普通になれないふたりの普通

@nemuing

壊れる繋がり

第1話 灯る違和



はじめに違和感を覚えたのは、いつだったろうか。

 目の奥が重く、喉の奥に甘さがまとわりつくようなあの午後だったかもしれない。

 あるいは、彼女の声がやけに近く、深く、耳に染み込んだあの瞬間かもしれない。


「ねえ、光。今日も一緒にお茶、飲まない?」


 詩織は、そう言って笑った。

 穏やかで、静かで、どこか幼さを残すその微笑みは、どこか“計算されすぎている”ような気がして、けれどそれを否定するには、彼女の存在があまりにも自然で美しすぎた。


 彼女の淹れるハーブティーはいつも特別だった。

 香りは柔らかく、味は甘く、飲んだあとには胸がほんのりと温かくなる。

 ──そして、何よりもおかしかったのは、そのお茶を飲んだ日はいつも“夢を見ない”ことだった。


 けれど、そんなささいな不自然さが、日常に埋もれていく。

 光──それが僕の名前だ。男で、平凡で、どこにでもいる高校生だった。


 詩織とは、偶然のような必然のような、学校の文化祭の実行委員として出会った。

 誰にでも優しく、そして誰とも深く交わらない。そんな距離感を保った彼女に、僕は強く惹かれていた。


「今日のはね、“ユリ”と“ローズ”をブレンドしてみたの。光のために」


 湯気の立ち上るカップが、僕の目の前に差し出される。

 断る理由なんてなかった。むしろ、こんな風に優しくされて、断れる男なんていない。

 香りを確かめて、口をつける。


 ──舌の上で、甘さと微かな渋みが混ざり合い、ほんの少し鼻をくすぐる花の香りが広がった。


「美味しいね。少しだけ、君の匂いがするような……いや、百合の香りかな」


 思わず出た言葉に、詩織が小さく笑った。


「ふふ、当たりかも。私とおそろいの香水を、ほんの少し垂らしてみたの」


 それは冗談か本気か、わからなかった。けれどその言葉の端々に、妙な既視感があった。

 僕は気づいていなかった。詩織がこの数週間、少しずつ、確実に“僕という存在”を包み込むようにして支配し始めていたことに。


 身体に、妙なだるさが残る日が増えていた。

 まるで熱があるような、けれど何の症状もない不思議な感覚。

 学校でもふとした拍子に声の調子が変わり、まるで……女性のように高くなった気がして戸惑うこともあった。


「なあ……詩織、最近、少し変なんだ。俺……体が……なんていうか」


 言いかけたその言葉は、彼女の笑顔によって中断された。

 優しく、けれど絶対的な支配を含んだあの笑顔。


「大丈夫。光は少し疲れてるだけよ。……それに、もしも“変わって”いたとしても、私は光を受け入れるから」


 その言葉が、なぜかひどく怖かった。

 優しさに満ちているのに、心の奥に冷たい鎖を巻きつけられるような感覚。

 この人は、僕が何者になっても、たとえ僕が僕でなくなっても“受け入れる”──いや、“それでも構わない”と言っているのだ。


 僕は、帰ろうとした。けれどその足は動かない。

 喉の奥が焼けるように渇き、体の芯が重く、まるで熱に浮かされているようだった。


「……詩織。まさか、お茶に何か……」


「……そんなに疑うの? 私を」


 詩織が、少しだけ寂しそうに笑った。

 その一瞬の表情が、心に刺さった。胸が痛んだ。罪悪感が湧き上がる。


 あぁ、違う。僕は、疑ってるんじゃない。ただ、怖いだけだ。

 何かが、ゆっくりと壊れていっている気がして、だから。


「……ごめん、帰るよ」


 ようやくそう言って、僕は立ち上がった。


 ふらついた足取りで、振り返らずに詩織の家を後にする。

 背中に突き刺さる視線のようなものを感じながらも、僕は歩いた。


 けれど──家に帰って、シャワーを浴び、鏡を見たとき。

 明確に違う“自分”を、僕は見てしまった。


 髪がわずかに伸びている。

 まぶたが柔らかくなっている。

 唇の輪郭が、心なしかふっくらとして見える。


 ──誰だ、これは。


 自分の姿が、自分のものではない気がした。

 何かが、確実に狂ってきている。


 恐怖が、ゆっくりと、身体の芯から這い上がってくる。


 僕は、その夜、一睡もできなかった。


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