後編(前)
約束の日。天候も良好。
「くぁ……」
欠伸をかみ殺し、かえでは深く息をつく。深夜とはいえ、七月はやっぱり四六時中蒸し暑い。コンビニで買ったアイスコーヒを喉の奥へ流し込むと、幾ばくか目も冷める。やはり珈琲はブラックに限る。
深夜三時半の聖蹟桜ヶ丘駅前に人気はない。始発を待つにはあまりにも早すぎるし、夜明けを待つにも気が早い。なにをするにも中途半端な時間帯。周囲を見渡し、子駅前の交差点を渡ると、駅方面を向いてゆったりとカメラを構える。街路灯や駅構内から伸びる白色の光を意識しながらホワイトバランスを調整して、シャッターを切っていく。
映画やドラマであちこちが有名な構図になっている聖蹟桜ヶ丘は、どんな場所も実写で使いつぶされてしまっているからオリジナリティにあふれる構図を撮るのが難しい。有名スポット故の難所とも言える。それでも、深夜や早朝の静けさは普段の活気ある駅前とはまた違った顔を持っていて、かえでのお気に入りだった。
「お待たせ。もしかして、けっこう待たせちゃったかな」
息を切らして自転車でやってきた氷堂が肩を上下させながら荒い呼吸を整える。前籠にはつぶれたバッグが無造作に詰め込まれていて、どうやら手荷物はそれだけのようだ。
「京王線の二駅は、なかなかしんどいね」
「ごめん、もしかしたら撮影場所に直接のほうが近かったかも」
「いいよ、気にしないで。それよりさっさと向かおうよ。どこ行く?」
「……河原。一ノ宮公園」
「なんだ、すぐそこじゃん」
「遠出しないって言ったでしょ。それにあたし、徒歩だし」
「桜ヶ丘公園じゃないんだ」
「そっちでもいいけど……、ちょっと好みじゃないから」
「ふぅん。まぁいいや。小町さんの好みに合わせるよ。後ろ、乗る?」
氷堂が荷台を指差した。普段から誰かを乗せているのだろう、後部が上に折れ曲がっている。
「……いや、いい。夜道だし、警察に見つかると面倒じゃん」
「こんな時間にいる? 深夜におやつの買い出しでコンビニにちょくちょく出るけど見かけなくない?」
「まぁ、それはそう……」
深夜にコンビニでおやつを買って食べて寝て、その美形なんだ、というやっかみをなんとか飲み込む。
「でも、万が一ってこともあるし。あと、カメラもお下がりだけど、壊れると面倒なことになるから。高いし」
「……ん、そういうことなら仕方ないか」
自転車を降りて、そのまま押して歩き出す氷堂の隣に並ぶ。なんだか不思議な時間だ。
「氷堂さん、いつもこんな時間まで起きてるんだ」
「絵を描くのに集中できるのが深夜だから。日中は学校もあるし、夜の早い時間はクライアントとあれこれやりとりする時間になっちゃうから、まとまった時間を取ろうと思ったらどうしてもこの時間になっちゃうんだよね」
「それでよく授業も寝ないで聞いていられるね」
「ショートスリーパーなのかな。三、四時間寝れば充分みたい。小町さんは写真撮るためにこんな時間に起きるんだ」
「たまに、だけどね。まぁ、普段は塾もあるし、写真を撮る時間も色々あって、もっと夜更けとか終電間近とかになるときもあるから、活動時間はまばらになりがちだけど」
「時間とか天候に縛られるの、結構大変そう」
「しんどいとか思ったことはあまりないかな……」
「いいなぁ。イラストもお金のことを考えないなら好き勝手に描いていられるんだけど、人生そう甘くないってことか……」
やはりきついのだろうか。
好きなこととはいえ、クライアントがいて、報酬と引き換えになる以上、手は抜けないし、納期とかクオリティとか、自分一人ではコントロールできないストレスや意見、いろんなことがあるのだろう。
写真を生業にしたら、と想像する。けれど、あまり良い気分になりそうな気がしなかったので、かぶりをふって考えるのをやめた。
やがて見えてくる公園には、虫の音色と多摩川のせせらぎ、そして噎せ返るよな夏草の匂いに満ち満ちていた。これなら撮影も問題なくできる。
「虫除けもってくればよかったかも」
「持ってきてるから貸してあげる。スプレータイプだけどいいよね」
背負ってきたリュックの脇ポケットから取り出すと、氷堂に向かって放り投げた。
危なげなく受け取った彼女はさっと腕やくるぶしに一吹きし、投げ返してくる。
「ありがと。で、日の出までここで待つの?」
「悪いけど、日の出そのものは撮らない」
「えっ」
「撮るのは、日の出前の風景」
三脚を立て、カメラを取り付ける。下流へと流れていく多摩川と河川敷を構図に入れ、シャッタースピードを切り替えながら風景を切り取っていく。日の出まであと十分ほど。東の空はすでに青く、水平線からは橙色が顔を覗かせている。
「いちばん、なにもない時間。それがいま」
シャッターを切りながらかえでははっきりと告げる。
「なにもない。いまこの瞬間には、なにも。けれど、淋しさのあとには必ず、楽しいこと、喜ばしいこと、嬉しいこと、そういうものがやってくる」
「なんだか哲学的だね。明けない夜はない、みたいな」
「The night is long that never finds the day――朝が来なければ、夜は永遠に続く、のほうが好きかな」
「そうなんだ。意外」
「なにが?」
「ずっと退屈そうにしている小町さんのことだから、こんな場所から早く抜け出したいタイプなのかとばかり」
「なにもしないまま勝手に自分の物語とか人生が進んでしまうのが嫌なの」
けれど、いまのかえでには己の人生を己の力で左右できるだけのなにかを持ち得ない。
「あたしが一歩前へ踏み出したときだけ、時間が進めばいいのにと思ってる」
シャッターを切る。夜明けは近い。カメラのレンズ越しに見えてくる未来が眩くて、瞼を少し閉じる。
「案外、傲慢なタイプなんだ」
「なのに、あたしが一歩進む間に、氷堂有紗という人間は二歩も三歩も先を行ってしまう」
「あー、くわえて負けず嫌いだったか」
「……嫉妬深いだけよ」
「……そうかな」
「そうよ」
そうに決まっている。
「でも、こうやっていま、作品のために同じ時間を共有して、対話できてる。だからきっと、その気持ちは嫉妬じゃないよ」
「そんなの――」
「私のこと知ってるんだから、少しくらいわかるでしょ? 嫉妬深いってのはどういうものか」
話が通じない匿名アカウントからの罵詈雑言とイカれた言動に尊厳を踏みにじられ、見苦しい嫉妬心に燃やされている氷堂が、あっけらかんとした声で言う。
「ねぇ、もうそろそろ日の出でしょ? 最後に私を撮ってみようとは思わない?」
「……いいけど、ポーズはあたしが指定する」
「寝っ転がるのだけはNGで」
「そんな意味のない要求しないから。日の出をただ見ているだけでいいよ。ポーズはご自由に」
「……そう。なんか面白みがなさそうだけど、大丈夫?」
「あたしのこと知ってるんだから、少しくらいわかるよね? 作った構図は嫌いなの」
「……そういえばそうだった、ごめんごめん」
三脚の位置を動かし、氷堂を風景に取り込む。日の出前特有の温い風が、彼女の長い黒髪を靡かせる。
ふわりと、柔らかに流線が広がる瞬間――。
「撮った。お疲れさま」
同時、水平線の彼方から、太陽が昇りはじめる。
「こうして日の出を見るのは久しぶりかも。たまにはいいもんだね」
氷堂が朝日に向かって両手を前に突き出し、親指と人差し指で長方形を作る。
「あーあ、私も写真のセンスがあればなぁ」
――ああ、これだ。
きっと、欲しかったのは。
無意識に、かえでの手が動く。
「あれ、もう撮り終えたんじゃなかったの?」
「……さぁ? 知らない」
「えー、不意打ちとか聞いてない。日の出、撮るるもりなかったんじゃないの?」
「いや、ごめん、つい。嫌なら消すけど」
「そこまで言ってないよ。変なポーズ取ってたらどうしようってだけ。でも、小町さんがそんな変な瞬間を選ぶわけないか。写真はこれからどうするの」
「適当にトリミングしたり加工して、クラウドに保存する。氷堂さんにはあとでデータ送るから」
「現像しないの?」
「データがあればコンビニでもどこでもできるけど」
「あ、なるほど。コピー機か。写真印刷って使わないから頭になかった」
「まぁそういうもんだよね」
写真を含めた静画なんて、いまどきデータをそのまま加工・トリミングしてSNSに投稿してしまう主流だ。写真展に出したり写真集に納めるようなものでもない限り、即効性のあるSNSで拡散され、多くの人の目にとまるよう祈る。そうやって実力で名を売っていく。それはイラストでも同じだろう。
