第3話 失われた記録
次に目を覚ました時、灯は誰ともつながっていない世界にいた。
──学校の連絡網から名前が消えた。
──市役所の住民登録に「光」はいなかった。
──保険証も、学生証も、全てが「灯」として発行されていた。
「なに……これ……」
思わず、声が漏れる。
部屋の隅に置かれた書類。机の上に無造作に重なったカード類。
どれも、自分の筆跡に似た字で「結城灯」と記されている。
気づけば携帯の連絡先も変わっていた。
詩織以外の名前が、すべて消えていた。
戸惑い、震える指で検索をかける。
──“光”のフルネーム。生年月日。過去に住んでいた住所。
……何もヒットしない。
誰かが、世界から「光」を消したのだ。
「やめてくれよ……こんなの、もう……」
灯はその場に崩れ落ち、泣いた。
自分が自分じゃない。
誰も、自分を知らない。
この世界に、自分という存在が最初からなかったかのような感覚に押し潰される。
そんな灯を見て、詩織は微笑んだ。
まるで愛おしいものを抱きしめるように、背中からそっと手を伸ばして囁く。
「安心して、灯。私は、ちゃんとあなたを見てる。覚えてる。ずっと、そばにいるわ」
「……っ、やめろよ……俺……そんなふうに、言われたくない……」
「なら、どうしてここに戻ってくるの?」
言葉が出ない。
詩織は灯の頬をなぞりながら、静かに告げる。
「あなたはもう“光”じゃない。家族も、社会も、それを証明してる。あなたを“灯”と呼んでくれるのは、私だけなのよ。……その意味、分かってるでしょう?」
──逃げ場は、なかった。
夜になれば、詩織は灯に髪をとかせ、服を着せ、メイクを教える。
「可愛いよ」「その色、あなたに似合う」
そんな言葉をかけられるたび、心の奥がきしむ。
それでも、灯は逆らえない。
いや──もう、“自分で”選べることなど、何もなかったのかもしれない。
ある晩、灯は鏡の前で立ちすくんだ。
そこに映っているのは、光ではなかった。
肩まで伸びた髪、やや丸みを帯びた頬。細い首筋。華奢な体躯。
──少女だった。
「どうして……ここまで……」
胸にこみあげる嗚咽を押し殺しながら、唇を噛み締める。
その震える身体を包むように、背後から詩織が抱きしめた。
「……お仕置、するわね」
囁く声が、冷たかった。
詩織は理由も告げず、灯の手首を掴み、強く縛った。
拒絶の言葉すら吐く前に、力なく項垂れる灯を、ベッドへと押し倒す。
「灯、あなたはもっと“いい子”じゃなきゃ。私の言うこと、全部守って、ちゃんと私だけを見ていなきゃ。……なのに、今日、外で誰かと話してたわよね?」
「……そ、れは……っ、ちがっ……」
「言い訳、しないの」
冷たい声とともに、手のひらが頬に落ちた。
ビンタの衝撃より、そこにこもった“愛情”らしきものが、何よりも苦しかった。
「私だけを見て。……じゃないと、灯はまた“消えて”しまう」
その夜、灯は声も出さずに泣いた。
苦しみを吐き出す術もなく、ベッドの隅に縮こまりながら、ただひたすらに耐えた。
詩織がいないと、自分の存在が証明されない。
けれど詩織がいる限り、自分は「灯」であり続けなければならない。
──壊れたのは、どちらだったのだろう。
詩織の中の何かが、すでに狂っていた。
けれど、灯の中にも、確かに何かが壊れ始めていた。
それでも。
詩織だけは、灯を見てくれる。
それだけが、唯一の救いであり、同時に呪いだった。
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