巨大な猫について

佐々奈オルトス

巨大な猫について

 新条しんじょう叶恵かなえが吹奏楽部に入部したのは、肺活量を褒められたからだった。

 勝舞かつぶ市という町で叶恵は生まれた。戦国時代、この土地である将軍に勝利の舞が奉納されたという逸話が由来と言われている。もっともその逸話も証拠があるわけではなく、事実かどうかは疑わしい。市のホームページの「歴史」の欄を見ても、(※諸説あります)の注釈がこれみよがしに付いている。

 あまり大きな町ではない。さりとて田舎というわけでもない。学生はもっぱらショッピングモールで遊ぶ。駅前には全国区のチェーン店も一通り揃っている。

 そんな町で叶恵は生まれ、育った。家族は両親と、弟が一人。地元の中学を卒業し、地元の高校に進学した。家から徒歩で通える距離にたまたま公立の高校があり、たまたま偏差値もちょうどよかった。電車に揺られることなく登校できることは叶恵にとって魅力的であり、さして必死に受験勉強をしなくても入れそうだったので、形ばかり説明会に出席しただけで、いとも簡単に叶恵は志望校を決めた。校風も何もよく知らないまま、叶恵は人並みに勉強し、試験を受け、合格した。叶恵は勝舞高校の一年生になった。

 中学の頃は水泳部に入っていたが高校でも続ける気は全くなかった。水の中にいるのは好きだったが手足をバタバタと動かして泳ぐことは好きではなかったし得意でもなかった。だったら市民プールかスーパー銭湯にでも通った方がよいと気づいた。中学の水泳部に存在していた、目標に向かって突き進むことを是とし、それ以外の全てを非とするような風潮も好きではなかった。それは単に叶恵の先輩や同級生たちの傾向だったのかもしれないが、叶恵はそれを運動部全般に共通する風潮だと考えた。叶恵は、高校に進学したら文化部に入ろうと決めていた。

 高校に入って一週間、叶恵は生まれて初めてチューバを吹いた。気まぐれに見学しに行った吹奏楽部の部室で、先輩に勧められるまま重い金属の塊を抱え、マウスピースに唇を付けて息を吹き込んだ。決して綺麗な音色は出なかったが、とても大きな音が鳴った。「新条さんいいね」「肺活量がいい」「肺活量が素晴らしいよ」と先輩たちは口々に叶恵のことを褒めた。叶恵は単純なので気をよくした。「入部します」と気が付けば二つ返事だった。それまで楽器といえばリコーダーとカスタネットと鍵盤ハーモニカくらいしか触ったことがなく、チャイコフスキーのチャの字も知らなかった叶恵は、こうして勝舞高校吹奏楽部の一員となった。

 勝舞高校の吹奏楽部は人数も少なく、目標も士気も高くない。大会に出て結果を残すとかよりも、ただ合奏を作り上げるということに重きを置いていた。音楽教師でもある顧問はクラシックに造形が深く、それに影響されるようにして部員たちの趣味もクラシックに偏っていった。叶恵でさえ知っているような有名な曲の楽譜が配られ、部員たちはそれを練習し、合奏した。叶恵は音楽的な素養こそ無かったが、手が大きく、器用で、肺活量があったので、上達は比較的早かった。上級生や経験者である同級生に教わりながら、叶恵は徐々に奏でられる音階を増やしていった。

 校内で定期的に行われる発表会に初めて参加した時、叶恵は自らが音楽の一部になっていることを実感し、心の奥底が震えるのを感じた。

 しかしそんな生活も夏までだった。叶恵たちは夏休みを返上して学校に通い詰め、流行りのJ-POPやら、岩崎良美の「タッチ」やら、「サンバ・デ・ジャネイロ」やらを練習させられることになった。

 勝舞高校の野球部に「怪物」がいるらしいという噂は、叶恵が入学した頃から囁かれていた。

 東海林しょうじひかる。叶恵と同じ年に入学し、野球部に入った。豪速球のストレートを投げるパワフルさと、臨機応変に変化球を投げ分けるテクニックを持ち、大阪の某有名強豪校の監督が直々にスカウトに来ていたという話もある。しかし家庭状況から遠方での寮生活を現実的でないと判断した彼は、自宅から電車で通える勝舞高校に一般受験で入学した。

 勝舞高校の野球部は決して強豪とは言えず、甲子園の出場経験など創部以来一度もなかった。その野球部が、東海林光の入部によって激変した。

 野球部の監督・塚地つかじ公平こうへいは自身も元高校球児であり甲子園出場経験も持つ。数年前から創部以来初の甲子園本戦を虎視眈々と狙っていた彼にとって、光の入部は千載一遇のチャンスだった。エースピッチャーの光を中心に戦略を組み立て、練習メニューも全面的に見直された。

 元々有名ではない公立校の野球部である。既存の部員も、新入部員たちも、本来甲子園に出られるとは思っていなかった。しかし光の豪速球をひとたび見ると誰もが色めき立った。県下のレベルでは光の投球は明らかに逸脱しており、彼に対抗できるバッターは数えるほどしかいないと思われた。甲子園出場の青写真は俄かに現実味を帯び、それに伴って部内の雰囲気も大きく変わった。

 光が一年の夏、勝舞高校野球部は県大会で大躍進を果たす。光の投球は県内有数の強豪校たちの打線をきりきり舞いにさせ、ついに甲子園の切符を手にする。

 校舎の壁には卒業生有志一同による巨大な垂れ幕が掲げられ、野球部の部員たちは一躍時の人となった。地元新聞やスポーツ誌の記者が次々と学校を訪れ、NHKのカメラまでやってきた。

 大躍進の影響は吹奏楽部にも及んだ。

 本来、野球部の応援は任意参加であり、叶恵をはじめとする半分ほどの部員は不参加であった。叶恵は流行歌を演奏するよりクラシックの方が好みだったし、野球のルールもよく知らないので興味が沸かなかった。第一、炎天下の球場で金属製の楽器を演奏するなど正気の沙汰とは思えなかったからだ。

 しかし野球部が甲子園に出場するとなると、そうも言っていられなくなった。応援団の音圧と音量は試合の結果に直結するとまでは言わずとも大きく影響を与える。野球部の関係者たちはそう信じていた。元々勝舞高校の吹奏楽部は部員が少なく、音の薄さに課題を抱えていた。ましてやそのうちの半分だけでは合奏と言える完成度には程遠かった。それでは部員の士気に関わると言われ、本戦の応援では現役吹奏楽部員は応援強制参加、OB・OGの有志も加わり、大規模な合奏団が編成されることになった。


「なーにがアゲアゲホイホイだよって叫びたい気分だよ」

 校舎裏の水道に叶恵の声が響く。

みなともそう思うよね?」

 隣にいる同級生の女子生徒へ顔を向ける。荻原おぎわら湊は叶恵と同じく吹奏楽部の一年生でチューバを担当している。中学時代より三年の経験値があり、演奏技術を教わる中で親交が深まった。二人はマウスピースを洗っている。蛇口二つ分の流水音が周囲を満たしていた。

「サンバ・デ・ジャネイロも私は好きだよ?」

 湊は柔和な顔で首を傾げる。人通りの少ない校舎裏は低音パートの定番練習スポットだが、夏は熱が籠りやすい。額から流れる汗が何度も目に入りそうになったが、湊の声は穏やかさを保っている。しかし叶恵の機嫌は上々とはいかなかった。

「そもそも、何で私らが野球部の応援なんかしないといけないんだろ。私、野球とか全然興味ないのに」

「でも甲子園で演奏したら、その音源がテレビに乗るんだよ? しかもEテレ。地上波だよ地上波。全国大会出ても、地上波で演奏できる機会なんて滅多にないよ」

「インディーバンドがMステ出るみたいなノリで甲子園を捉えないでよ。ていうか、まあ百歩譲って甲子園で応援するのはいいよ? でもそのために校内発表会をお休みにしなきゃいけないのは納得いかないよ」

「日程が被ってるからね。仕方ないんじゃないかな」

 湊は達観している。叶恵は割り切れない。

 別に叶恵は何が何でも校内発表会を優先したいというわけではない。ただ、外野である野球部の都合に合わせてスケジュールが捻じ曲げられたことに理不尽さを感じて憤っているだけだ。

