お姉な功夫ダンディと令和年代淑嬢の一夜
升田キリコ
第1話
ほぼ無音の駆動音。上昇ベクトルの重力モーメントは、感覚的に自重が軽減されたかのような浮遊感を与える。加えて気圧の変化で鼓膜が張った。私は鼻を摘まんで空気を吐き出し、内圧を上げて鼓膜の張りをもとに戻した。
エレベータは機械の動作に伴う駆動音は耳に入るものの、気にはならなかった。
ホテル上層部、スイートが入るフロアに箱が止まる、我々は、エレベーターホールに足を踏み出さす。
「ここが彼らの滞在するフロアでしって?」私は、年の若いベルパーソンの男性に確認をとる。
「はい、こちらが」と、ルームサービス用のワゴンを指し「お客様のオーダー品です」と、続けた。
「なるほど……手筈は先ほど確認した……通りでよくってね」
「はい」と、若いベルパーソンが答える。部屋まで案内する役を担うベルパーソンは、フロントに続いてホテルの顔になる。彼は誰もが羨むようなハンサムではないが、とても清潔感のある好青年で適役といえた。
「しびれるくらい冷えてるわね」アルミのシャンパンクーラーには大量の氷が敷き詰められ、中に眠るシャンパンはローラン・ペリエのフラグシップグレードだった。
――喉が鳴るわ……
シャンパン好きの私としては、このまま仲間の輪に入り、一緒にグラスを空にしたい気分だった。しかし、オードブルにフライドポテトだけというのは、お勧めできない。これだけではシャンパンを大いに楽しむことが難しい。
――キャビアとサワークリームチーズのクラッカー……キャビアの代わりにスモークサーモンでもよいかも?
シャンパンを含む葡萄酒は、基本的に魚介類に合わせにくいというのが一般的だ。それはワインやシャンパンが含む鉄分が魚脂と反応し、生臭さをより際立ててしまうという特徴にある。これを中和するのがチーズなどの乳製品だ。
プロのソムリエなら魚とワイン、シャンパンも適切なものを組み合わせてくれるが、素人が葡萄酒の介添えとして魚介類のオードブルを用意する際、チーズ系を合わせると何とかなるレベルにもっていけると覚えておくと助かる。
「すんなり行けば問題はないのですけど、逃亡を企てている手配犯ですので、危険を伴いますわ」
「我々はどうすれば……?」と、もう一人の同行者であるホテルの副支配人が、怯えた声で私に問うた。
「安心なさって……廊下で待機し、他のお客の移動を制限してくれませんこと? あとドアの前には絶対に立たないでください」と、私は務めて冷静に伝えた。「万が一……手配犯が逃亡した場合は、そんなことは万に一つもないですけれど、あった場合はすぐに警察に連絡を入れるようにお願いしますわ」
「手配犯の確保は刑事さんが?」と、ベルパーソンが問うた。
「そうです。あと、厳密にいうと刑事ではなく、警察庁より委託を受けております特別指定司法捜査官です。が……便宜上、刑事と呼んで構いませんわ」と、若干の訂正を私は入れた。
「差し出がましいですが危険が伴うというのであれば、応援の方を待たれては?」と、齢五十半ばを迎え白いものが目立ち始めた副支配人の男性は、微かに青白くなった唇を震わせ、私に告げた。
「逃亡の危険がある人物ですわ。可能な限り迅速にかつ、確実に確保をしなければなりませんの」
副支配人の憂慮もわかる。この世代になると、どうしても守りに入らなければならない立場になる。common law英国が発祥の法学概念ではあるが、慣習や伝統等の先例に基づき裁きや判断を下す判例法主義、先例主義というべきか、未知の局面にはどうしても恐れを抱きどう対処してよいか判断に迷うため、副支配人はその行動原理に基づいているのは理解できた。
とは、言え、外注の人間が元受けに応援を乞うと、手柄はおろか、私の実入りも天と地ほどの差に驚く状況となる。私とて慈善事業をするつもりもない。手柄を元受けに渡すつもりもないため、危険な橋を渡ることを選択する。
今の副支配人は、これまで先例のない状況下に置いてどう対処すればよいか迷っておりそのことに対する憂慮が表情となって表れていた。翻って若いベルパーソンは緊張した面持ちではあるが、顔は紅潮しどこか興奮した状態にも見えた。
