中編


「どうしよう……」


 被写体をそろそろ決めなければならない。

 季節はとっくに夏真っ盛りで、もう数日すれば高校最後の夏休みに突入する。担任の態度とテストの結果を踏まえれば、一学期の登校最終日に渡されるであろう成績表もこれまで積み上げてきたものに泥を塗るようなものではないはず。

 つまり、指定校を狙うなら、必死に勉強をしなくても進学先はなんとかなる。


 近い将来に心配はない。

 けれど、その後は?


 ――小町さんもそういうものを見つけたほうがいいよ。自分が世界と戦える武器みたいなもの。


 心の柔らかい場所に刺さって、引き抜けない。氷堂有紗から溢れた言葉の重みで潰れてしまいそうになっている。あるいは、その鋭利な先端に塗られた毒で心がぐずぐず溶かされているかのような心地だ。決して、連日続く真夏日のせいではない。

 一度くらいは同じ土俵で負かしてみたい――その欲はたしかにあった。ずっとくすぶり続けていて、それがかえでの原動力だった、はずなのに。いまではその気持ちを抱いていたことすら恥ずかしくて馬鹿馬鹿しいと感じている自分がいる。


「ねー、かえで、夏休みどっか暇?」

「基本的には塾の夏期講習。缶詰だよ。しかも七科目あるし。朱音と予定合わないって」


 湿気に蒸された室内で籠球を追いかけ回していた朱音が、頬に滲む珠のような汗を拭いながら「そうだけどさぁ」と口を曲げる。朱音とかえでは同じ塾に通っているが、希望する進学先も違えば偏差値も20くらい違う。選択している講座数はかえでが七科目、朱音が三科目。七科目も選択していると、朝から晩まで塾にいるし、夏期講習ともなれば連日連夜で勉強づくしだ。寝る以外は勉強するか、宿題するか。息つく暇など微塵もない。難関大学に進学するとは、そういうことだ。

「息抜きは必要じゃん。最後の夏休みだよ? どっか行こうよ~」

「遠出するような時間ないし。先約あるし。というか、朱音には彼氏がいるじゃん」

「それとこれとは別だし。というかそっちこそ先約ってなに? 聞いてないんだけど」

「少なくとも朱音が想像してるようなことじゃないよ。オープンキャンパス」

「あー、そういうのかぁ。おもしろくなーい」

「楽しむためにやるわけじゃないし……。とにかく、そういうことだから」

「んー……。もし暇できたら連絡してよ?」

「朱音が勉強から逃げないように監視してってことなら喜んで」

「地獄ぅ~無理ぃ~」

 首を絞められたような悲鳴とともに朱音が机へ突っ伏した。その哀れな姿をみて、ふとスマホのカメラシャッターを向け――やめた。

 こういうものではない。被写体も、空気感も、ALISAのイラストイメージと噛み合わない。この瞬間も、あと何度味わえるか分からない瑞々しい青春の一幕、なのだろうけれど、いま求めているものはこれではない。そんな気がする。

 ほそく、ながいため息を溢して、かえでは教室の低い天井を見上げる。


 視界の端に、窓越しに入道雲が見えた。抜けるような空に浮かぶ白い陰り。なんでも包み込んで、しまってしまえるほどに大きくて、吹けば消えてしまいそうなほどに軽そうな。


「……かえでさ、オープンキャンパスって、この前も行ってなかったっけ?」

「……別の大学に行くの」

「ふぅん、そっか」


 朱音はそれきり興味をなくしたようで、スマホをいじりだす。かえではぼうっと、空に浮かぶ入道雲を、視界から消えるまでじっと見つめていた。



***



 抜けるような空から降り注ぐ陽光を受けたグラウンドには陽炎が立ち篭めている。屋上から見下ろす黄土色のなかに見える人影がトンボを引き摺り整備をしていた。高校最後の秋大会に向けて、三年生陸上部の面々は誰もが練習に入れ込んでいる。その中には朱音の姿もあった。