「だいたい、ああいうのはね、覇道だよ、覇道」叶恵は語る。「自分たちが校内て一番偉いと思ってるんだから」

「シーッ、叶恵ちゃん。誰が聞いてるか分からないよ?」

「聞かれたらまずいって言うの?」

「まずいと思うな。今の野球部は人気があるからね。悪口なんて言ったらリンチにされちゃうよ」

「くっそー、帝国主義の権化どもめ。絶対テングになってるよ、あれ」

 湊は叶恵の脇腹をつついてきた。

「ん? どったの湊?」

 湊は校舎の角の方を見ていた。叶恵は同じ方へ目を向ける。そこには野球部のユニフォームに身を包んだ男がいた。足が長く、スラリとした体型をしている。髪型は坊主ではない。数年前から勝舞高校の野球部では丸刈りの強制をやめた。おそらくは慶応高校の影響を受けているのだろうと言われていた。だが実際には自主的に丸刈りにしている部員の方が多く、髪を伸ばしている生徒は部内ではマイノリティだった。つまり彼は少数派の人間だった。

 しかし坊主頭であろうとなかろうと目の前にいるのは野球部の部員だった。

「えっと……あのー……お疲れ様です」

 気まずい口調で叶恵は会釈する。新学期からは村八分的学校生活を覚悟せねばなるまいと考えていると、彼は口から吐息を漏らすように笑い、言った。

「正直、俺もそう思う」

 呆気にとられる二人の横で彼は水を一口飲むと、キャップを目深に被り直し、そのままグラウンドの方へと走り去った。


 幸いにしてその邂逅がきっかけで叶恵がリンチに遭うことはなく、それ以来叶恵は陰口を控えるようになり、野球部は初めての甲子園本戦に挑んだ。しかし本戦出場校は強豪が揃っており、光が得意とする変化球への対策も万全にされていた。チームは光の奪三振率の高さに依存していた。攻撃に偏重した練習に特化しており、その分守備には課題を残していた。元より短い期間では全てを完璧な状態に仕上げられないという戦略的な判断であり、取捨選択の結果だった。それ故に、一度バッテリーが弱点を突かれると、そこを起点に連続して得点を奪われた。光以外の投手層の薄さも仇となり、勝舞高校は一回戦で敗退した。

 落胆と諦念の混じったため息がアルプススタンドを満たす中、内心でほくそ笑んでいたのは叶恵だった。これでもう炎天下の中で演奏せずに済むと思うとせいせいする気分だった。

 球場のベンチ前へ目を向けると、部員たちが泣きながら土をかき集めていた。マスコミのカメラマンがその様子を這いつくばりながら撮影している。俯瞰して見ると少し滑稽なその光景に笑ってはならないと必死で自分を律していると、端の方にいる一人の選手に目が留まった。

 あの日、校舎裏の水道で会った彼だった。背が高く脚が長いので遠目にもすぐ分かる。今日の試合でも代走で出場していた。七回の裏、相手チームの送球とほぼ同時に滑り込んだ決死のスライディングがセーフ判定となり、一時的にだが同点に追いついた場面があった。その時のランナーが代走の彼だった。球場内のアナウンスで、叶恵は初めて彼の名前と学年を知った。佐竹さたけるい。叶恵と同じく一年生だった。塁がホームに生還すると球場内は大いに沸いた。ラジオの実況も塁の名前を連呼していた。しかし興奮のピークはそこであり、続く八回で相手チームのピッチャーが交代すると勝舞打線は出塁すら許されなくなった。塁もその後一度だけバッターボックスに立ったが見せ場もなく空振り三振に終わった。その後打線は一巡もしないまま試合は終了した。

 塁は泣いておらず、土を集めてもいなかった。端の方に立って、疲れ切ったサラリーマンのような表情で遠くを見ていた。


 叶恵が彼と再会したのは半年後のことだった。二年に進級すると共にクラスは再編し、叶恵は塁と同じクラスになった。最初の自己紹介で、彼が同じ勝舞市内の在住であることも知った。

 クラスメイトで野球部は塁だけだった。二年と三年は部員数も少なく、ほとんどの選手がベンチ入りしていた。しかし東海林光を擁する新生チームの躍進は県の内外で話題を呼び、新一年生の部員は大幅に増えている。監督の塚地は年功序列より実力主義を重視すると公言しており、今年以降のスタメンは大幅に変動することが予想されていた。ベンチ争いは苛烈を極めるだろうと部の内外で噂され、緊張を孕んだ雰囲気は学校中に伝播していた。野球部の部員に対しては、近寄りがたい雰囲気がクラスの中でも自然と醸成されていった。

「野球部なんてそんなもんだよ」

 マウスピースを口に付け、ピストンバルブの感触を確かめながら、湊は言った。進級して一ヶ月ほど経った頃のことだった。クラスの中では既にいくつかの交友関係が育っているのに、塁だけはあまりクラスメイトと関わっていないように見える。そのことを叶恵は湊に話した。

「私のクラスにも野球部の人はいるけど、やっぱり忙しいみたいだからね。体育祭とか文化祭にもあまり参加できないだろうって言ってたよ。そういうきっかけがないと、仲良くなるのも難しいんじゃないかな」

「そういうものか」

 叶恵はチューバのベルの縁を指でなぞる。考え事をする時の叶恵の癖だった。

「叶恵ちゃん、あの人のこと気にかけてるんだね」

「そうかな?」

「気持ちは分かるよ。佐竹くんだっけ。背も高いし、足も速いしね。モテそうだよね」

「足が速くてモテるのは小学生までだと思うけど。まあ、どっちにしても私はナシだろうね。第一印象が最悪だから」

「それは言えてる」

 あえて否定しない湊の物言いに叶恵は苦笑する。もっとも向こうは叶恵のことなど覚えていないだろうと思っていた。

 叶恵は塁を気にかけている。気にかける、という言い方が正しいのかは分からないが、確かにそうなのかもしれないと叶恵は思った。多分それは、叶恵が塁に共感しているからだ。

 夏の甲子園で負けた後、土を集めることなく空を見ていた彼の目を叶恵は覚えていた。まるで三人称の視点で自分を見ているような、そんな表情だった。

 しかし湊の言う通り、野球に青春を捧げると誓った塁の学生生活が他の生徒たちと乖離するのは仕方のないことであり、少なくとも彼が引退するまで、叶恵が彼と関わり合うことはないだろう。と、叶恵は思っていた。

 叶恵が塁と関わるようになったのは、通学路に巨大な猫が現れたからだった。

 最初、それはフェイク動画による冗談の類だと受け止められていた。しかし叶恵はすぐにそれがフェイクではない真実だと知ることになる。二階にある自室の窓を開けると、すぐに実物が見えたからだ。

 車道の真ん中を塞ぐようにして眠る、二階建ての民家よりも巨大な長毛種の猫の姿を、叶恵の目ははっきりと捉えていた。

 両親や弟も気がつけば叶恵の部屋に集まってきて、四人で巨大な猫を見つめた。とぐろを巻いて眠る猫の体は、よく見ると寝息に合わせてわずかに上下しており、それがハリボテではないことを確かに示していた。翌朝になっても巨大な猫は消えておらず、それが夢でないことを叶恵たちは受け入れざるを得なかった。

 巨大な猫はすぐに全国的なニュースになり、未曾有の怪事件として世間を騒がせた。専門家や研究者、マスコミ、果ては一般の観光客までが集まり、巨大な猫を四方八方から観察した。

 研究チームによる観察と研究が連日に渡って行われたが、巨大な猫について詳しいことは分からなかった。生物学的、物理学的なアプローチをしようにも、巨大な猫の存在は既存のアカデミックな常識の範疇をあまりにも逸脱していた。巨大な猫が移動した痕跡は皆無であり、市民の誰も猫が出現する瞬間を見ていなかった。巨大な猫は「突如として出現した」としか言いようがなかった。科学者たちによる観察と研究の間も猫は眠り続け、市民の交通を妨げ続けた。体長は通常の猫の五十倍ほどあり、ちょうど交差点の真ん中に眠っていた。交差点は巨大な猫の体格には少し窮屈そうにも見えたが、一般に猫は狭いところを好むものなので、その点はさして不思議とも思われなかった。

 猫は眠り続ける以外の行動をしなかった。自衛隊のヘリコプターで巨大な猫を釣り上げ別の安全な場所に運搬する計画も立案されたが、巨大な猫の正確な体重が測定できないこと、実行に移した時の猫の挙動が予想できないことなどが理由で実行は棚上げされた。猫はその場から動かないため危険は最小限であり、ただひたすら邪魔である以外の実害はひとまずのところ無かった。現状維持が最適解であろうというのが共通認識になった。とはいえ、巨大な猫が仮に寝返りでも打とうものなら、足元にいた人間が圧死することは容易に予想できる。交差点とその周辺の道路は無期限の通行止めになり、該当エリアに住む世帯には退去が命じられた。

