輪郭のない君を描くということ ー存在のグラデーションについてー

ふわふわ拳

輪郭のない君を描くということ

 放課後の美術室は、しん、と静まり返っていた。


 ドアを閉めると、外の喧騒がガラスの向こうへと消えていく。

 代わりに、油絵具の匂いと古い石膏像の視線が、私を歓迎する。


 新品のカーテンが、風も受けずにふわりと膨らんだ。

 その揺らぎは、彼女の髪がなびくのと呼吸を合わせている。

 ほこりっぽい空気が、夕方の光を抱えて漂う。


 彼女は、私に背を向けて座っている。

 いつもと同じくこちらを見ない。

 それでも、私は毎日、彼女を描いている。


 そっと線を置く。

 ひとつ、またひとつ。


 今日の彼女は、淡く、光に透けている。

 炎天下の砂浜のような白さで、でもどこか、午後の影が顔を出している。


 昨日の彼女は、桜の花のような薄いピンクだった。

 その前は、夜明け前の暗い青。


 藤棚の紫、曇天の灰、折り紙の金。

 毎日、彼女は変わる。

 それなのに、どれも彼女だった。


 線に悩んでいると、彼女がぽつりと声をこぼした。


「ねぇ、わたし、まだここに、いるかしら」


 私は筆を止めた。

 彼女の声は、小さな雫の波紋みたいに、私に染みていく。


「わたし、消えていくような感じがするの」


 その背中は細く、頼りない。

 けれど、それが彼女の在り方に思える。

 曖昧であるという確かさだと。


「君のこと、ちゃんと見えてるよ」


 私はそう言いながら、なにも描けずにいた。

 どれだけ筆を重ねてもどこか違う。

 髪も、肌の温度も、影の黒さも──どれも彼女に届かない。


 けれど、似ていなくても、それは彼女を描いている。

 それだけは、私の中で確かなこと。


 春の陽のような彼女も、夕立の冷たさを抱えている彼女も。

 季節より激しく移ろうけれど、確かにここにいる。

 私の瞳は、彼女を捉えている。


 だから、正しく描けなくても焦りはなかった。

 むしろ、描けないことが、たまらなく嬉しかった。


 いつもどこか遠くにいて、理解できない。

 そんな彼女が、その在り方こそが、私には何者よりも美しく思えた。


 もしも彼女に触れてしまったら──本当を知ってしまたら。

 彼女はきっと、一つのなにかになってしまう。

 曖昧な美を、失くしてしまう。


「……ごめんね。やっぱり、今日の君も、うまく描けないや」


 私が呟くと、彼女は肩を持ち上げてふふっと笑った。

 その声は、空の高いところに差す陽光に似ていた。

 ──また、色が変わった。


「いいよ。それで」


 夕暮れが、私たちの時間を染めていく。

 白い壁が赤に照り、影が伸び、すべてが均質に染まっていく。


 その中で彼女だけが、彼女の色をまとい、そこにいる。


 輪郭が淡くなる。

 繊細な髪が、世界へ溶けだそうとする。

 それでも確かにそこにいる。


「ねぇ、もしわたしが消えたら、あなたはどうするのかしら」


 私は、小さく笑った。


「困るよ。困るけど、たぶん、君を描き続けるよ」


 彼女の背中が、わずかに揺れる。

 いつもより、大きく笑ったように見えた。


「いなくなった人間の絵を?」


「うん。いなくなっても、いる気がするんだ」


「ふふ。変なの」


 それは私の願望でしかない。

 けれど、心の底に確かにある、確信でもある。


「君はいつも、会うたびに変わる。初めての日から、今日までずっと」


「そうね。わたしも、人間だから」


 その声は、ただ静かだった。


「最後のわたしは、どんなわたしかしら」


 わからない。

 でも、きっと──。


「最後の君は、きっと、この世で一番キレイだ」


「ふふ。そうだと嬉しい」


 彼女の輪郭が、細かい光の粒になった。

 少しずつ、世界に溶けていく。


 筆を持ち直す。

 新しいページに、線を描く。


 揺らいで、乱れて、形にならない。

 でも、それは確かに彼女である。

 それを描くのが、私である。


「たとえ、君がいなくなっても」


 言葉が勝手に飛び出した。


「私は君を、描き続ける。だって──」


 そのとき、彼女が振り向いた。

 はじめて、その顔を見た。

 ようやく、視線が重なった。


「だって……なに?」


 私は、私という人間は。

 彼女がいない世界で、なにをするんだ。


 本当に、彼女を想い続けていられるのか。


「だって、私は……」


 言葉が出ない。

 自分の心が、在り方が、わからない。


 ずっと不変だと思っていた。

 私は私を、完成した気でいた。


 そのことに気づいた。


「あなたの絵、見せて」


 そう言うと彼女は、私のスケッチブックを取り上げた。


 一枚、一枚。

 いろんな彼女が、最初の日からめくられていく。


 描きかけの今日へ向かうたびに、それを見ている今の彼女が、姿を失くしていく。


「ふふふ」


 指が止まって、彼女は優しく笑った。


 そして私に近づき、顔を寄せた。


 彼女が──光の粒が、私を包み、揺れている。


 風が私のスカートを撫でた。


 耳元に、彼女の温度を感じた。


「あなた、わたしのこと好きすぎ」


 その言葉が、私の心臓を撫でた。


 ついに彼女は消え果た。


 床に落ちたスケッチブックには、いくつもの未完成の彼女がいる。

 でも、今の私なら、完成に近づける。


 だって私は、君のことが大好きだから。







 ※※※※※※※※※※※※※※※

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


 現在、魔法・異世界ファンタジー百合を執筆中です。

 現地主人公ものです。

 今お読みいただいたものより簡単な表現で、しかし百合的な旨味を損なわない程度に、書き進めております。


 異世界百合がお好きな方には刺さる内容になると思います。

 プロフィールページなどから是非ご覧ください。


 また、この作品について

 ・おもしろかった

 ・こんなところが好き

 など感想・評価がございましたら、どんな形でも構いませんので、いただけると嬉しいです。



 ここまでご覧いただき、本当にありがとうございました。

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