「ご協力お願いいたします」
「わ、わかりました……では事前の手筈通り通路を封鎖します」と、副支配人は腹をくくった表情を浮かべ言った。
「お願いしますわ」
私はベルパーソンからワゴンを借り受けると目的の部屋に急ぐ。副支配人とベルパーソンは廊下に立ち他の客の往来を制限する。
私はベルパーソンから教えを乞うて、覚えた接客口上を頭に思い浮かべると同時に部屋の間取り図を脳内に展開する。
ドアを開けると正面に壁がありその奥にリビング、ドアを挟んでベッドルーム。一人で突入を決意したのは、間取りから勝算を読み取ったからだ。来客の対応は一人、ドアはリビングから見通すことができず、バックアップとの連携にタイムロスを生む。迅速な対応は取りにくい。追われる人間であるのならば、この部屋の構図は真っ先に避けるべき環境だ。その環境を選んだという意味では危機意識、危機管理が未熟ということがわかった。
利用は三人、ターゲットと取り巻きが二人。
借りたホテルマンの制服ジャケットがデカすぎる肩に閊えるのが気になったが、最悪パワーで破ればよし。私は扉をノックする。
「失礼いたします。ご注文のメニューをお持ちしました」
「おう」
ドスの効いた、声がドアの向こうから響く。おそらくのぞき穴から姿を確認されることは間違いないので、私はホテルの制服のジャケットを見せつけるようにアピールした。
数秒の間を置いて、ドアが開く。ドアを開き迎え入れたのは、手配の人間ではない取り巻きの男・αだった。
「失礼します」私はワゴンを押し入室する。
ジャケットだけ借り物で、スラックスは自前のままなのだが、そこまでは眼が届いていないのか見送られた。ドアを閉め、私は退路を塞ぐようにワゴンを通路の真ん中に置き、男に小声で話しかけた。
「お客様、こちらを見ていただけますか?」
「あっ?」
ジャケットからIDケースを見せる。「私は警察庁より委託を受けております特別指定司法捜査官です。この部屋に滞在する警察庁指定被疑者特別指名手配を受けている刀根容疑者の逃走援助罪であなたを現行犯逮捕し……」
「ガサっ」と男の声が響き渡ると同時に男のライトストレートが飛んでくる。
優先すべき事項は、相手を無力化させることだ。効率を求めれば殺すことが一番早い。が、ここは法治国家、安易に殺人などという手を取ることなどできぬ。殺人に近い無力化の方法は、これ簡単なことである。意識を奪うことだ。
物心を持つ前から二十幾数年、功夫に功夫を重ね身に着けた、師祖の奥義の一つワンインチパンチ……すなわち寸勁。これが意識を奪う私の一手。
ワンインチパンチを心臓にインパクトすることで意識を刈り取る。そのプロセスが重要だ。ガードを落とし、ハートブレイクに至るプロセスを実行する。
――逝くわっ……
相手の手を抑えたり、捌くラッピング技法により、相手の右ストレートに対し左手を使い内側から横方向に捌く。直線的な動きは横方向の力に弱い。
捌くことにより正中ラインが開く。この間隙を逃さず一気に急所に畳みかける。右のリードパンチで鳩尾、着弾後の反動を使いバックフィストのベクトルを顎に向け発射し、着弾により頭部が後方に傾くと首が表れ、刹那の間を置かず左で首を突く。
最後に下半身を使い、フロアを蹴り上げ全身運動を右に流す。力はいらない、すべては全身の筋力と動きから発生する流力の爆発だ。
ワインチパンチには、インパクトの瞬間の打突を制御し、内外に力を浸透、また拡散する2種の方法がある。拡散は背中に衝撃が抜けるため、その衝撃につられ後退、もしくは激しく後方に飛ぶ。複数を相手にする場合、距離や巻き添えを狙うために使用する。変わって浸透は体内に衝撃を伝えるため、これを心臓にインパクトすると虚血状態を誘い、意識を一気に刈り取ることができる。
――インパクトッ……
取り巻きαは、声とは言えない籠った呼吸音を漏らし床に向かって受け身をとれぬまま崩れ落ちる。
すべては6秒で終わる。それがこのシステムの神髄だ。
背中から伸縮式トンファーを手に掛け床を蹴り上げ、リビングに駆け込む。視界に取り巻きβが入る。脇に手を挿していた。
――ピストル?