 巨大な猫は勝舞市の風景の一部となった。猫の近くに行くことは出来なくとも、巨大な猫は巨大だから、遠くからでもその姿はよく見えた。巨大な猫を一目見ようと遠方から訪れる者は後を絶たず、観光資源など無いに等しかった勝舞の町だったが、トランクケースを引いた観光客の姿が俄かに目につくようになった。

 巨大な猫は巨大であること以外は普通の猫と何ら変わらない見た目を有しており、眠る姿は愛らしいと評判になった。勝舞市は市名の影響か、元々猫好きが集まる町として知られており、新条家も例外ではなかった。新条家には短毛種の猫が一匹いる。父の好きな古いSF小説に由来し、ピートと名付けられている。叶恵はその小説を読んだことがなかったが、ピートのことは溺愛していた。そんな猫好きの叶恵だったから、巨大な猫のことも憎からず思っていた。叶恵の家は立ち入り禁止区域の外にあったから尚更だった。

 しかし叶恵の生活に巨大な猫が与えた影響はゼロではなかった。巨大な猫が鎮座する交差点は、叶恵の通学路でもあった。しかし通行止めの影響で叶恵は迂回路を選択する必要があった。

 叶恵の通学路は、自宅から学校へ向けて北上するルートになる。住宅街の中央を南北に突っ切る通りを歩いて登校していたが、ちょうどその道が巨大な猫に塞がれてしまった。叶恵は通学路を変え、本来通っていた道路よりも一本東にある道を歩くことにした。

 新しい通学路にも慣れ始めたある日、曲がり角で塁に出会った。

「あ……おはよう、佐竹くん」

「おはよう、新条さん」

 目が合うと、二人は挨拶を交わし、自然と並んで歩き出す。塁の歩幅は叶恵より大きかったが、すぐに叶恵に合わせてくれた。

「ええと」叶恵は話題を探した。「佐竹くんって、家、こっちなの? 徒歩通学だっけ」

「うん。勝舞市内に住んでるから」

 そういえばそんなことを言っていたような気もする。叶恵が彼に関する情報を思い出そうとしていると、向こうからも聞いてきた。

「新条さんの方こそ、この道で見るのは初めてだ」

「ああ、最近通学路が変わったんだ。元々向こうの道だったんだけどね。ほら、猫で」

「なるほどね。いつもこのくらいの時間に登校してるの?」

「まあ、日によるけど、大体は。佐竹くんも?」

「そうだね。大体は」

「あれ、ていうか、野球部ってもっと早いんじゃないの? 朝練とかで」

「野球部ならもう辞めたから」

「え……そうなんだ」

 叶恵は自分が魔の抜けた返事をしたような気がして会話をやり直したくなった。

「じゃ……じゃあ、これからは結構会うかもね。登校中とか」

 気まずい空気を打ち払おうと叶恵は言う。しかし塁は何も気にしていないかのような表情で応じる。

「新条さんの方こそ、吹部は朝練とか無いの?」

「うちはその辺緩いから、基本的にそういうの無いんだよね。まあ、本番前でヤバい時は自主的に集まって詰めたりもするけど」

 叶恵は答えつつ、意外だな、と思った。

「ていうか佐竹くん、私が吹奏楽部だって覚えてたんだ」

「そりゃ覚えてるよ。校舎裏の水道のところで愚痴ってたでしょ」

「あー……それも覚えてるんだ」

「強烈にね」

 口角を上げながら彼は言った。「忘れていいよ」と叶恵は呟くように告げた。

 その日から、叶恵は塁と頻繁に会うようになった。通学路で会うと、自然と並んで登校するようになる。塁の自宅は学校よりさらに東にあり、南側から来る叶恵の登校ルートと途中で交わる。

「佐竹くんって友達にはなんて呼ばれてるの?」

 叶恵は隣を歩く塁の顔を見上げる。叶恵から見ると、塁の顔は頭ひとつ分ほど高いところにある。首が鍛えられることを叶恵は覚悟する。ただでさえ日々チューバを持ち運んで腕が鍛えられていると言うのに。

「野球部では名前で呼ばれてたな」

 懐かしむような口調で塁は言う。

「名前って、下の名前?」

「うん。チームは下の名前で呼び合うってルールだったからな。二個上の先輩──つまり去年卒業した代に、吉村って苗字の人が三人いてさ」

「三人も?」

「ちなみに一個上の代にも一人いるから全体だと四人。でもそれが全部吉村先輩だと紛らわしいだろ」

「あー、確かに。フライとか飛んできて、『吉村さん取って!』って言われても『どっち!?』ってなるもんね」

「そう。それで下の名前で呼び合うようになった。下の名前は誰も被ってなかったからな。それに、お互い距離が縮まった方がチームワークが発揮できるって監督も言ってたし」

「名前で呼んだから距離が縮まるってものでもないと思うけどね」

「実際そうだったね」

「じゃあとにかく、野球部の人たちからは塁って呼ばれてたんだ」

「ああ」

「私も塁って呼ぼうかな」

「それはやめて」

「なんで? いいじゃん。塁って呼びやすいし」

「嫌いなんだよね、塁って名前。いかにも高校球児でございますって感じで」

「なるほど」叶恵は頷く。「じゃあやめとこう」

「それがいい」

 塁は言った。叶恵が顔を背けると、西の方に巨大な猫の尻尾が揺れているのが見えた。


 叶恵はたまにチューバを家に持ち帰る。夏休みが始まってからはその頻度も増えた。叶恵の家は住宅街の中にあって、大音量でチューバを吹き鳴らすことは出来ない。だから息を吹き込むことはせず、バルブを押し込んで運指を確認するに留める。指先に力を込め、滑らかな金属の質感を感じる。叶恵は窓際に置かれたベッドの上にあぐらをかいて座り、膝の上にチューバを乗せていた。太ももの上に乗った金属は、最初はひんやりとしていたが、次第に体温が移ってぬるくなっていく。自室の窓からは、今も巨大な猫が見えている。窓を開くと初夏の風が部屋の中に吹き込んできた。

 ゴロゴロ、と低い雷のような音が聞こえてくる。それは巨大な猫が喉を鳴らす音だった。巨大な猫の近くに住む者たちは、時折この音を聞くことになる。通常の猫と比べると、その音は大きく低く響く。

 扉がノックされる音がした。はあい、と叶恵が答えるよりも早く扉が開かれる。弟の望夢のぞむが部屋に入ってきた。

「お姉ちゃん、僕は決めたよ」

「決めたって何を」

 チューバを抱え直しつつ叶恵は聞き返す。望夢は窓の外を見ながら答える。

「研究テーマをだよ。夏休みの自由研究」

「自由研究ねえ。私もやったよ。何もかもみな懐かしいね」

 望夢は小学五年生であり、夏休みの課題として自由研究が課されていた。

「で、何なのテーマは」

「あの巨大な猫の正体を僕は突き止める。それがテーマだよ」

「壮大だね」

「お姉ちゃん、カメラ貸してよ。猫の観察記録に使うから」

「別にいいけど。壊さないでよ」

 机の上に放り出されているデジカメを指で示し、勝手に持っていけと弟に告げる。

 しかしその日の夕飯の席で叶恵は母に命じられた。

「叶恵。望夢の自由研究だけど、付いていってあげて」

「えっ、私が? どうして」

「だってほら、危ないだろ。巨大な猫の近くで、望夢だけだと」

 と、父が横から言ってくる。

「別に猫の近くは規制されてるから、どのみちそんな近くまで行けないでしょ」

「巨大な猫が急に寝返りでも打ったら大変じゃないか、な?」

 もし本当に巨大な猫がのしかかってきたら、望夢ひとりだろうと叶恵が付いていようと関係ない。むしろ犠牲者が一から二に増えるので状況は悪くなる。と、言おうとしたが、そう言っても両親に通じないことは目に見えていたので叶恵は特に何も言わなかった。

 翌日、叶恵は望夢に連れられて家を出る。半袖のシャツの下に着たTシャツは早くも汗を吸って素肌に張り付いてきた。上空を見上げると憎らしいほどに晴れていて炎天下の日差しが容赦無くアスファルトを刺している。

 テレビをつけてチャンネルをNHKに合わせると画面の周りにL字で熱中症アラートが表示される光景もすっかり見慣れた。目下のところ、国民の一番の関心事は、巨大な猫が熱中症になりはしないかということだった。今のところ強い日差しをジリジリ浴びながらも相変わらず巨大な猫は気持ちよさそうに眠っているので心配はいらないだろうと言われている。

 叶恵たちは巨大な猫が眠る通りまで辿り着く。規制線にはカラーコーンがいくつも置かれ、その前には制服姿の警察官が立っている。その奥に巨大な猫が見えた。尻尾の先端が天に向かってピンと伸び、長い毛がそよそよと揺れていた。その様子を撮影しようと多くの人間が集まり、警察官が彼らに目を光らせている。スマホのカメラを構える人々は、大半が地元の人間ではない。アジア人が大半だが、白人や黒人も混じっている。そんな彼らに混じり、叶恵は規制線に近づいていく。

 勝舞市は本来観光地ではなく、巨大な猫が現れたのは何の変哲もない住宅街の真ん中である。オーバーツーリズムは当然問題視され、勝舞市への訪問を自粛するよう求める風潮もある。なるほど確かに人が多すぎる、と叶恵は思った。猫が現れて以来、こちらの道にはあまり足が向かなくなっていた。ニュースの映像で様子は知っていたが、実際に人がたかっているところを見るのは初めてだった。もっとも叶恵は特段迷惑だとも思わない。巨大な猫が現れた時点でこの道は使えないのだから、多少人でごった返したところで関係はない。駅が混み合って閉口すると愚痴をこぼすクラスメイトもいるが、徒歩通学の叶恵には関係ない。巨大な猫が現れてすぐの頃は私有地に無許可で立ち入って撮影するといった迷惑行為もあったが、逮捕者が出てからはめっきり無くなった。

 叶恵ははぐれないように望夢の手を握った。両親の忠告に従って望夢に同行したのは正解だったと思う。仮に猫に何か動きがあって群衆にパニックが起こったら、むしろそちらの方が危険かもしれない。

「あのさ、こんなんだったら、うちの屋根の上から観察した方がよくない?」

 叶恵は言った。群衆の体に阻まれ、巨大な猫を観察するのは容易ではない。

 望夢は双眼鏡を手に猫の方へ向ける。望夢は背負っていたリュックを下ろすと市民図書館から借りてきたらしき大判の本を取り出した。『猫の図鑑』と書かれている。望夢は図鑑をめくり、あるページで手を止めた。

「やっぱりこれだ。間違いない」

 本を顔の前に掲げ、巨大な猫と見比べる。開かれたページを叶恵も覗き込んだ。ふわふわとした毛並みの猫がつぶらな瞳でこちらを見つめている写真だった。左上にはゴシック体の文字で〈ノルウェージャンフォレスト〉と書かれている。

「へえ、ノルウェーの猫なんだ」

 叶恵は呟いた。

「ってことは、あの大きな猫もノルウェーから来たのかね」

「そうだとしたら、海を泳いで来たってことになるよね」

 望夢は言った。

「だったら海からの道がもっと濡れてるんじゃないかな」

「そんな足音も誰も聞いてないしね」

 勝舞市は南の方で海に面している。海水浴も出来ず、珍しい魚が取れるわけでもない、取り立てて特筆すべき部分の無い海である。巨大な猫が眠っている道を南にずっと下っていくと海に達する。巨大な猫は海の中から来たのではないかという説を唱える者も世間には多かった。ここまで巨大な生物が隠れられるとしたら海底くらいしか考えられないというのがその根拠だった。しかし叶恵と望夢が述べたような理由からその説を否定する者も同じくらい多かった。

 叶恵はいつしか食い入るように望夢の持つ図鑑を見ていた。

「あれ、新条さんじゃないか」

「ん、佐竹くん?」

 振り返ると塁が立っている。彼は叶恵と望夢の顔を見比べる。

「弟さん?」

「ああ、うん。弟の望夢」

「はじめまして」と、望夢は一礼する。塁の方も「はじめまして、佐竹です」と自己紹介をした。前に叶恵が塁との会話の中で弟のことを話題にしたことがあったので、塁も望夢の存在だけは知っているはずだった。

「佐竹くんは何してたの?」

「散歩だよ。部活辞めてから運動する気起きなくて……でも最近、流石になまりすぎてるから」

 叶恵は塁のことを見る。以前は引き締まっていた頬は、最近肉付きがよくなってきた。

 塁はショッピングモールまで歩いて行くと言うので叶恵と望夢も付いていくことにした。猫の観察はもういいのかと叶恵が聞くと、「夏休みはまだまだ長い」と望夢は答えた。

「新条姉弟は何をしてたの?」

 道を歩きながら塁は聞いてくる。巨大な猫のいる通りを離れると、人の気配は急速に少なくなった。望夢はずんずん一人で先行し、その少し後ろから叶恵と塁は並んで続く。

「自由研究だよ。弟のね。私は付き添い」

「テーマは?」

「巨大な猫について」

「壮大だ」

「私もそう言った。もっと家の中でできるテーマにすればいいのに。そうすれば私も付いていかなくて済んだ。私だってね、こう見えて忙しいんだよ」

「でも去年よりは忙しくないんじゃない?」

「……まあね」

 叶恵は頷いた。実際、叶恵のスケジュールは去年に比べれば空いている。野球部の応援のために時間を割く必要が無くなったからだ。

 新体制の勝舞高校野球部は、二年連続で甲子園出場を果たすことが当然のように期待されていた。東海林光の投球スピードには更に磨きがかかり、有望な一年生も多く迎えた。OBや保護者、そして生徒たちの期待はある意味で当然だった。しかし現実には、この夏、勝舞高校は県大会の準決勝敗退という結果に終わった。

 理由は明白だった。エースピッチャーである東海林光の故障である。利き手の肘の怪我で思うように豪速球が投げられなくなった光は、変化球を中心に戦術を組み立て直す必要に迫られた。しかしストレートが投げられないことが明るみに出ると打者に攻略されるのも早かった。塚地監督は慌てたように光をベンチに下げると控えの一年生投手をマウンドに上がらせたが、光に比べると見劣りするのは仕方のないことだった。打線も投手を援護しきれず、点差が埋まらないままゲームセットを迎えた。

 学校中が落胆の渦に飲み込まれたが、叶恵にとっては必ずしも悪いニュースではなかった。野球部が敗退したということはその分吹奏楽部が応援に駆り出される日程も減るということだからだ。しかし去年の反省があるので、そのことを公に口に出すことはしなかった。

「残念だったよね」

 と、叶恵は口にする。

「本当にそう思ってる?」

 塁は聞いてきた。

「まあ、少しくらいは。私はともかく、クラスでも期待してる子は多かったしね」

「本当なら、大会に出られるだけで感謝すべきなんだ」

「え……どゆこと?」

 塁の発言の真意が分からず、叶恵は聞き返す。

「いや、何でもない」

 塁はそう答えた。誤魔化されたな、と叶恵は感じるが、そこで無理に聞き出すほどのことではないように思えた。

「どのみち、俺にはもう関係ないしな」

 直接的なきっかけは叶恵には分からないが、少なくとも夏の大会が始まるより先に塁は野球部を辞めている。

 昼間のショッピングモールは閑散としていた。巨大な猫の周りには人が集まる一方で、それ以外の場所の人口密度は低い。

「それで、何しに来たの? 佐竹くん」

 叶恵が尋ねると塁は首を傾げた。

「さあ?」

「さあ、って何さ。自分がモール行くって言ったんでしょ」

「家にいても暇だからな。でも何をしたらいいか分からん」

「分からんってことはなくない? やりたいことやればいいじゃん」

 叶恵は言った。望夢はといえば、入り口近くのガチャガチャコーナーにへばりついて目を輝かせている。〈世界の猫大百科コレクション〉というミニチュアフィギュアのガチャガチャだった。

「子供の頃から野球ばっかしてた。オフの日も野球部の仲間と一緒だった。だから、急に一人になっても何をしたらいいのか」

「なるほどね」

 叶恵は腰に手を当てて望夢のことを目線だけで追いかける。望夢は猫大百科のガチャガチャを回している。カプセルを捻って開けると、中から出てきたのはカナダ原産の猫・スフィンクスだった。

「新条さん、案内してくれないか」

 塁は横から言った。

「え、私?」

「わざわざここまで付いてきたってことは、暇なんだろ」

「ま、暇ではある」叶恵は両腕を組んだ。「よし分かった。私に任せなさい。ここのフードコートのクレープは結構美味いんだよ。とりあえずクレープで乾杯しよう」

 叶恵は望夢と塁を連れてフードコートへ向かった。二階にあるフードコートは広々として見える。天井には雲の浮かぶ青空が描かれ、座席の並ぶフロアの中央にはメリーゴーランドがあった。メリーゴーランドは飾りではなく実際に乗ることも出来る。看板には〈じゅんばんを まもってね〉と平仮名で書かれていた。木馬はゆっくりと上下しながら回転している。子供の頃は叶恵もここに来るたびに木馬に乗せてくれと親にせがんだ。それに望夢も。今は二人ともメリーゴーランドで喜ぶような年齢ではなくなってしまった。

