第17話 光の名を持つ者へ




朝が来ていた。


灰色の空が、カーテンの隙間から部屋をぼんやりと照らしている。

冷たい光は、まるでこの場所が生の余白であることを告げるようだった。


詩織は、灯の寝顔を見つめていた。


腕の中には、頼りなく、静かな吐息を繰り返す少女の姿。


いや、それはもう――灯でも、光でもなかった。


かつて“光”という名を持ち、“灯”として生きようとした誰かの残骸。

その記憶を、名を、意思を、すべて詩織が抱き締めて、削って、残したもの。


詩織はそっと、目を閉じた。


「……ごめんね」


その言葉は、自分に対してなのか、彼女に対してなのか。あるいはもういない誰かに対してなのか。

答えは、もう詩織自身にもわからなかった。


灯が壊れていく過程は、決して劇的ではなかった。


ゆっくりと。

ほんとうにゆっくりと、体が少女へと変わっていったように、心も時間をかけて溶かされていった。


自分を“光”だと叫んでいた頃の記憶も、やがて疑わしくなり、

“灯”という名に安住しようとし、それすらも他人のように感じる日々。


ただ、詩織だけが、知ってくれていた。


詩織だけが、過去も、現在も、そしてこの曖昧な存在のすべてを受け止めてくれた。


――ならば、それでよかった。


……そう思おうとしていた。


「ねえ、詩織」


目を覚ました少女が、小さく声を出す。


その声は、もう男の子のものではなかった。

女の子らしい高音でもなく、無機質で、どこか壊れかけた機械のようだった。


「わたし、夢を見たの」


「……うん。どんな夢?」


「知らない街。誰もわたしのことを知らなくて。怖くて、でも……」


灯はそこまで言って、少しだけ笑った。


「でも、誰かが呼んでた。“光”って」


詩織の指が、ピクリと動く。


「その人の顔、思い出せないんだけどね。でも、あったかかった」


「そう……それは、幻じゃないかもね」


「うん……」


二人の間に、静かな沈黙が流れた。


どちらからも言葉は出なかった。


その日の午後、詩織は灯を外に連れ出した。


数ヶ月ぶりの外気だった。


灯は怯えながらも、詩織の手をぎゅっと握って歩いた。


「誰かに見られたら……」


「大丈夫。もうあなたを“光”だと思う人はいない」


「……そうだね。もう、誰もわたしを知らない」


それは、安堵だったのか、絶望だったのか。灯自身にも分からなかった。


川沿いの道を歩いた。


水は濁っていて、空も灰色で、風は肌寒かった。


けれど、詩織はただ黙って灯の手を引いていた。


そして、ある小さな橋の上に来たとき、詩織は立ち止まった。


「灯」


「……なに?」


「最後に、一つだけ選ばせてあげる」


灯が詩織を見る。その顔は、少しだけ、迷っていた。


「このままわたしと一緒に消えるか。あるいは――自分の名前を、取り戻すか」


その言葉は、あまりに唐突で、あまりに優しくて、酷かった。


灯は目を見開いた。揺れた。揺れて、でも一歩も動けなかった。


「……どっちを選んだら、詩織が傍にいてくれるの?」


「どっちを選んでも、私は消えるよ。灯の心がどこかに帰ってしまえば、私はもう必要ない」


「……ひどいよ、そんなの」


「そうだね。だから、選ばなくてもいい。あなたの中にまだ、“光”がいるなら……」


詩織は、灯の胸にそっと手を置いた。


「――その子に、ちゃんと聞いてあげて」


灯は震えていた。


足元が崩れるような感覚。

世界が、真っ白に焼き尽くされるような感覚。


――名前を呼ばれるたびに、削られていた。


でも、本当に失っていたのは、名前じゃなかった。


誇りだった。痛みだった。怒りだった。愛しさだった。


「わたしは――」


そして、灯は歩き出した。


詩織はそこに残ったまま、彼女を見送っていた。


少女は振り返らない。ただ前だけを見て、静かに歩いていった。


それが、“光”という存在だったのか、

“灯”という役割だったのか、

それとも“誰でもない自分”だったのか。


それは、もう誰にも分からなかった。


けれど、詩織は微笑んだ。


涙を流さず、立ったまま、風の中で静かに――


「……さようなら」


その声は、すでに誰にも届かない。


数日後。

その町から、一人の少女が姿を消した。

詩織という女性も、忽然と消えた。


灯の名を知る人間は、もう誰もいない。


でも、風が吹くたびに、どこかで誰かがその名を思い出すかもしれない。


光という名の、人間だった記憶を。


――終わり。

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