 学校の屋上は施錠がされていないから、誰でも気軽に立ち入ることができる。落下防止の柵は見上げるほどに高く、有刺鉄線が張り巡らされているので、誰一人よりかかることすらしない。昼休みや放課後は吹奏楽部の金管楽器隊が占拠してしまうので、共有場所だというのに立ち入ることすら尻込みしてしまう。

 ただ、そういう感情を持ち合わせない人間もいるもので。


「そろそろ被写体は決まりそう?」


 屋上へ続く鉄扉を開ける氷堂の問いに、かえでは首を横に振って答える。昼休み、教室でお弁当を食べ終えて歯を磨いていたら、食堂から戻ってきた氷堂に掴まり、そのままここへ連行されてきてしまった。この間の件で話がある、と言われてしまえば、逃げようもなかった。

 トランペットを吹いている子が一瞬、こちらを睨んだように見えたが、氷堂は意にも介さない。


「いっそのこと、どっか一緒に行って探してみる?」

「一緒に、か……」


 数少ない夏休みの休暇は、被写体を探すために少し遠出をするつもりではいた。ただ、誰かと一緒に、という考えはなかった


「いくつか候補は決まってるんだけどね」

「そうなんだ。それなら同行しなくてもいいかな」

「……好きな構図とかある?」

「んー、特には。だいたいなんでも描ける」


 ALISAが描く絵の特長は色使いと線のタッチにある。どれだけの貌と引きだしを持つのか、と驚嘆せずにはいられないほどのレパートリーを使いこなし、それを同じ被写体でやってのけてしまう。ゆえに、彼女の一連の作品群は有名な変色動物をもじり「Kamelia」と呼ばれ、広い年齢層からそのセンスを支持されている。

 かえでもなんとなく察していた。ALISAには不得手なものがない。あらゆるスポーツをそつなくこなしてしまうし、学力は申し分ない。芸術方面のセンスはいわずもがな。

 紛れもない天才――それが氷堂有紗が生まれ持った貌だ。


「……どうしてあたしなの」

「ん?」

「急に写真を絵にするだなんて、突拍子もないこと言い出してさ。自分で撮ればいいのに」


 わざわざ高いカメラを買わなくても、スマホを使えばどこでもいくらでも撮影できる。


「あたし、写真のセンスないんだよね。ほら」


 氷堂が差し出してきたスマホを覗き込む。映し出されているフォルダにはそれなりな枚数の写真が格納されていた。画面をスワイプして写真を見る。


「手ブレひどいし、ピンぼけもすごい……」

「これ、他言無用ね。なんでもできそうって思われてるし、そのイメージを保ったまま卒業したいから」


 一体どれにフォーカスしたいのか分からないほどにピンボケしている写真ばかりで、そうでないものはピントズレどころか写真全体がひどくブレていて何を撮ろうとしていたのかすら判然としない。こんなにセンスのない人も珍しい。

 なるほど。わざわざかえでに写真をお願いしてきた理由がわからないでもない。


「小町さん、もしかして迷惑だった?」

「そういうことじゃないけど……、氷堂さんならいくらでも伝手があるでしょ」


 それに、かえでに頼まなくとも、いまどき良い写真ならネットでいくらでも拾える。あるいはALISAがもつネットワークならプロの写真家にお願いすることだってできるだろう。


「んー、プロの写真が欲しいんじゃなくて、小町さんのセンスを買ってるんだけどなぁ。こう、さ……なんていうんだろう……、青春があるんだよね。あなたの写真には」

「……学校のなかで適当に切り抜いた瞬間はほとんど青春でしょ」

「そういうのじゃなくて……んー、なんていうかな……寂寥感があるけど、希望もある、みたいな」

「…………」


 やはり、門外漢だろうが感性は一流らしい。

 かえでの好みの画角と空気感――それは『寂しさ』だ。部活終わりの日暮れ、用済みになった木炭の山、祭りの後の櫓――楽しい思い出、時間のあとに少しだけ訪れる空気感と香り。寂寥や落莫にも似た一時が、かえでは好きだった。


