第11話 溶けていく名前
自分の名前を呼ぶ声が、もう誰の耳にも届かない世界。
けれど――灯には、まだ「自分」が残っているような気がしていた。
それは記憶のかけら。断片的で、薄く、あやふやな映像。
体育のグラウンドで息を切らして走ったこと。男子だけでふざけ合って笑い転げたこと。頬を染めて告白した相手に振られたこと。
いまの自分の姿には、何一つ似つかない「思い出」。
髪の毛を整えるたび、胸元の膨らみが揺れるたび、トイレに座るたび、制服のスカートを履くたび――
その全てが、「光」だった自分を嘲笑っているようだった。
(これ、本当に私?)
何度、問いかけただろう。何度、鏡の前に立っただろう。
けれど、答えは返ってこない。
鏡はいつだって、黙って「灯」を映し出す。
そこには、「光」はいない。
詩織が与えた、可愛らしく着飾られた少女――それが「現実」だった。
部屋の中では、今日も詩織が音楽を流していた。
少し古めのバラード。恋愛と別れ、依存と再生をテーマにした歌詞。
そこには灯が口に出せなかった想いが、すべて詰まっている気がして、聞いているだけで胸がぎゅうっと締めつけられる。
「灯、今日のご飯、どうだった?」
「……おいしかった。うん、すごく」
「よかった。灯の好みに合わせたつもりなんだけど、最近ちょっと味覚が変わったのかな」
「ううん、そんなことない……詩織が作ってくれるもの、全部好きだよ」
「ふふ……いい子」
詩織は頭を撫でてくれる。優しい手だ。あたたかい。
でも、その手が、何よりも恐ろしい檻の鍵だと、灯は知っていた。
最近、詩織の様子がまた少し変わってきた。
部屋の外で何かをしているらしく、夜中にこっそり出かけたり、電話口で誰かと話したり。
灯に聞かれると困るような顔をして、「仕事の話」と笑う。
けれど、それが「嘘」かどうかなんて、灯にはもう問題じゃなかった。
自分が「詩織の目に映っていないかもしれない」ことが、ただ、怖かった。
ある夜、灯は髪をむしるように掴みながらベッドで震えていた。
詩織が帰ってこない。連絡もない。
時計の針は、深夜の二時を過ぎていた。
「嫌だ……やだやだ……ひとりにしないで……詩織、詩織……っ」
必死に自分の腕を抱きしめて、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
その時、思わず目に入ったのは、自分の爪の先――深く、赤黒い跡が残る痕。
数日前、自分でつけた痕だった。
(あのとき、詩織が怒ったっけ……)
思い出すのも苦しい。けれど、あの時だけは、強く抱きしめてくれた。
怒られて、叩かれて、それでも最後には泣きながら灯の名前を呼んでくれた。
その時、思ってしまったのだ。
(この痛みの中でしか、詩織は私を見てくれない)
だけど、それは「嘘」であってほしい。そんなの、幸せじゃない。
でも、そうしなければ繋ぎ止められないなら――
「……灯?」
その声が、玄関から聞こえた。
詩織が、帰ってきた。
ドアの音、かばんを置く音、靴を脱ぐ音。
そのすべてに反応して、灯はベッドから駆け寄った。
「おかえり……っ、詩織……!」
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」
「さみしかった……怖かった……一人じゃ、眠れなくて……っ」
すがりつくように、灯は泣きじゃくる。
詩織は一瞬、黙った。
そして――そっと灯を抱きしめた。けれど、その手は冷たかった。
「ねぇ、灯。あんた、また“自分”探してたでしょ?」
「……えっ」
「ベッドの下にね、あったよ。昔の名前が書いてあるノート。ほら、“光”って名前」
「それは……っ」
言い訳できなかった。頭が真っ白になって、何も考えられなかった。
そして――その瞬間だった。
ビンタの音が、部屋に響いた。
「私が、どれだけあんたを“灯”として作り上げたと思ってるの!」
「ご、ごめんなさい……!ちがっ……ちがうの……!」
「“光”なんて、もういないの! いるのは“灯”、それだけ!」
怒鳴られる声が、怖かった。でも、もっと怖かったのは、その怒りの底に“愛”が見えてしまうこと。
詩織は、本気で灯を“灯”として愛している。
だから壊れたら困る。だから縛る。だから怒る。
それがたとえ、間違った愛だとしても――灯には、それがすべてだった。
「私の灯。私の可愛い、灯……ね、わかってるよね?」
「……うん、わかってる……私、灯だから……光なんていない……もう、いないよ……」
膝を抱え、嗚咽を堪えながらそう言った灯を、詩織は再び抱きしめた。
「うん。そう。これからも、灯でいて。私の傍にいて」
その抱擁は優しかった。
でも、その優しさが、なによりも苦しかった。
灯の中で、確かにあった「光」の声が、静かに、静かに遠ざかっていく。
やがて、何も聞こえなくなったとき――
彼女は完全に、「灯」になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます