エピローグ(1) 解読されるべき古文書の午後

 その日の午後、王立勇者育成学院の図書室は静寂に満たされていた。

 窓から差し込む光の帯だけが、空気中に舞う微細な埃を、金色の粒子のようにきらめかせている。

 リゼット・フォン・アルベインは、アルベイン家に伝わる、解読不能とされてきた戦術論に関する古文書の写しを前に、眉間に深い皺を刻んでいた。 

 それは、彼女の知性とプライドに対する、静かな、だが執拗な挑戦状だった。

 そして、今はもういない兄、アレクシスへの挑戦でもあった。

 怠惰な天才だった兄もまた、この古文書に目を通し、「面倒だ」と放り投げた過去がある。

 兄が解かなかった謎を解き明かすこと。

 それが、兄を超えたいと願う彼女にとっての、一つの儀式だった。

 何より、この戦術論を理解することができたなら、好敵手であり、大切な友人であるアリアと共に、もっと先へ、もっと高みへと進めるはずだった。

 あの日、自分の未熟さゆえに危険に晒してしまった友を守る、確かな力が欲しかった。


「……この、古代魔導文字の派生と思われる箇所。既存のどの文法体系にも合致しない。まるで、意図的に可読性を下げているかのようですわ」


 独り言ともつかない呟きが、埃っぽい空気に溶ける。

 指先で、羊皮紙のざらついた表面をなぞる。

 ここ数日、彼女はこの一枚の紙片に、有り余る知的好奇心と、負けず嫌いという名の力のすべてを投入していた。

 だが、突破口は見えない。

 まるで、霧の立ち込める迷宮を彷徨っているような、不快な閉塞感。


 その時、ふと、背後に人の気配を感じた。

 振り返るまでもない。この学院で、リゼットの背後を、これほど音もなく、まるで影のように取れる人間は一人しかいない。


「――ユリウス先生。何か、ご忠告でも?」

 リゼットは、声にいつもの刺を含ませながら、しかし視線は古文書から外さずに言った。


 ユリウスは、何も答えなかった。

 ただ、リゼットの肩越しに、その古代文字の羅列を、まるで風景でも眺めるかのように、温度のない瞳で見下ろしている。

 彼にとって、この古文書が持つ歴史的価値や戦術的な意味合いは、さほど重要ではなかった。

 ただ目の前にある、複雑で美しい、解かれるべき謎。

 その知的な遊戯への誘いが、彼の心を静かに満たしていた。

 解読は、目的を達成するための手段ではなく、それ自体が純粋な目的だった。

 数秒の、値踏みするような沈黙。それが、リゼットの神経を逆撫でする。


「……これは、単なる文字の並びではない」


 やがて、ユリウスが、静かに、だが断定的に言った。

 その声は、古書庫の静寂に、何の違和感もなく溶け込んでいる。


「一種の、幾重にも仕掛けられた暗号だ。文字そのものの意味と、文字の配置、さらには、羊皮紙に残された僅かな魔力の痕跡。それらが、複雑な法則で連動している」


 リゼットは、思わず顔を上げた。

 彼の言葉は、まるで濃霧の中から、突如として現れた灯台の光のように、的確だった。

 彼女が漠然と感じていた違和感の正体を、ユリウスは一瞬で見抜いていた。


 ユリウスは、リゼットの反応を意に介さず、彼女の隣にこともなげに膝をつくと、指先で、古文書のある一点を、軽く示した。


「この文字列の揺らぎ。これは、星々の配置における、魔力の流れの変化を示唆している。おそらく、この文書が作成された時代に観測可能だった、特定の彗星の軌道と同期しているはずだ。その周期を鍵として、法則を再構築する必要がある」


 彼の言葉は、まるで古い機械の錆び付いた歯車が、一つ、また一つと噛み合っていくように、リゼットの頭の中で、混乱していた情報を整理していく。

 星の配置。

 魔力の流れの変化。

 彗星の軌道。

 それは、通常の文献解読の範疇を、遥かに超えた知識領域だった。

 彼女の兄、アレクシスが得意としていた、あの、世界の法則そのものを弄ぶかのような、深淵な魔導知識の世界。


 アレクシスもまた、こんな風だった。

 誰もが匙を投げた難問を前に、彼は、まるで子供が遊ぶように、あっさりとその本質を見抜き、解き明かしてしまうことがあった。

 その時の彼の瞳は、日常の怠惰な光とは違う、どこか遠い宇宙の法則を映しているかのような、静かで、底知れない輝きを宿していた。


 ユリウスの横顔を、リゼットは、無意識のうちに見つめていた。

 光の届かない夜の底のような髪。

 感情という邪魔なものを完全に取り除いた、冷たい感知器のような瞳。

 だが、今、その瞳の奥に、ほんのわずか、アレクシスが時折見せた、世界という名の複雑な謎を解き明かす純粋な喜びに似た――微かな光が揺らめいたように、リゼットには見えた。


「……まさか」


 そんなはずはない。

 この非合理を嫌う男が、兄と重なるなど。

 リゼットは、内心の動揺を押し殺すように口元を隠した。


「……なるほど。彗星、ですか。わたくとしたことが、そのような初歩的な可能性を見落としていたとは。ですが、その周期の特定は、骨が折れそうですわね」


 いつもの、傲慢な仮面。

 だが、その声は、自分でも気づかぬうちに、ほんの少しだけ、柔らかさを帯びていた。


 ユリウスは、リゼットの内心の揺らぎなど、まるで存在しないかのように無視して、淡々と続ける。


「必要なデータは、王立天文台の過去ログを参照すれば、三時間以内に抽出可能だ。問題は、その後の計算処理だが……」


 その時、リゼットは、確かに感じていた。

 この男の、無機質なまでの合理性の奥底に、兄が持っていたのと同じ、世界の謎を解き明かさんとする、冷たくも純粋な探求者の魂の欠片を。


 それは、彼女がずっと追い求めてきた、届かない星のような導きだった。

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