 クレープを三つ買って三人でテーブルを囲んだ。

「凄まじいカロリーを感じるな」

 生クリームを舐めながら塁は言った。

「そういうこと言うかね」

 叶恵は不服そうな表情をした。

「どのみち、俺には関係ないからね」

 塁は大きな口を開けてクレープを次々飲み込んでいく。望夢は対照的にちびちびとクレープを齧っていた。

「私にも関係ないもんね」叶恵は対抗するように大口を開ける。「チューバでカロリー消費してるから」

 イチゴのかけらをクレープの生地ごと口の中に放り込む。果実の酸味とクリームの甘味が溶け合った。

「あー、でもこれで佐竹くんがデブったら私が怒られちゃうな。何と言っても佐竹くんはうちのクラスの希望の星だからね」

「希望の星は言い過ぎだろ」

「佐竹さん、星なんですか?」

 望夢が口を挟んでくる。

「この人ね、リレーのアンカーなの。体育祭のクラス対抗リレーでね」

 叶恵はクレープを飲み込みながら説明した。

 勝舞高校の体育祭は夏休み明けに行われる。練習や準備は夏休みを使って進めるのが例年のスケジュールだ。夏休みに入る前、叶恵は塁をリレーの選手に推薦した。彼の脚力は野球部を辞めてからも衰えていないと知っていたからだ。クラスメイトには当然、大いに驚かれた。なぜならクラスメイトの大半は塁が野球部を辞めたことさえ知らなかったからだ。

 塁はリレーの選手に選ばれ、あっという間にアンカーということになった。体育の授業を介して、男子たちは塁の足の速さを知っていたので、特に異存は出なかったらしい。

「まあ佐竹くんがいればリレーの優勝はもらったも同然だね。ぶっちゃけ佐竹くん、陸部の人たちより足速いでしょ?」

「そういうわけでもない」

 塁は残ったクレープの欠片を口の中に押し込むと、包装紙をくしゃりと丸める。叶恵に一瞬目を合わせると、言う。

「ダイヤモンドの外周の一辺、ベースとベースの間の距離は九十フィート。メートル法で言うと二十七.四三一メートル。今までの人生、その距離を駆け抜けることだけ考えてた。でも、リレーで走る距離はもっと長いだろ」

「百メートルだもんね。四倍くらいか。じゃあランニングホームランのつもりで走れば?」

「ランニングホームランなんて一回もやったことないけどな」

 と、塁は頬杖をついた。

 佐竹塁は足が速い。それは昔も今も変わらない。塁が野球部を辞めたと聞いた時、故障が理由ではないかと叶恵は思った。東海林光の故障の話は噂に聞いていたし、塁にも同じようなことが起こって不思議はないと考えたのだ。しかし相変わらず塁の脚力は衰えないし日常生活にも支障は無いように見える。つまり彼が野球部を辞めた理由はフィジカルには無いということだ。

 ならば、と叶恵は更に考える。身体的な問題でないとすれば、退部の本当の理由はもっと別のところにあるということになる。しかし叶恵はまだその理由について聞き出そうとは思わない。

 叶恵と望夢もクレープを食べ終わり、三人はフードコートを後にした。服屋や雑貨屋や本屋を一通り見て回った。二階には映画館があり、上映中作品のポスターが通路沿いの壁に掲示されていた。恋愛映画やアニメ映画のポスターを横目に見ながら叶恵は言った。

「佐竹くんは映画とかあんまし見ないっしょ?」

「何でそう思う」

「偏見かな、単なる」

「その偏見はハズレだ。俺も最近はよく見てる。ネトフリとかで」累は腕を組んで映画館の看板を見る。「けど、こういう場所で見たのは数えるくらいしかないな。新条さんはよく見に来るのか」

「ここの映画館なら、たまにね。今度案内してあげようか」

「それはいいな。ぜひ頼む」

 叶恵は困惑した。まさか累が頷くとは思っていなかったのだ。

「来週の金曜は?」と、累は聞いてくる。先の予定を聞かれているのだと叶恵が気づくまでには少しの時間を要した。

「空いてる」

 叶恵は答えた。あまり深く考えた末の答えとは言えなかった。


 夏休みの間、叶恵は吹奏楽部の練習のために学校へ通う。重いチューバを担いで向かった先は校舎の屋上だった。風が強く、髪が乱れる。大きな音で楽器を鳴らすのには良い場所だ。隣には湊の姿もあった。

 フェンス越しにグラウンドが見下ろせる。その奥にある野球場まで一望できた。九十フィートの四辺の内外で揃いのユニフォームを着た影がちょこまかと動き回っている。金属バットが白球を打つ音が時折響いた。一度の夏に敗れても彼らはまた次の機会を狙っている。

 トラックの方ではジャージ姿の一団が体育祭で行われる競技の練習をしている。勝舞高校の体育祭は種目が多い。トラック競技もその中の一つだった。

 叶恵が見下ろすグラウンドの端ではリレーの練習をしている集団もあった。遠距離ゆえ彼らの顔はよく見えない。それでも一人だけ判別できる人間がいる。累だ。彼は周囲にいる他の生徒たちよりも背が高いので突き出ているように見えた。それに、遠目からでも彼の顔立ちだけは上手く判別できた。彼が走ると、周囲にいる他の選手たちは歓声を上げた。声は聞こえないが、リアクションだけは叶恵の視点からもよく見えた。何度かバトンパスの練習をして、それに失敗したり、成功したりして、彼らは笑い合う。塁の笑顔を見るのは珍しい気がした。叶恵は彼に気を取られて音を外した。


 夏休みの間、吹奏楽部の活動は午前中から始まる。朝から集まり、全体での合わせは数回。その合間に個人練習を挟み、最後に通しで合奏して終わる。その後で居残って自主練をしている者もいるが、大抵の部員はすぐに帰宅する。勝舞の吹奏楽にそこまで熱心な部員は珍しい。

 練習が終わると湊や他の友人たちと部室の前で別れる。勝舞高校から見て叶恵の自宅は駅とは反対の方角にあり、叶恵と一緒に下校することが出来る部員はとても少ない。だから部活が終わると叶恵は一人で帰るのが常だった。

 校舎を出ると累の姿が見えた。校門の前で腕を組んで塀に背を預けている。

「佐竹くん」叶恵は片手を挙げながら彼に近寄る。「誰か待ってるの?」

「新条さんがそろそろ出てくるんじゃないかと思ってな。待ち伏せしてた」

「あ……私か。なるほど」

「今日は屋上で練習してただろ? 吹部が部活やってる日は音が響くからすぐ分かる」

「ふうん」と興味なさそうに叶恵は言った。「やっぱ結構聞こえてるんだ」

 二人は校門を出て歩き出した。

「新条さんがやってるアレ──チューバだっけ? アレの音はデカいから、特によく分かる」

「肺活量には自信があるからね。チューバは音が大きければ大きいほどいいんだよ」

「本当か?」

「多分ホント」

 叶恵は笑いながら頷いた。それから、ふう、と息をついて塁を見上げる。

「それにしても佐竹くん、最近馴染んできたよね」

「馴染んできた?」

「クラスに」

「ああ、クラスに」塁は頷く。「じゃあ前は浮いてたのか? 俺」と自分の顔を指差した。

「孤高の存在だったんだよ。良い方の言い方をすればね」

「良い言い方にもなってないと思うけど。まあでも、自分たちがどういう見られ方をしてたのかは分かるよ。何となくだけどな」

「私の言った通りだったでしょ?」

「新条さんの?」

「体育祭は出た方がいいってアドバイスしてあげたじゃない」

「確かに……リレーってきっかけが無かったら、一生クラスで浮いたままだったかもしれないな」

 塁が言うのと同時に、北の方から生ぬるい風が吹いた。その風に乗って獣の匂いが漂い、ゴロゴロと音も聞こえる。前方を見やれば、巨大な猫の尻尾が民家の屋根の奥に揺れていた。


 金曜日のショッピングモールは、以前望夢を連れて行った時に比べれば幾分か混んでいるようだった。それでもまだ閑散とした印象は拭えず、時折聞こえてくる子供のはしゃぎ回る声が却って空々しい雰囲気を与えていた。叶恵は塁と二人、そんなモールの中をゆっくりとした足取りで歩いている。

 前回同じ場所でした口約束のことを、最初叶恵は本気だと捉えていなかった。家に帰ってから何度か塁とメッセージのやり取りを交わし、そこで初めて本当の約束なのだと気付かされた。つまり、叶恵は塁と一緒に映画を見に行くことになった。