「どんな写真が撮れてるか楽しみ」
「イラストにするのは氷堂さんが選ぶってことでいいのよね?」
「んー……私がいくつか候補を絞って、そこから小町さんが一枚選ぶ、って感じでいいかしら」
「まぁ、いいけど。絵にしやすいとかそういうのは気にしなくていいのよね」
「大丈夫。そっくり模写するわけじゃないから」
「そう」
拡げた機材一式を片付け、帰路へ着く。視線の先、多摩川を横断する橋のうえに京急の始発が見えた。駅までの道の途中、子犬を連れた老人とすれ違うと、氷堂が子犬の写真を撮りたいと言いだし、スマホを借りて代わりに一枚撮ってあげた。
『学校の友達と河原で一緒に作戦会議。すれ違った子犬がかわいかった』
ころころした愛くるしい子犬の画像がかえでのタイムラインを支配する。ALISAが抱える10万以上のフォロワーは一体どういう生活サイクルをしているのか、ものの数分で100を超えるコメントと一万以上のfavoriteが殺到する。
『数日くらいで発表できるかも』
「ちょっと。プレッシャーになること言わないでよ」
「いいじゃん別に。プロの写真家を目指すなら、これくらいのことで動揺してたら身が保たなくなっちゃうよ?」
「目指すなんて言ってない」
「目標がないと、いつまでもくだらない世界から足を洗えないよ」
「罪人じゃないんですけど」
「できることがあるのにただ漫然とした日々を過ごしているだけなのは、罪だよ」
「……辛辣じゃん」
「私は小町さんにとってのマルカムではないけれど、善き隣人ではありたいと思っているよ」
「意味分かってて言ってるのそれ?」
「善き隣人になりたいだけで、そうってわけじゃないから」
「すごい屁理屈」
「でも、漫然と時間を食い潰してるだけじゃあ、いつか、なんにもなくなるんだよ。欲しいものも、欲しかったものも、守りたいものも、憧れだったものも、目指そうとしていた場所も、全部」
「……」
かえでは押し黙るしかなかった。
氷堂がいうからこその重みに、返す言葉を持ち合わせていないから。
「なんもないなら、ここから、なにかのために少しずつ前に踏み出すしかない。いまいる場所から抜け出したいのなら、踏み出さなきゃはじまらない。偶然でもいい。奇跡でもいい。蜘蛛の糸を掴んだから抜け出せた誰かがいるように、一本の藁から家や田んぼを手に入れたように、自分から動き出して、いるべき環境を変えないと、いつまでたってもスポットライトには当たれない。一つしかない日だまりには一人しか入られないのだから、ときには奪い取る覚悟だって必要になる。そういった行いはときに息苦しくて、見苦しくて、窮屈で、後ろ指もさされるし、きらきらしてないことだってある。でも、最後に自分が笑って過ごすためには、その場に留まってちゃいけないんだよ」
黙っていても勝手に汗が噴き出してくるほどの熱気を伴った朝日が二人の影をアスファルトに色濃く作り出す。すぐにでも日陰に逃げたいのに、かえでの足元はアスファルトへ焼き付いてしまったかのように動かない。
心の奥深くにしまっていたものを白日の下にさらされてしまう心地というのは、こんなにも苦しいものなのか。
いつまでも日だまりには居られないことくらい、理解しているつもり――そんなことを日陰から呟いても、なんの意味もないことだってわかってる。
わかっていて、日向に躍り出ることができないでいる。それがなんでなのかも、なんとなくわかっている。
頭でっかちにもほどがある。なんて滑稽なんだろう。
「じゃあ、家に戻るわ。また学校で。今日はありがとね」
「……こちらこそ」
颯爽と自転車を漕ぎ出して、遠くなっていく氷堂の背中が見えなくなるまで見送る。
「同級生だってのに、なにやっってんだか、私」
彼女が視界からいなくなって、ようやく肩の力を抜く。
そして、自分の小物さ加減があまりに情けなくて、肩を落とした。
くだらないや。 辻野深由 @jank
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