「そういうのって、なかなか写真にするの難しいんだよね。記録や記憶に残したいものはどうしたって楽しいときや嬉しいときの一瞬。あるいはメッセージが詰まった一枚。寂しい写真は、なかなか人の心に刺さらない。だから、ニッチで貴重なんだよ。まして現役の女子高生の写真ともなれば尚更ね」

「なんだか現金な話になってきた」

「否定はしない。小町さんの写真には金銭的な価値がある。お金に困っているのなら買い取ってもいいけれど?」

「違う。そういう話じゃないからやめてよね。あたしはお金をもらえるようなことをしている自覚もないんだから」

「じゃあお金の話は置いておいて。これで私が小町さんに期待していること、理解してもらえたかな?」

「あたしの感性が発揮された写真を絵にしたいってことね。わかった。それなら候補はある」

「お、やる気だしてくれた?」

「すぐに終わるからね。ただ、お願いがある」

「なに?」

「撮影場所に同行してほしい」


 言うと、氷堂は口元に手を当てて考え込むような仕草をした。


「ちなみにいつ、どこにいくつもりか教えてくれる?」

「時間が時間だから、ここから歩いて行ける場所」

「つまり深夜ってこと?」

「むしろ早朝。日の出前」

「……早起きしないと、か。いや、むしろ徹夜か……」

「夏だし、寝てきたほうがいいよ。場所は聖蹟桜ヶ丘駅前で。集合時間は三時半くらいかな。平日だと大変だろうから土曜日か日曜日の朝がいいとは思うけど、どう?」

「日の出を撮りに行くってことか、いいね。日曜日は予定があるから、土曜日がいいかな。ちなみになにか欲しいものとか必要なものってある?」

「……特には。朝焼けは意外と紫外線あるから、日焼け止めは塗ってきな。あと、あるならサングラスかな」

「楽しみにしているわ」

「楽しくなるようなこと、なんもないと思うけど」

「いいのいいの。こういうのが青春ってやつなんだから」


 別に大人になってからでもできることだから、十代の専売特許というわけではないはずだけれど。

 それじゃあ、とまるで羽が生えたかのように軽やかな足取りで屋上から姿を消していく氷堂を羨んだ。これで何度目だろう。

 写真が上手く撮れないだなんて、そんな不得手は彼女のこれから先の人生に少しだって悪影響を与えないどころか、一見して芸術面では完璧のような彼女が抱える愛くるしさや愛嬌として一括りにされるようなものだろう。かわいい欠点というやつだ。なんでもないことすらそういう枠に納めてしまえるほどに彼女の生まれ持った才能というものは強力で、だから、氷堂有紗という光にあてられてしまった一介の女子高生に芽生えるこの感情は少しだって後ろめたいことじゃない。彼女のような存在の側にいれば誰だって抱いてしまう当たりまえでありきたりでつまらないもののひとつにすぎない。そう思うたびに、かえでは自分自身に幻滅する。氷堂の置かれた環境は辛いことのほうが多いはずなのに、それすらシンデレラストーリーのように思えてしまうのだから、人間の思考回路というのは本当に残酷だ。

 どうにも救いようのない自分の思考回路に呆れ果てながら、高くそびえる柵越しに映える景色をぼんやり眺める。河川敷から対岸にあるビル群へと吸い込まれるように伸びる橋、その上を絶えず走る車、抜けるような青空、そして、視界の彼方に吸い込まれていく多摩川の瑞々しさ。遠く見える水平線は熱気を伴ってほのかに揺らめいている。

 まるで、かえでの心のなかに灯った決意のように。


 やるべきことは明白になった。撮るべき被写体も、構図も、脳裏にはっきりとイメージがある。氷堂がかえでの作品をどう受け取るかは分からないけれど、少なくとも落胆させるようなことはないはずだ。


 根拠もないのに、どういうわけかそんな確信があった。

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