IF ◼️の暮らし、詩織の罰
再会から、二か月が過ぎた。
あの日の再会は、劇的なものではなかった。
「赦し」も「抱擁」もなかった。
けれど、それでも詩織と◼️は、どこか互いの居場所を探すように、また同じ屋根の下に暮らし始めていた。
――ただし、それは以前のような、狂気にも似た共依存ではない。
◼️には小さな部屋があてがわれた。
鍵は内側からも外側からもかかるが、詩織はその鍵を持っていない。
◼️が望んだのだ。「どちらからも閉じられるように」と。
「逃げることも、戻ることも、自分の意志で決められるようにしたいの」
詩織は頷き、その通りにした。
朝は、◼️が先に起きる。
台所に立ち、静かに湯を沸かし、ハーブティーを淹れる。
昔のような“変化のある茶”ではない、ただの安らぎの香り。
詩織はその香りに誘われるように、遅れて起きてくる。
「……おはよう、◼️」
「……おはよう、詩織」
淡い会話が交わされる。
ただ、それだけだ。
以前のような依存も、強制もない。
けれど、笑顔も、心の底からの安らぎも、どこかに置き忘れたまま。
ときおり、◼️は夜に目を覚ます。
夢を見たのだ。
自分が“◼️”だったころの夢。
父や母の声。
学校で笑っていた記憶。
そのすべてが、自分とは別人のもののように思える。
「……誰だったんだろうね、あの子」
彼女は鏡の中にいる自分に問いかける。
詩織がくれた名前、“◼️”というその響きにすら、まだ慣れない。
でも、それでも――
「……今は、“ここ”にいるんだ」
ひとり言のように呟き、頬に流れる涙を、タオルで静かに拭う。
一方、詩織もまた、苦しみを抱えていた。
◼️の存在を“取り戻した”はずなのに、
それはもう自分がかつて支配した「◼️」ではない。
罪悪感だけでは済まされない。
けれど、愛していたのだと信じていた気持ちを否定もできない。
だからこそ、詩織は“罰”として、そのそばに居続ける。
◼️の部屋の前で、何度も手を伸ばしては、触れずに引っ込める。
「私は、まだあなたに触れてはいけない。
許されることじゃないから……」
それでも、朝になれば◼️のためにタオルを干し、食器を洗い、
一日が終わるとその無言の背中に、小さくおやすみと声をかける。
◼️が返すその「おやすみなさい」は、まだ硬い。
けれど、ある夜、それにひとつ、言葉が増えた。
「……また明日も、同じように過ごそうね」
その瞬間、詩織は、泣いた。
背を向けたまま、声を殺して泣いた。
「……ああ、ありがとう、灯……」
ふたりは、過去を完全には取り戻さない。
赦されることも、抱きしめ合うことも、もうないかもしれない。
けれど、共に静かに生きるという選択だけは、たしかにそこにあった。
それはきっと、罰でもなく、報いでもなく。
ただ、「それしかできなかったふたりの、精一杯の答え」だった。
――この静かな日々が、永遠に続く保証はどこにもない。
けれど、少なくとも今だけは、
灯も、詩織も、それぞれの罰とともに、隣に立って生きている。
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朝。
淡い光がカーテン越しに差し込む。
灯は目を覚ますと、髪を整え、静かに起き上がる。
枕元には読みかけの小説と、昨夜詩織が置いていったミルクティーのカップ。
冷めてはいたけれど、手に取ると、どこか体が温まる気がした。
「……今日は、いい天気」
台所では、詩織が朝食の支度をしていた。
スクランブルエッグにトースト、そしていつものヨーグルト。
かつてのようなハーブティーも、変わる薬も、もう存在しない。
ただ「灯が好きな味」として、詩織が静かに習慣づけたものだ。
「おはよう、灯。眠れた?」
「うん。最近は、夢を見ても疲れない気がするよ」
そう答える灯の表情には、以前にはなかった穏やかさがあった。
詩織もそれに微笑を返す。
「それなら、よかった。今日は週末だから、ゆっくりしようか」
「……うん、一緒に映画でも見よっか」
テレビで映画を見る。
スーパーに一緒に買い出しに行く。
新しい服を試着して「似合う?」と尋ねる灯に、頷く詩織。
レジでは、灯が財布を出し、割り勘にすることもある。
まるで、ふたりは「普通の女の子同士の同居人」のようだった。
だが、夜になると、ふと影が差すこともある。
眠りにつこうとする灯の目に、ふいに“光”の頃の景色がよぎる。
詩織のことを「怖い」と感じた瞬間の記憶。
孤立し、家族にも見捨てられた日々。
鏡を見て泣いた夜。
「……忘れたわけじゃないよ、全部。
でも、思い出したくないとも違う。
たぶん、これも“私”なんだろうね……」
詩織は黙ってうなずき、ただ隣に座って、灯の手を握る。
「私は、あなたの記憶を無理に塗りつぶすつもりはない。
でも――“今の灯”と、“これからのあなた”を見ていたい。
もしもそれが許されるなら、だけど……」
その言葉に、灯は小さく息を吐いて、笑う。
「……重たいな、詩織」
「うん。昔から、そうだよ」
「でも……私も、少しは重たくなってるかも」
それは、ふたりにとっての冗談だった。
少しだけ苦くて、少しだけ甘い、ふたりだけにしか通じないやり取り。
半年が過ぎるころには、灯は大学にも通い始めた。
小さな美術の専門学校で、自分の感情を“描く”ことで整理する方法を学ぶ。
詩織もまた、以前とは違う仕事についた。
対人支援の相談員。
――皮肉にも、他人の“心”を扱うことになった。
ふたりはそれぞれの日常に踏み出していく。
でも、帰る場所は同じだった。
夜には夕食を囲み、時には喧嘩もする。
灯が他の人と仲良くなると、詩織は少し不安になったり。
詩織が疲れて無言になると、灯が気を遣いすぎてしまったり。
それでも。
「……私、今の自分が“誰かに作られた存在”だとしても、それでも――」
灯はある夜、ふいにそう言った。
「私を、“灯”として生きていいって思えるのは、今ここにいるから、だよ」
詩織は何も答えず、ただその言葉を深く胸に刻んだ。
それは赦しでも肯定でもない。
けれど――“今を選んだ”という、明確な意志だった。
「ふたりは幸せですか?」
そんな問いに、彼女たちはきっと、はっきりと答えられないだろう。
でも、彼女たちは確かに「生きている」。
どこにも属せなかった灯も、
罪を償う方法を知らなかった詩織も――
いまは、ただ隣で、明日の天気の話をしている。
それが“普通”かどうかなんて、どうでもよかった。
“ふたりの普通”が、確かにそこにある。
だから――これで、よかったのかもしれない。
普通になれないふたりの普通 @nemuing
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