第10話 君が消える日
――今、君はどこを見ているの? わたしじゃないの?
朝は、静かに訪れた。
陽光は相変わらず部屋のカーテンの隙間から差し込み、床の木目を優しく撫でていた。しかし、その温もりはどこか空虚で、灯の肌を焼くほどの熱さすらなかった。ぬるく、柔らかく、ただ「ある」だけの光。
詩織は、今朝もいなかった。
数日前から、帰りが遅い。いや、そもそも帰ってこない日すらある。
(まただ……また、いない……)
冷蔵庫の中には、前回の食材がそのまま残っていた。ドアを開けるたびに、冷たい風とともに詩織の不在が灯の胸に突き刺さる。
一人分のご飯。一人分の部屋。一人分の時間。
そのどれもが、ひどく鈍い痛みとして、体の奥に溜まっていく。
詩織がいないことで、灯の一日は鈍く、灰色になっていった。
食欲はわかず、テレビの音すらも鬱陶しい。ベッドに沈み、携帯電話を握りしめる。
……詩織からの通知は、ない。
(私、なにかした……? 嫌われた……?)
心のなかで何度も答えのない自問を繰り返す。
それでも、詩織のことを疑う気持ちはどこにもなかった。
むしろ、詩織の不在そのものが「わたしのせい」だと灯は考えるようになっていた。
(わたしがもっと、いい子だったら……詩織は帰ってきたんだ)
だから、昨日のように自傷はしなかった。あれは、怒られた。嫌われたくない。
代わりに、部屋の掃除をして、洗濯を畳み、簡単な料理を練習してみた。
詩織が好きそうな味付けを、ネットで調べて。
けれど、それでも詩織は帰ってこなかった。
その夜、灯はひとりでテーブルに座り、冷えたままの煮物を見つめていた。
口には合わなかった。自分でも分かる。
だけどそれを残すことすら「裏切り」のように思えて、無理に飲み込んだ。
──翌朝。
詩織は、何事もなかったかのように、玄関のドアを開けた。
「ただいま。あら……灯、起きてたの?」
笑顔だった。綺麗だった。けれど、その目は少しだけよそよそしかった。
「……詩織、どこ行ってたの」
「少し、外せない用事があって。言ったでしょ、前に」
言った? そんなこと、聞いた覚えはない。でも、口には出さない。
問い詰めれば、また怒られる。見捨てられる。怖くて、何も言えなかった。
灯は無言のままうつむく。指先が震えていた。
「……ふふ。拗ねちゃったの? かわいいな、灯は」
詩織はそう言って、灯の髪を撫でた。その手のひらの温度が嬉しくて、灯は小さく首をすり寄せる。
「ごめんね……でも、これでわかったでしょ。私がいないと、灯はちゃんと“灯”じゃいられないんだよ」
その言葉に、胸が詰まった。
悔しいのに、泣きそうなのに、否定できなかった。
確かに、詩織がいない数日は、世界が止まっていた。自分という存在すら、溶けてしまいそうだった。
「……私、なんでこんなふうになったのかな」
「それはね、運命よ。あなたは私に見つけられるために“光”として生まれて、“灯”として私の傍にいるために生まれ変わったの」
「でも……男だった頃の記憶が、まだ……」
「ううん、それはただの夢。影法師。忘れていいの。むしろ、忘れなきゃだめ」
詩織の目が少しだけ鋭くなった。それに怯えて、灯は首をすくめた。
「私が嫌い? 私の言葉を疑ってる?」
「ち、違う……詩織のこと、好き……だから、怖くて……」
「うん。なら、いい子。忘れていいんだよ。すべての“光”を、ね?」
その日の夜。詩織がシャワーを浴びているあいだに、灯は鏡の前に立った。
鏡に映るのは、見知らぬ少女だった。肩までの髪。丸い輪郭。か細い身体。
そのどこにも、「光」の面影はなかった。
(これが……私? 本当に?)
名前を呼んでみる。
「……灯」
声に出すと、それが本当に“自分のもの”のように感じられてしまう。
光という名前を呼ぶことは、もうできなかった。
自分でも、そう名乗れないのだ。だって、周りの誰も、それを知らない。
両親も、学校の友人も、通りすがりの人々も、灯のことを「最初から女の子だった」と認識している。
そうなるように、詩織が仕組んだのだ。
世界は灯を“灯”としてしか認識しない。
“光”だった痕跡は、どこにも残っていない。証拠も、記憶も、居場所も。
そう気づいた瞬間、灯は膝をついた。
静かに、ゆっくりと泣いた。
戻る場所はない。帰る言葉もない。
唯一、詩織だけが、自分のことを“知っている”。
だから、彼女を失うことは──この世界から消えることと、同義だった。
「……ねぇ、詩織。私ね、君がいないとだめみたい」
シャワーから戻った詩織に、灯はすがりつくように囁いた。
「そうでしょ? わかってるよ、灯は。だから……大丈夫。私はどこにも行かない。君が壊れても、泣いても、私が繋ぎとめてあげるから」
詩織は、やさしく笑った。
その笑顔の奥にあるものが、灯には見えなかった。
けれど、見ようともしなかった。
そうして、また一日が終わる。
灯という名の檻のなかで、灯は微笑み、眠る。
その夢のなかでは、もう“光”の声すら、聞こえなかった。
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