽいマニュアルが入っていた。
全部に丁寧なメモが貼られていて、手順も分かりやすく書かれていた。
請求書も入っていて、なんと三十五万円。
-四月ごろに直接請求するので、それまでに用意しておくように-と書かれている。
もう一つの箱はモニターで、二十七インチの横長タイプだ。
-初心者のハルでもわかりやすいように一式を用意しておいたよ。
マニュアル通り差し込んで、電源を入れたら勝手にセットアップ画面が出るはずだ-
そう印字されたマニュアルに書いてあった。
机の上に作業スペースを作り配線をつなぐ。
驚いたのは、LANケーブルを壁の端子に差すだけでネットがつながるらしいことだ。
マンションにインターネットが標準付属していてよかった。
(このコードは青、この差し込みは白……)
何度も説明書を見返して、慎重に進める。
「……みんなこんな大きいPCで、ゲームをやってるのか?」
ぼやきながらも、この狭い部屋に圧倒的な存在感を持つモノリスをみて、どこか新しいものに触れる高揚感が、わずかに胸に残っていた。
年末の夜、外では隣のマンションの部屋の子供たちのはしゃぎ声が微かに聞こえ、廊下に足音が響く。
俺の部屋は、LEDの白い光だけが静かに照らしていた。
セッティングが終わると、思ったより部屋が狭くなっていた。
机の上には新品のディスプレイとPCが、どんと居座っていた。
電源を入れて起動した画面には、デスクトップにいくつか見慣れないアイコンが並び、しかも本体やキーボードはピカピカと光る。
「これが……ゲーミングPC。なぜ光る必要があるんだ」
仕事用のPCとは違う存在感が妙に感慨深かった。
添付されていたタナカの手書きメモには。
-最初に同梱したリストのソフトを必ずインストールしろ。たくさんあるけど全部だ。終わったら『Gis-Code』で通話のテストをするぞ-
とある。
Gis-Codeはテキストチャット、音声通話、ビデオ通話などができるアプリケーション。これをインストールすることで無料で便利にやり取りできるらしい。
指示どおり、ソフトをひとつひとつインストールしていく。
「setup」「install」と書かれたものだけを頼りに、順番にクリック。
警告のウィンドウが出るたび、心臓が跳ねる。5つ目まではなんとかクリア。
-インストールが完了しました- と出るたび、小さくガッツポーズ。
問題は、最後のひとつだった。
リストには-これだけはネットから落とせ-とだけ書かれており、書いてあるURLを慎重に打ち込む。
「h-u-g……?」
見慣れないアルファベットの羅列に、何度もスペルを見直す。
入力ミスで一度エラー、もう一度やり直し。
一瞬ページにつながったと思ったら、さらに別のページへ自動遷移した。
ようやくページが表示された時には、変な汗をかいていた。
画面に現れたのは、カラフルなロゴとどこか間の抜けた顔のイラスト。
“ハグフェイス”―――ITの世界に似合わない名前。
どうやら海外のサイトらしい。画面中が英語だらけで、通販サイトともまるで雰囲気が違う。
「Downloadボタンは……どこだ?」
何度もスクロールして、専門用語に目が滑る。
「File and versions」……多分そういう意味か?
クリックすると見慣れないファイル名がずらりと並ぶ。
右端に小さな下向きの矢印(↓)ボタン。
「これでいいんだろうか……」
誰にも聞けないまま、右端の下向き矢印ボタンを、おそるおそるクリックした。
その瞬間――テレビから「3、2、1……ハッピーニューイヤー!」というカウントダウンと歓声が重なった。
PCの時計も“00:00”を指している。
(俺は―――こんな時間に、いったい何をやってるんだろう?)