 一階の駐車場付近には広場があり、そこに併設されたステージでは定期的にご当地アイドルのライブやヒーローショーなどが催されている。しかしその日そこにいたのは勝舞市の公式ゆるキャラである〈かつ武士くん〉だった。頭がカツオで首から下は袴を着た武士という単純明快なデザインのこのキャラクターは日本全国の自治体が空前のゆるキャラブームに湧いていた頃そのブームに便乗する形で生み出されたが、評判はあまり良いとは言えなかった。第一に勝舞市は海に面してこそいるがカツオは取れない。第二に勝舞市は有名な武将を排出したわけではない。〈かつ武士くん〉は完全に市の名前に対するパロディでしかなく、実際の勝舞市の文化や伝統を一切反映していないというのが否定派の論調だった。歴史や文化といった小難しい話を持ち出すまでもなく、かつ武士くんは明確に人気が無かった。というのも、そのデザインがあまりにも単純すぎるために、はっきり言って没個性であり、くまモンやせんとくんが持つような独自性のある魅力に欠けていたからだった。

 かつ武士くんの着ぐるみがステージの上で踊っていたが、見向きする者は少なく、客席はむしろ空席の方が目立っていた。その光景は叶恵たちを更に虚しくさせた。

「なんかもうさ、今からでも猫のゆるキャラ作った方がいいんじゃないかな」

 叶恵は呟いた。

「確かに。世間ではもう勝舞市は猫の町だと思われてる」

「実際、前から猫は多かったからね」

 いずれにしても、叶恵も塁も、かつ武士くんのステージに興味は無かった。二人は足早にその場を離れ、二階にある映画館へと向かった。

 入り口の上にある電光掲示板に映画の上映スケジュールが表示されている。叶恵も塁も映画について趣味と言えるほどの趣味はなく、どんな映画でもよかった──よほど趣味の悪いものでない限り。ちょうど十分後に上映が始まる作品があり、二人はその映画のチケットを買った。少女漫画を原作とする恋愛映画だった。

 しかし実際のところそれは単なる恋愛映画ではなかった。主人公の少女が恋した男性に対する感情をエスカレートさせていき、中盤以降はストーカーまがいの行為が繰り返される。人間心理の光と闇の恐怖がメインテーマとなる作品ではあるが、予告編やポスターはそれを巧妙に隠蔽し、まるで高校生同士の恋愛を主軸とした正統派の作品であるかのように見せかけていた。叶恵も塁も原作を読んでいなかったので、その事実を知らなかった。

 劇場を出た叶恵がいの一番に呟いたのは、「なんか……変な映画だったね」だった。

「ああ。見てるだけで疲れる映画だった」

「つまんないわけじゃなかったけどね」

 慣れないジャンルの映画を見て精神的に疲労した叶恵と塁は、自然とモールの中にあるファミレスの中へと吸い込まれていった。ちょうど昼食にもちょうどいい時間帯だった。

 店の奥の方へと進んでいく。その途中で、見知った制服の一団とすれ違う。数人いる男子高校生たちは、全員がよく日焼けした肌に、丸刈りの頭をしていた。よく見るとその顔にも見覚えがあると叶恵は気づいた。野球部の二年生たちだ。その中には東海林光の姿もあった。

「あ……」

 彼らは退店するところらしかった。叶恵は何か声をかけるべきかとも思ったが、発した声は意味のある言葉にはならなかった。その代わり、叶恵は背後にいる塁の様子を伺う。しかし塁は何も言わず、向こうもまた無言のまま、白けたような視線を一瞬だけ塁に向け、そのまま去って行った。

 その様子を一瞬見ただけでも、塁と彼の古巣の関係性が良好ではないことは明らかだった。前から薄々勘付いていたことではあるが、塁は決して円満に退部したわけではないのかもしれない。その確信を半ば得つつも、叶恵は詳しい事情を聞くことを躊躇った。

 だが、長く躊躇っている必要は無かった。着席してしばらくすると、塁は自分から話を切り出してくれた。

「新条さんって、知ってるんだっけ。俺が野球部を辞めた理由」

「いや──」

 叶恵は首を振った。手の中にあるコップには、ドリンクバーのメロンソーダがなみなみと注がれている。

「聞いてないと思う」

「まあ大した理由じゃないし、面白い話でもないんだけどな。春の大会が終わったくらいだったか。一部の部員が酒を飲んでるかもしれないってことが分かったんだ」

「かもしれないって、何だか曖昧な言い方だけど」

「実際、曖昧だったんだよ。缶チューハイの空き缶が部室の裏で見つかったんだ。野球部の部室は他の部室とは離れてるから、野球部の誰かが処分しようとして落としたと考えるのが自然だが、直接飲むところを見られたわけじゃない。二年の部員には素行の良くない奴らもいてな。そいつらが練習後、夜な夜なこっそり部室に集まってることはみんな知ってた。だからきっとそいつらだと思った」

「部室で飲むなんて不用心じゃない?」

「部員以外は入らない場所だからな。夜の学校は人も少ない。誰かの家に集まって親に見つかるリスクを取るより安全って考え方もある」

「なるほどね」

「空き缶を見つけたのは俺だった」塁は言った。「俺は空き缶をこっそりゴミ箱に入れておいたが……結局、他のヤツに見つかったらしい」

「でも公にはならなかったんだよね? 私、そんな話聞いてないもん」

「状況証拠だけで、直接証拠は無かったからな。それに、野球部が活動停止になったら学校側も困るだろ。夜の部室に入り浸ってたメンバーには、光もいたって噂だし。だから詳しく調べたりはしなかったんだと思う」

「ならよかったんじゃないの? 無事に県大会も出られたみたいだし」

「まあ、問題自体はそれで解決したんだけどさ。部の中で噂になっちゃったんだよね」

「噂?」叶恵は首を傾げる。「もしかして、佐竹くんがお酒を飲んでたんじゃないかって?」

「いや、逆だ。俺が飲酒の件を言いふらそうとしたんじゃないかって」

「そんなの、事実と正反対じゃん」

「そうなんだけどな。まあ、噂ってそういうもんだろ?」

「そうかもしれないけど……」

 もちろん社会通念の上では事実を追求する方が正しいのだろうが、未成年飲酒が事実なら野球部全体が一年を棒に振る。そうなった場合、怒りの矛先は密告者に向かうのかもしれない。真の原因を作った人間ではなく。

「それがきっかけで部にいづらくなって辞めた」

 塁はそう話を締め括った。塁はコーヒーを一口啜り、料理を食べ始める。

「それは……辛そうだね」

 叶恵は声をかけた。しかし塁は首を横に振りながら答えた。

「いや、そうでもないよ。元から限界だって思ってたんだ。子供の頃から野球が好きで、野球ばかりやってた。でも俺は肩も強くないし、ホームランだって打てない。人より少し足が速いだけだ。元々甲子園に出られるとは思ってなかったし、プロになるつもりもなかった。だからちょうどいい機会だったんだよ。そもそも、本当に野球を続けたいなら、何が何でも続けてるはずだろ? 部の中の立場がどうこうとか気にせずに。でも俺はそうしなかった。だから……つまり、そこまでだったってことだよ。前に話したことあったよね。自分の名前が好きじゃないって」

「うん。塁って呼ばないでほしいって話でしょ」

「俺の名前は野球のベースに由来してる。俺の父親も甲子園に出場した高校球児だった。母親は同じ野球部のマネージャーだった。でも、だからって子供に塁なんて名前つけるのはおかしいだろ。野球の才能なんて子供に遺伝するか分からないのに」

「プレッシャーの象徴だってってわけね。佐竹くんの両親がつけた名前が」

「ああ。だから解放されたような気分もある」

「でも好きだったんでしょ?」

 叶恵の問いに塁は答えない。

「……まあいいや。私がどうこう言うことじゃないし。ねえ、今度のリレーさ、勝てるといいね」

「……話、変えたな」

「変わってないよ。さっき佐竹くん、言ってたでしょ。自分はちょっと足が速いだけだって。確かに野球は足が速いだけじゃなくて、パワーとかコントロールとか、色々必要なのかもしれないけど。でもリレーだったらさ、足が速いやつが一番偉いんじゃん。だからさ、優勝して証明してみせてよ。佐竹くんが凄いってところ。今の話聞いてたら、私もなんか応援したくなってきた」

「ちょっと待て。前は応援しようと思ってなかったのか?」

「正直、体育祭で勝とうが負けようがどうでもいいし……」メロンソーダを口に含み、叶恵は何かを思考する。プラ製のストローの先端が無意識のうちに噛み潰された。「でも、そうね。どうでもよくたって勝負だもんね。勝った方がいいに決まってるよ」


