第4話 そして名前を失った




朝、目が覚めた瞬間。

 自分の名前を、思い出せなかった。


 いや、“思い出せない”というより、“思い出したくなかった”。

 どちらの名も、自分を表していない気がしていた。


 光──それは過去の亡霊。

 灯──それは詩織に与えられた呼称。


 だとすれば、自分は誰だ?


「……わかんない、わかんないよ……」


 鏡の前で呟く。

 誰かが泣いていた。けれど、その顔はどこか他人のようで、感情が結びつかなかった。


 自分を示す証明は、もう存在しない。

 保険証、銀行口座、通っていた学校の記録、成績、思い出……。

 全てが“灯”に置き換わり、過去の「光」は、まるでなかったことにされていた。


 街を歩けば、誰も気づかない。

 久しぶりに訪れた家では、母親が玄関先で問いかけた。


「あの……どちら様ですか?」


 心が引き裂かれる音が、聞こえた気がした。

 たまらずその場を走り去った。泣くことすら許されない。

 ──他人の顔として、記憶されている。

 それが現実だった。


 その夜、帰り着いた場所は、詩織の部屋だった。

 ほかに行く場所などない。


 玄関を開けると、詩織がキッチンで夕食を作っていた。

 変わらぬ笑顔。変わらぬ優しさ。


 そして、変わらぬ檻。


「おかえり、灯。……どうだった? おうちに、行ってみたんでしょ」


「……母さんが、俺のこと、知らなかった……まるで、他人みたいに……」


「そっか……そうなるように、しておいたの」


 詩織は手を止めず、まるで天気の話でもするかのように言った。


「だって、灯はもう“光”じゃないから。違う名前で、違う姿で、違う未来を生きるんだもん。そんな中途半端な記憶、あったら苦しいでしょう?」


 灯は膝をつき、顔を覆った。


「じゃあ、俺は誰なんだよ……詩織……俺って、何……?」


「あなたは“灯”。それ以外じゃない。私が与えた、あなただけの名前。……ほら、こうしてちゃんと、生きてるじゃない」


 優しく抱きしめられる。

 柔らかな体温。安心する匂い。

 だがその温もりの奥にあるものは、鋭利で、冷たく、どこか歪んでいた。


 詩織は灯の髪を撫でながら囁いた。


「今夜も“お仕置”ね。ちゃんと、心に刻まなきゃ。……灯がどこに属しているのかを」


「……嫌だ……お願い……やめて……」


「ダメ。あなたが私から離れようとするから、こうして躾けなきゃならないの。全部、あなたのため」


 言葉と裏腹に、行為は容赦なかった。

 身体を支配され、意志を否定され、灯はただ受け入れるしかなかった。


 ──いや、違う。受け入れてなどいない。

 ただ、もう抗う力が残っていないだけだ。


 翌朝。

 詩織のベッドの中で目を覚ました灯は、静かに泣いた。

 涙は声もなく頬を伝い、枕を濡らした。


 光としての記憶は薄れていく。

 友人の名前が、顔が、思い出せない。

 過去の感情が、遠い夢のようになっていく。


 そのくせ、詩織の言葉は強く残る。

 抱きしめられた時の心音。

 叱られた時の冷たい視線。

 それだけが、自分の世界の“全て”だった。


「ねぇ……詩織……」


 朝食の準備をしている詩織に、灯は震える声で言った。


「捨てないで……俺……他に居場所、ないから……っ」


「……灯」


 詩織はそっと振り返ると、涙を浮かべた灯を抱きしめた。


「捨てるわけないでしょ。灯は、私だけのものよ。……だから安心して。あなたはもう、どこにも行けないんだから」


 微笑むその顔には、やはり狂気が宿っていた。

 けれど、灯はその狂気にすがるしかなかった。

 それが、自分の“唯一の証明”だから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る