「刀根さんっ、ガ」
――やらせないわ……
アンダースローでトンファーを取り巻きβに投げつける
取り巻きβに飛ぶトンファーは、慌てさせるには十分であった。βは反射的に避ける動作をとる。ここでの正解は被弾ありきで懐の武器を抜いて撃つだ。
三弾飛びの如く、床を蹴り上げ距離を詰める。βにトンファーが着弾し、彼が怯み終えた瞬間、彼の視界は天井に向く。
掌底による打突がβの顎、左下方四五度から上昇のベクトルで作用する。死角からの一撃になり、βは何をされたかわからぬまま、脳震盪によりその場に崩れる。
「おい、どうしたっ? 何があった?」
寝室から手配者の刀根が姿を現す。
「刀根さんですね? 私は警察庁より委託を受けております特別指定司法捜査官です。あなたは警察庁指定被疑者特別指名手配を受けています。重要参考人として……」
「ポリか、くそっ、なんでここにいるんだっ」
刀根は腰からピストルを抜いた。黒いスチール製のピストル、形状からトカレフと思われた。本来、トカレフT-33には安全装置の類が付いていないが、右側面にセーフティーレバーがとりつけられている。これは大陸の五四式の正規輸出モデルだ。
「やめなさい、そんなもので暴れたら、あなたどうなるかわからないの?」
「俺は絶対、捕まらない、今までもそうだった。これからもそうに決まってる。お前らにいくら貢いだと思ってんだっ。俺をパクるとどうなるかわかってんのかよっ」
彼が活動範囲としていた所轄署との癒着についてはある程度聞いているが、逮捕状が出ている以上、何の障害にもならない。
私は一応、形式として、スマートフォンを出すと電子逮捕状を一応見せた。
「殺人・及び凶器集合準備罪で、刀根翔、あなたに逮捕状が出ていますわ……加えてこのままだと、銃刀法、逃亡罪、公務執行妨害、発砲した場合は暴行か殺人未遂になるわ。一生檻の中か、最悪極刑に処せられる可能性があるわ」
「俺を誰だと思ってる。極東連合の刀根だぞっ、舐めやがって、くそっ、くそっ、おれは刀根だ」
日本の暴力団、いわゆるヤクザの下部組織といえばよいのだろうか、半グレと呼ばれる、準暴力団のボスとして、暴対法の網を潜り暴虐の限りを尽くし、敵対組織に対しては執拗なリンチを繰り返し、所属組織の綱紀粛正のため構成員を十一時間にわたる拷問を行うなど、凶悪の限りを尽くしたのがこの男だ。暴力の果てに手に入れた強権と金権。しかし、もうこの男を守る者はいない。守るのは手にしたピストルと己の肉体のみ。
「あなたなら、専属の弁護士を呼べるのではなくて? 立ち合いでの出頭も可能ですわ」
私はそういうと、ジャケットのボタンを外し、胸をそり、腕を後方に向けてジャケットを脱いだ。そうしなければ肩に閊えて脱げないからだ。
「動くなっ」と、叫ぶ刀根。
プルプルと所在なく銃口が揺れている。勿論撃ったことはあるだろうが、この様子では対人はないようだ。対人に発砲した経験のある人間には、ある種迷いがない。が、この刀根という人物は、ただ銃を構えているだけだった。目は泳いでいるし、重心も高くまるでピストルを撃つ気がない。心を乱した状態では、銃口も心の如く乱れ標的にあたることはない。
「見て、私は丸腰よ……」私は努めて穏やかに言った。「電話をして、弁護士を呼ぶか、このまま出頭するか? どちらかを選べば殺人と凶器集合準備罪のみで任意同行という形を……余罪はこの際問いませんわ」
「俺に命令するなっ、おれは極東連合元帥の刀」
――どうにも、なんでその選択をするかしら……?
私は銃口に視線を送ったままジャケットを刀根の顔に向かって投げる。刀根の視界が塞がれ一気に距離を詰める。
発砲音が鳴る。
銃口はややこちらを向いていたが、視界を遮られたこと、かつ習熟度の低さが、決定打となった。鉛の弾は明後日の方向に。
ショートレンジに入った私は左手で刀根の右手にあった五四式のスライドを持ち後退させる。チャンバーから次弾を排莢させ、そのままフルパワーで銃を外側にひねる。
スチールフレームを通して人差し指の折れる音が伝わるのを感じると同時に、右の掌底を刀根の顔面に、同時に右足で目標の足を刈る。
――殺さない程度に……
頭部に荷重がかかりすぎないよう、大外刈りの変形で床に刀根の体を叩きつける。
「ぐぉっ」と、刀根のくぐもった声が響き。私は仰向けの刀根の心臓目掛け、浸透型寸勁を追撃させ、意識を刈り取る。
「んごっ」と、奇妙な声を吐いて、刀根は落ちた。
「ふぅ」と、私は一息吐いた。
――やれやれね……
「十一時十四分、確保します」
手錠と行きたいが、委託捜査員に官給品たる特殊合金の手錠支給はない。また、行政機構特有の占有主義もあり、手錠をかけることは正規警察官の特権になっている。また官給品の手錠は銃同様厳重に管理されておりすべての官給手錠にはシリアルナンバーが打刻されているくらいだ。
私のような外注の捜査員は、そんな大層なものまで支給されるわけでもない。私費で用意した金属製の上等な手錠をかけてもよいが、使用した私物手錠は捜査後証拠品という名目で没収されてしまい、返ってくることはほぼない。
外注職員はミリタリーショップや防犯ショップなどで手に入るプラスチックカフという樹脂製の手錠を使用するのが常識になっている。いえば強度を増した電気コードをまとめるプラスチックベルトといっていい。
私はひとまず、刀根の拳銃を拾い、床で気絶するα、βの手を拘束し、武装解除していく。最後に刀根の腕を拘束しによると、微かにアンモニア臭が漂っており、便臭がただよった。
「まさに……shitね」
私はスマートフォンを持つと出入口ドアに向かった。ワゴンのフライドポテトを失敬しながら、所轄の成田空港警察署に連絡を入れた。
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