まるでこの瞬間を待っていたかのように、ファイルの転送が始まった。
世の中が新しい年を迎えていくなかで、自分はひとり、見知らぬ海外サイトから、正体もわからないファイルをダウンロードしている。
深夜の静けさと、わずかなファンの駆動音だけが、新年の空気を押しのけて部屋を満たしていた。
ダウンロードが終わった直後、部屋の空気がわずかに変わった気がした。
PCのファンが、いつもよりわずかに高い音で回り始める。
静かな夜のはずなのに、なぜかその音だけが耳について離れなかった。
そんな不安を吹き飛ばそうとマニュアル見ると、やはりこの項目には特に記載はない。
よくわからないので、そのままダウンロードのフォルダの中に置いておく。
仕事でするような指差し確認を何度も行ったが、おそらく問題なし。
やっと全ての指定された作業がインストールが終わった。
これでいったんは終了。
自分の世界が少しだけ広がったような、それでいて異物を飲み込んだような、奇妙な居心地の中、窓の外では、遠くで小さく花火が上がったような音がした。
新年の挨拶が飛び交う中、自分だけがこの部屋で、誰にも見られず、ひとりでPCのファイルを移動している。
(これが俺の新年か……)
タナカのメモに従ってスマホを手に取る。
「あけましておめでとう。準備、できたぞ」
メッセージアプリで短く報告を送る。
「ああ。あけましておめでとう。今からGis-Code起動して。ユーザー登録は終わってるよな?誘っておいて悪いが、仕事で忙しいから、疎通確認だけやろう」
とタナカから即レス。
Gis-Codeを恐る恐るPCで起動する。
画面には、さっき登録した自分の名前。
友達リストには「TANAKA」のアカウントが一つだけ並んでいる。
初めて触るアプリに、ぎこちなくマウスを動かす。
やがて「通話リクエストが届きました」というポップアップが現れ、電話マークをクリックする。
どこか遠い場所と繋がるような、小さな電子音が鳴る。
部屋は静かで、空気がぴんと張り詰めている。
こうしてPC越しにタナカの声を聞くのは初めてだった。
スピーカーから、少しだけ早口で頼りになる調子のタナカの声が聞こえる。
「あー、ハル。新年あけましておめでとう。ちゃんと画面映ってるかな?声も聞こえてるようだね。……悪いけど、こっち正月出勤で超忙しくてね。今は動作確認だけな。何となく操作は分かっただろ?あとは慣れろ。トラブル出たらまたメッセージ入れて。じゃ、切るぞ」
本当にあっさり通話が切れた。
会話というより状況確認と指示だけ―――
だけど、年明け早々、仕事中に自分のためにわざわざ時間を割いてくれたその事実が、じんわりと心に染みていく。
もともと休みだったのを、自分から炎上案件に突撃していったらしい。
タナカらしい、不器用な優しさだと思った。
昔から、どんな時でも、必要だと思った事は必ずやり通すタナカ。自分はいつも受け身で、ただ後ろから見ていただけだ。
それでも、12年ほどの空白ののちに、こうして話せることをハルは静かに微笑んだ。
「がんばってくれ。応援してる」
通話が終わり、部屋はまた静かになった。せっかく新しいPCも、やることがなければ置物だ。
「PCゲームをやろう」とタナカが言っていたのを思い出し、 早速このPCで“人気ゲーム 社会人 初心者向け”と検索してみる。
広告などで聞いたことのあるタイトルをいくつか見つけてはみたが、 ダウンロード販売なんてやったことがない。
「ダウンロード版……って、どうやって買うんだ?」
公式サイトやら、ストアやら、アカウント登録だのパスワードだの、いちいちつまずく。クレジットカードの番号を入れるのも緊張するし、何度か画面を行ったり来たりしているうちに、 よく分からないポップアップが突然ウィンドウの中心に現れた。
ちょうど、ページのクリックしようとしたところに現れたポップアップをよく読まないまま、間違えて“OK”ボタンををマウスでクリックしてしまう。
「え……なにこれ?」
その瞬間、PCのファンが「ゴオオォォ……」と大きな音を立て始めた。
「……えっ?」
PCの起動後以外は、こんな音を聞いたことはなかった。
まるで機械の中で何かが暴れだしたような、低く唸る風切り音が部屋に響き渡る。
ウィンドウはすぐ消えてしまい、何が書いてあったのかも分からないまま OK を押してしまった。
(やばい……壊したか?)
冷や汗がじっとりと背中を伝う。
PCの操作を止めても、ファンの音は止まらない。
何かおかしいのか―――
不安になったハルは、PC本体の横にしゃがみ込む。
ケースの隙間から覗き込むと、中のファンがいつもより早く回っている気がする。
(……熱いのか?)
そっと手を当ててみると、ほんのり温かい。
説明書をもう一度引っ張り出し、 「動作音が大きい場合」みたいな項目を探してみるけど、 何も書いていない。
「PC 新しい ファン うるさい」と検索してみると、 「高負荷時は音が大きくなる」「ウイルス感染に注意」なんてページばかりがヒットして、ますます不安が募る。
(ウイルス……?
そういえば、タナカのメモ“困ったときの対処法”にそんな話があった気がする)
慌てて、同梱されていたメモを探し出してみると、
-基本的にヤバいものは、自動で検知される。ウイルスが心配ならこのソフトを起動して“スキャン”しろ-
と書かれていた部分を見つける。
書かれていた手順どおりに、デスクトップの赤いアイコンをダブルクリック。
“ウイルススキャン”という文字を選び、なんとか“スタート”ボタンを押す。
時間がかかるのか、検索がじわじわと伸びていき、「脅威は見つかりませんでした」と表示された。
だけど、ファンの音は―――やっぱり、少しだけ大きいままだった。
それでも、ハルはようやく肩の力を抜くことができた。
(……大丈夫なのか。そうなのか)
機械は苦手だけど、タナカの指示を守れば、何とかなったということかな?