 体育祭当日は晴天だった。叶恵は朝起きてテレビをつけて天気予報を見る。午後まで快晴が続くと叶恵は知った。日焼け止めを大量に塗りたくる必要があると感じた。

 天気予報が終わるとニュースは巨大な猫の情報に切り替わる。いつからか朝の情報番組では、巨大な猫の状態を毎朝伝えるのがお決まりのようになった。遠方のマンションの屋上に取り付けられた定点カメラから撮影された猫の中継映像が画面に映し出され、専門家がいくつかのコメントを付ける。ネコ科の動物を専門に研究しているというその生物学者は、巨大な猫が出現してからメディアに引っ張りだこにされ、今や情報番組の準レギュラーのように振る舞っている。カメラは眠り続ける巨大な猫を映し出す。ここ数日、巨大な猫の尻尾はよく揺れていた。それだけではなく、全身の毛がわずかに逆立っていた。それはこれまで見られなかった傾向だった。しかし、その傾向が何を示すのか、そのことについては、専門家もキャスターも何ら意見を持たなかった。叶恵はピートに挨拶して家を出た。

 巨大な猫の様子とはまるで無関係に体育祭は進んだ。開会式では吹奏楽部の出番もあり、叶恵はチューバを吹き鳴らした。大勢の人間が聴いている前で音を出すのは心地よかった。

 体育祭の日程は滞りなく進められ、叶恵もいくつかの競技に出場した。肺活量が衰えたことはないが、筋力は中学の頃に比べればいくらか衰えていた。叶恵は満足のいく結果を残せたとは言えなかったが、叶恵は特に気にしなかった。

 昼休憩の時間、叶恵は湊と一緒に弁当を食べた。湊は食べるのが早く、いつも叶恵が食べ終わるのを待つことになる。そんな彼女はスマホの画面を叶恵に見せてきた。

「ねえこれ。例の猫、耳が動いてるんだって」

「耳が?」

 湊が見せてきたのはツイッターにアップされている短い動画だった。遠方から巨大な猫の頭部をアップで映した動画だが、確かにその耳はピクピクと動いている。

「ほんとだ」

「もしかして、もうすぐ起きるのかな。あの猫」

 湊は言った。しかし、もし猫が起きた時、何が起こるのかは誰にも分からない。せめて体育祭が終わるまでは眠っていてほしいと叶恵は願った。

 体育祭には新条家の家族たちも訪れていた。昼休みの間、叶恵は家族たちに会いに行った。

「来ると思ってなかったよ、望夢。見てた? お姉ちゃんの活躍を」

 弟は両親に連れられて来たらしい。てっきり留守番していると思ったから叶恵は驚いた。

「佐竹さんは?」

 望夢は質問に質問を返してくる。

「えっ、佐竹くん?」

「あー、前に言ってた野球部の子だっけ」

 母が聞いてくる。いつだったか、夕食の席で塁のことを話題に出したことがあった。

「今はもう違うけどね」叶恵は答えた。「佐竹くんならクラスの方にいると思うけど。呼んでこよっか?」

「いや、大丈夫。その代わり今度家に呼んできてよ」

 望夢がそんなに塁のことを気に入っているとは予想外だった。夏休みのあの日、一度会っただけなのに。それとも、姉のことを揶揄っているだけという可能性もあった。叶恵は余裕のあるところを見せてやろうと、「そうだね、ディナーにでも招待するよ」と言ってのけた。

「お母さんたちは、この後どうするの?」

 と、叶恵は尋ねる。

「午後には帰るよ。ピートも家で一人だし。打ち上げとかあるの?」

「いや、明日の片付け終わってからだから、今日は何もなし」

「じゃあ、夕飯叶恵の分も準備しておくから」

「うん」

 叶恵はそう言って家族と別れた。昼休憩の時間は終わり、午後の競技が始まった。


 リレー競技が始まったのは十五時ごろだった。第一走者がスタート位置に並ぶ。トラックの周囲を取り囲むように並ぶ観客たち。その中に叶恵もいた。クラスメイトたちは歓声のような応援を送っていたが、叶恵は声を出さず、目線だけを動かしていた。第二以降の走者たちはトラックの内側に整列している。その最後尾に塁の姿もあった。叶恵は彼と一瞬だけ目が合ったような気がした。

 後ろの方にいるクラスメイトたちの話し声が耳に入ってくる。

「あの猫、起きたらしい」

「マジか。平気なのか?」

「さあ……」

「今のところ交差点から動いてはないんだろ」

「でも動き出したらヤバいだろ」

「避難命令とか出んのかな」

「近寄らなきゃ大丈夫じゃないか」

 本部のテントがざわついている。実行委員の生徒たちや教員たちが慌ただしく動いている。しかしその時には既に号砲が鳴っていた。選手たちは一斉に走り出した。

 風が吹き、土煙が舞っても選手たちは止まらなかった。走者たちの脚力は平均すると横並びで、バトンが受け渡されるたびに先頭は入れ替わり、どのチームが勝ってもおかしくはなかった。

 そしてついにバトンはアンカーの手へと渡った。塁もまた、前の走者からのバトンをしっかりと受け止めた。そして前を向き、走り出そうとする。その時だった。


 うにゃあああああぁぁぁぁぁ!!!!!


 大地を揺らすような鳴き声が空に轟いた。いや、実際に大地は揺れていた。一瞬のうちに歓声は鳴り止み、選手たちは立ち止まり、スピーカーからのBGMだけが空気を読まずに流れ続けていた。鳴き声のした方角は、巨大な猫のいる交差点の方だった。見ると、民家の屋根の向こうに巨大な猫の頭が見えた。これまでは寝ていたのが、今は起きている。それで頭の位置が高くなったのだ。巨大な猫は天に向かって吠えるように鳴いていた。

 上空すれすれを飛行機が通過したような巨大な鳴き声だった。その巨大な鳴き声に混じって、四方八方から猫の声が聞こえることに叶恵は気づいた。ニャーオとか、ンナーゴとか、種々の鳴き声が入り混じっている。

「町中の猫が鳴いてるの……?」

 誰かが呟いた。学校の周りから聞こえてくるこの大合唱は、そうでなければ説明が付かないほどだった。

「動いてる!」

 また別の誰かが言った。彼は巨大な猫の頭部を指さしていた。巨大な猫はゆっくりとした足取りで歩き出していた。

 必然的にリレーは中断されていた。アンカーたちはバトンパスエリアより数歩進んだ位置で立ち尽くしている。誰もがリレーのことを、体育祭のことを瑣末事だと考えた。それよりもっと差し迫った問題に気を取られていた。それは現にトラックの上に立つ彼らも同様だった。

 けれど、一人だけ、そうは思っていない人間がいた。

 叶恵は歩き出した巨大な猫を無視し、トラックの方へ目を向けた。両手でメガホンを作って、ありったけの空気を肺に吸い込み、そして叫んだ。


「走れーっ!!!!!! 塁ーっ!!!!!!」


 その声は巨大な猫や、町中の猫たちの鳴き声に負けず劣らず響き、静まり返っていたはずのグラウンドの空気を震わせた。

 その声に弾かれたように、アンカーたちはほとんど同時に走り始めた。もちろん、その中には塁も入っていた。まるで熱に浮かされたようだった。塁の足は大地を蹴り、みるみるうちに加速していった。多くの生徒や保護者たちはまだ巨大な猫の方に注目していたが、叶恵は気にせず声を張り上げた。

 最終コーナーを曲がる頃には、その差は歴然となっていた。塁は他の選手を置き去りにし、独走で最後の直線に入った。

 白いゴールテープをひらめかせながら、塁はゆっくりと速度を落としていく。実況係の放送部員が思い出したように一着のチーム名を呼んだ。叶恵は思わず拳を握りしめた。

 塁は息を整えている。彼は観客の方を向いて、叶恵とはっきり目を合わせた。叶恵は彼の笑顔を見た。叶恵も精一杯の笑顔を返し、飛び跳ねながら頭の上で手を振った。

 その時、ジャージのポケットに入れていた叶恵のスマホが震えた。誰かがスマホでニュースの映像を再生しているらしく、みんなして一人のスマホを覗き込んでいる。叶恵はその中には加わらなかったが、ニュースの音声だけは聞こえてきた。風音が混じっている。上空のヘリコプターからの中継映像らしかった。叶恵は夢中で気づいていなかったが、いつの間にか猫の鳴き声の合唱は遠ざかり、代わりにヘリコプターの羽の音がけたたましく響いている。

『勝舞市上空から中継です。今日三時ごろに起き上がった巨大な猫は、現在も南方へ向けて移動しています。その動き方は非常にゆっくりとしていますが、非常に危険です。現場付近の皆さん、決して巨大な猫に近づかないようにしてください。えー、巨大な猫の後ろには、数多くの普通の猫が列を作るように続いています。百匹以上はいるでしょうか。正確な数は数えきれないほどです。見えますでしょうか。猫が通った後の道路では、塀の一部や電柱などが破壊されてしまっています。道路標識が巨大な猫に折られて地面に落ちています。えー、中継をご覧の皆さんに重ねてお伝えします。巨大な猫の付近は非常に危険です。巻き込まれると命を落とす恐れもあります。絶対に巨大な猫には近寄らないでください』

