第7話 消えゆく輪郭





朝、目覚めると白い天井が視界に映った。無機質な天井に、かすかに揺れるレースのカーテン。

 それはまるで、夢の中のような空間だった。


 いや、もしかしたら──これは夢なのかもしれない。

 灯はそう思った。現実感が、薄れていた。


 起き上がると、パジャマの袖がふわりと揺れた。昨日、詩織が買ってきてくれた白地に小花模様の寝間着。柔らかい綿の生地が肌に心地よかった。


 服装にも、身体にも、もう違和感を感じにくくなっている自分に気づくたび、灯はどこかで苦笑してしまう。


「……なにやってるんだろ、私……」


 ぽつりと、呟いた言葉が空気に溶けていった。


 詩織と暮らすようになって、もうどれくらいの時間が経ったのか。

 以前の自分──“光”として過ごしていた日々が、遠くぼやけて、絵本の中の誰かの人生のように思えることが増えた。


 詩織は今日も朝早くに出かけていた。最近は何やら忙しいらしく、出先からの連絡も少し減っていた。


 ……寂しい。そう感じたのは、ほんの少し前までは罪悪感だった。

 でも、今は違う。


 詩織がいないと、自分はどこにも居場所がない。

 自分の名前も、役割も、意味も──詩織がいないと分からなくなってしまう。


 そんな想いが、静かに灯を縛っていた。


 それでも、今日は少しだけ外に出てみようと思った。


 詩織に頼まれていた買い物。いつもなら配達で済ませるところを、「少し歩くのも気分転換になるかも」と、灯が申し出たのだ。


 女の子としての姿で外に出るのは、未だに緊張する。


 けれども通りを歩く人たちは、誰一人灯を男だとは思わなかった。

 否定されることもなければ、驚かれることもない。ただ、当たり前のように“女の子”として存在していた。


(あぁ……ほんとうに、私ってもう──)


 あえてその先を考えるのはやめた。

 それよりも、どこかほっとする気持ちがあったのも事実だった。

 周囲とズレることなく歩けるという安心感。知らない誰かに受け入れられている錯覚。


 ただ、帰り道にふと立ち止まった。


 駅前の掲示板に貼られていた中学校の案内ポスター。

 ふいに目が引き寄せられたのは、制服のブレザーとネクタイだった。


 それは、昔自分が着ていた男子制服に似ていた。

 記憶が引き戻され、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「……あの頃の、私……」


 好きなものを話す友達もいた。家族とぶつかることもあったけれど、それでも確かに「自分」というものを持っていた。

 詩織にもまだ会っていなくて、未来は、無限に広がっていた。


 でも──今はどうだろう。


 詩織の手の中で変わっていった身体。

 与えられた名前、与えられた役割。

 それはたしかに優しく、甘く、心地よかった。だけどそれは、“私の意志”だったのか?


 考えれば考えるほど、心が痛んだ。


 家に戻ると、リビングのソファに買ってきたものを並べて、一息ついた。

 スマホを見ると、詩織から短いメッセージが届いていた。


「ありがとう、灯。無理しないでね。帰ったら、ゆっくり話そ?」

 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 その言葉の優しさに、救われる自分と、傷つく自分がいる。


(私は……どうしたいの?)


 自問は答えを得ないまま、日々の流れに埋もれていく。


 夜になり、詩織が帰宅した。

 顔を見ると自然に微笑んでしまう。灯はそういう自分が、少しだけ怖かった。


「灯、買い物ありがとう。えらいね」


「ううん……たいしたことないよ。でも、少し疲れたかも」


 詩織は灯の頭を優しく撫でてから、ソファに並んで座った。


「じゃあ今日は、ご褒美だね」


 そう言って、詩織は冷蔵庫からハーブミルクティーを取り出す。

 以前と同じブランドだったが、少し香りが違うような気がした。


「……これ、なんだか懐かしいね」


「そう? でも、新しい味なんだよ。灯に合わせて、変えてみたの」


「……私に、合わせて?」


「うん。灯が喜んでくれるの、嬉しいから」


 詩織の微笑みは、まるで世界のすべてを許してくれるようだった。

 灯はまた、その優しさに甘えるように、カップを両手で包んで口をつけた。


 甘い。けれど、どこか切ない後味がした。


(私が消えていく感覚って……こういうことなのかな)


 けれど、今はもうそれを拒むことができなかった。


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