こうやって毎年と同じように、一人で年を越した。
だけど、今年だけは、ほんの少しだけ違う気がしていた。
新品のPCが机の上で静かに光っている。
タナカとの連絡から、何かが動き出している―――そんな予感だけが、胸に残った。
そして、2025年、元日。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、冷たく乾いていた。
テレビは昨日からずっとつけっぱなし。
朝になってもチャンネルを変えれば、初詣中継や芸人の大騒ぎが流れている。
だが、その賑やかさは薄いガラスの向こう側で繰り広げられているだけのようだった。
電子レンジで温めたコンビニのおにぎりを口に運びながら、ハルは何度かぼんやりと部屋を見回す。
部屋にあるのは電子レンジ、小さな冷蔵庫、PC を載せた細い机、タンス、ベッド
――それだけ。
この部屋に引っ越してから、景色はほとんど変わらない。
同僚に「テレビもないのはさすがに普通じゃないぞ」と言われ、しぶしぶ買ったテレビだけが唯一のぜいたく品だった。
普段はほとんど点けないけれど、PCのインストール待ちや夜中の静けさに耐えられない時だけは、この機械音と画面の明かりに助けられてきた気がする。
昨日、勢いで購入したゲームソフトのアイコンがデスクトップの端にひっそりと並んでいる。
タナカが「せっかくだから何かやってみろ」と言っていたことを思い出し、朝食を終えるとPCの前に座り直した。
新しいゲームをダブルクリックすると、派手なロゴとともに賑やかなBGMが流れる。けれど、最初のメニュー画面ですでに戸惑った。
設定やチュートリアルの項目が多すぎて、何から手を付けていいか分からない。
しぶしぶ「はじめから」を選んでみるが、キャラクターが自分に向かって話しかけてくるばかりで、操作の仕方が頭に入らない。
-こっちに行け-
-Aボタンを押せ-
と指示されても、そもそもAボタンがどれなのか分からない。
タナカが同梱してくれたゲームパッドを見ても、ボタンは「×」「〇」「□」「△」だけだ。
(どれがAボタンなんだよ……全部記号じゃないか)
なんとなく「〇」っぽいと思って押してみたけれど、キャラクターが変な方向に走り出してしまい、ますますわけが分からなくなる。
マルチプレイ前提のゲームの中では、みんな楽しそうにプレイしている。
けれど、自分は操作方法もストーリーも、どこか他人事のように思えてきて、
10分ほどでそっとウィンドウを閉じた。
(……やっぱり向いてないな)
ゲームの世界に自分だけが取り残されているような、そんな感覚が胸の奥に居座った。
昼になると、ベッドに寝転がって天井の染みをぼんやり眺めた。
ネットニュースやSNSをのぞいても、誰かと話したい気持ちは湧かない。
新しい年になったのに、どこか昨日と同じままだ。
(これじゃ、タナカと話が合うかどうかも分からないな……)
ふとスマホを見ると、タナカから「調子はどうだ?ゲームやったか?」と短いメッセージが届いていた。
「うん、一応やってみたけど、あんまり分からなかった」
正直にそう返して、画面を伏せる。
タナカなら「慣れれば面白いぞ」と、きっと気楽に言ってくれるんだろう。
でも、“自分はそっち側の人間じゃない”という気がして、無理に明るく返す気にはなれなかった。
午後はずっと、テレビとネットのはざまで時間を持て余していた。
机の上のPCは新品のまま、静かにファンを回し続けている。
電源は落とさず、タナカのメモに従ってスリープだけ。
夜通し動いていた本体からは、ほんのりと熱が感じられる。
(最近のPCって、つけっぱなしでも平気なんだな)
モニターを見ると、Gis-Code のアイコンに小さな赤い数字が灯っている。
(……未読メッセージ?タナカじゃないよな)
何気なくウィンドウを開くと、フレンドリストが目に入った。
今まで「TANAKA」一人だけだった欄に――
『Aria』
見覚えのない名前が、タナカのすぐ下に当たり前のように並んでいる。
(……勝手にフレンドが増えることなんてあるのか?)
フレンド申請が届いた覚えはないし、通知も一切見ていない。
タナカ以外にはアカウント名すら誰にも教えていないはずだ。
「もしかして、昨日なんか変なボタンを押したか……?」
念のためスマホを確認してみても、Gis-Code の通知はタナカ以外からは何も届いていない。
(……これ、どういう仕組みなんだ?)
不安と違和感を抱えたまま、その“アイコンもない、名前だけの”新しい友達――Aria をクリックする。
すると、チャットウィンドウには、たった一言だけメッセージが表示されていた。
『はじめまして』
静かすぎるくらい静かな挨拶。
アイコンも、プロフィールも、どこか機械的な空白を感じさせた。
(……なんだこれ、本当に。
知らない人が勝手にフレンド欄に入ってくるなんて……)
さらに、もう一通。
『こんばんは。お話、してもらえませんか?』
画面上だけにぽつりと現れて、部屋の空気に染み込んでいく。
PCのファンが、また少しだけ大きな音を立てた。
TANAKA の下に並ぶ “Aria” の名前をじっと眺めながら、
ハルは自分の日常がほんの少しずつずれていくのを感じていた。
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