 その中継の声を聞きながら、叶恵はスマホを見る。望夢からだった。「ピートが逃げた」とだけ書かれている。叶恵は望夢に電話をかけた。数回コールすると、望夢は電話に出た。

「もしもし、望夢? ピートが逃げたってどういうこと?」

「巨大な猫に付いていっちゃったんだよ」望夢は答えた。「ほら、あの猫が鳴いてたでしょ? それに答えるみたいに、ピートも鳴き始めて。それからしばらくしたら、開いてた窓から飛び出していっちゃったんだよ」

「まさか。あの怖がりのピートが自分から外に出るなんて」

「きっとあの巨大な猫に呼ばれたんだと思う。他の家の猫とか、野良猫も、みんな巨大な猫の行列に加わってるみたいだから。友達の家の猫は、ちゃんと戸締りしてたから外には出なかったけど、ずっと窓に張り付いて鳴いてるって」

「それで、ピートはどうしてるの?」

「多分、あの行列のどこかにいる。猫の数が多すぎて分からないんだよ。お父さんやお母さんも、危ないから一度待機してた方がいいって言うし」

「分かった。ピートは私が連れ戻す」

 叶恵はそう言って電話を切ると、観客の間を抜けてグラウンドを後にし、正門の方へ走り出した。周りはニュースの映像を見るのに夢中で、叶恵が抜け出したことには気づかなかった。

 学校の敷地を出ると、叶恵は額のハチマキを外した。邪魔だったからだ。手首に巻きつけ、巨大な猫の尻尾を睨む。ふわふわの毛が生えた柔らかそうな尻尾は、しなやかに揺れながら南の方へ遠ざかっている。

「新条さん!」

 後ろから声が聞こえて叶恵は振り返る。塁の姿があった。抜け出す叶恵の姿を見て追いかけてきたらしい。

「どこに行くつもり?」

「私の家の猫が、あの巨大な猫に連れてかれそうなんだ。だから探しに行く」

「今、巨大な猫に近づくのは危ない」

「でも、行かないと。ピートは私が連れ戻すって、弟にも約束したしね」

「じゃあ俺も一緒に行く。いいよな?」

 叶恵は頷く。「急ごう。猫は海の方へ向かってる。佐竹くん、もうひとっ走りできるよね?」

「余裕だよ」

 二人は走り出した。

 前を走る塁へ、叶恵は必死で付いていく。巨大な猫の姿は遠いが、動きは遅く、距離は徐々に縮まっているように見えた。町の人々は避難しているのか、外出を控えているのか、人とすれ違うことはほとんどなかった。猫が通る道は警察が封鎖しており、叶恵たちは一本外れた道を走る必要があった。

「そうだ、佐竹くんっ!」

 走り続けながら、叶恵は呼びかける。「なに?」と振り返らないまま塁は答える。

「さっき、ごめん! 塁って呼んじゃって! 呼びやすかったから、咄嗟に!」

「別に気にしてない!」塁の声は向かい風に乗って叶恵の鼓膜に届く。「なんか分かんないけど、嫌じゃなかった!」

「あと、おめでとう! リレー! 優勝!」

「ありがとう!」

 走りながら会話したせいで、途切れ途切れの叫ぶような口調になったし、ますます息が切れた。それでも二人は走り続けた。

 やがて叶恵たちは猫の列の最後尾に追いついた。路地の隙間から大量の猫が見える。叶恵たちは走る速度を落としてその様子を観察した。叶恵たちの足元を一匹の猫がすり抜けていく。猫は列に加わった。

「どんどん増えてる……」

「新条さんちの猫の特徴は?」

「これ」

 叶恵はスマホの画面を見せた。ロック画面がピートの写真になっている。艶やかな毛並みの黒猫だった。星型のペンダントが付いた首輪を着けられている。

「この量じゃ簡単には見つからなそうだな」

 塁は言った。二人は巨大な猫を追い、再び猫の列と並走し始めた。

 やがて前方の視界が開け、海岸にたどり着いた。通行止めになった車道を超えて、巨大な猫は砂浜の方へと向かっている。猫たちは巨大な猫に続いて道路を横断していった。警察の規制も追いつかないらしく、多くの野次馬が海に集まっている。叶恵と塁もその中に紛れ込んだ。

 巨大な猫が巨大な肉球で一歩を踏み出すたび、砂浜が深く沈み込む。迷うことなく巨大な猫は波打ち際へ近づいていく。

「あれじゃまるでタビネズミだよ」叶恵は言った。「早くピートを見つけないと」

 叶恵と塁は二手に分かれ、ピートの名前を呼びながら砂浜の上を歩いた。

 やがて巨大な猫の前足が海の水に触れる。寄せては返す波が、巨大な猫の長毛を濡らしていく。しかし、その後ろに続く猫たちは、海には入らなかった。猫たちは海に着くと、海岸線に沿うようにして広がり始める。それはまるで巨大な猫を送り出すセレモニーのようだった。整然と並ぶ猫たちの姿は、さながら訓練された近衛兵団のようにさえ見える。左手の方へと、真っ赤な夕陽が沈みゆく。白猫や三毛猫、ブチ模様やシマ模様、ありとあらゆる猫の毛並みが、軒並みオレンジに染められる。その光景は荘厳ですらあり、人間たちは猫に近寄ることさえ出来ないでいた。

 並び立つ猫たちの中に、叶恵は見慣れた後ろ姿を見つけた。

「あっ、ピート!」

 叶恵が呼びかけると、ピートは「にゃあお」と鳴いて振り返った。そのままピートは砂浜をのそのそ歩いて、叶恵の方へ向かってくる。叶恵は屈み込み、両手を広げてピートを迎えた。ピートは叶恵の腕の中に抱かれた。

「もう、心配したんだよピート」

 叶恵はピートの頭をそっと撫でる。ピートは大人しくにゃあと鳴いて、しかしそれでも目線だけはしっかりと巨大な猫を追っていた。いや、ピートだけではない。その場にいるありとあらゆる猫が、巨大な猫に目を向けている。

 いつの間にか海岸線は猫で埋め尽くされ、端が見えないほどだった。巨大な猫は少しずつ海に入っていく。しかしその姿は悲壮ではなく、むしろ勇壮だった。あの巨大な猫は海の中でも生きていけるのだと、不思議な確信が叶恵にはあった。きっとそれは、その場にいた者、中継を見ていた者、あらゆる人間が共有している確信でもあった。あるべき場所に還る時が来たのだと思った。非日常的な日常の終焉が予感された。

「新条さん、良かった。見つかったんだな」

 砂浜の上を塁が駆けてくる。

「うん、おかげさまでね。塁もありがとう。一緒に探してくれて」

 塁は沈みゆく夕陽と、巨大な猫に目を向けた。叶恵も同じように目線を動かし、夕陽の眩しさに目を細めた。

「あの巨大な猫って、猫の王様だったんじゃないかな」

 叶恵は言った。

「でも結局あいつ、寝てるだけだったぞ」

 塁は反論する。叶恵は首を横に振った。

「そこにいるだけで良かったんだよ」

 巨大な猫はついに首まで海水に浸かっている。猫たちは一斉に口を開き、にゃーおと長く鳴いた。一糸乱れずその鳴き声は揃っていた。ピートも叶恵の腕の中で鳴いた。

「みんなあの巨大な猫を見送りに来たんだな」

 塁は呟いた。

「さよなら」

 叶恵は言った。その声は小さく、猫たちの合唱にかき消される。叶恵はもう一度、今度は息を吸い込み、声を張り上げた。

「さよならーっ!」

 片手でピートを抱えたまま、もう片方の手を頭上に上げて、ブンブンと振った。

「また来てね!」

 巨大な猫は、もちろん叶恵の呼びかけには答えなかった。額まで海に沈んでいき、それからピンと立った耳も海面の下に消えた。それでもしばらくは、ふわふわの巨大な尻尾が海面に浮かんでいたが、やがてそれも見えなくなった。まるで巨大な猫がいた日々なんて無かったみたいだった。夕陽は水平線の向こうにとっぷり沈み、月と星が海を照らした。海岸に並ぶ猫たちは、敬礼でもするかのように、ずっと海の向こうを見つめていた。そのうち海面は徐々に凪いでいき、そして猫たちはそれぞれの家に、あるいはいるべき場所に戻っていった。


(おわり)

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巨大な猫について 佐々奈オルトス @scarlet0508

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