第24話 訣別
「……っ、そんな……」
ユリウスの背後で、アリアの声が、か細く、ひび割れた。
彼女は震える足で一歩前に進み出る。
その瞳は涙に濡れ、しかし、決して逸らされることなく真っ直ぐにユリウスを射抜いていた。
「ユリウス先生の言うことは、いつも正しいんだって、分かってます。でも、でも、リゼットさんはダメなんです、ぜったい……!」
アリアは、ユリウスがリゼットを見捨てることを想定しているが――実際のところ、ユリウスの判断は異なっている。
むしろ、この状況で最も排除すべき危険因子は、魔族が憑依した教師だった。
ほんのわずかな隙が生まれれば、魔族ごと教師を排除することは可能だ。
もっとも、アリアは、教師を犠牲にするという選択も受け入れないだろう。
ならばこそ、説明は不要だった。
「わたしが、行きます……」
アリアが、静かに剣を構えようとする。
だが、先のゴーレムとの死闘で酷使した身体は悲鳴を上げていた。
全身を襲う鈍い痛み、鉛を仕込まれたように重い腕。
立っているのがやっとの状態で、握る剣の切っ先が、意思に反してかすかに震える。
近付けば殺す、という脅しを無視し、速度で上回ることに賭ける。
その選択もあり得ない訳ではないが――アリアの今の状態では成功率は低い。
「絶対に、リゼットさんを助けます」
悲壮な覚悟を口にしたにもかかわらず、アリアの足は床に縫い付けられたように一歩も前に出なかった。
自分が動けば、その瞬間にリゼットが殺されるかもしれない。
友を助けたいという想いと、自らの行動が友の死の引き金になるかもしれないという恐怖がせめぎ合い、その身体を完全に縛り付けていた。
状況を動かすための選択。
それはいつも、恐怖と責任を伴うものだ。
ユリウスは、アリアの硬直を冷静に分析し、打開策の思考を続ける。
天秤にかけるならば、選ぶべきは未来ある生徒だ。
部下を守り、その未来に繋げることが、指揮官、そして教師の責任。
アリアが奴の注意を引いている。
その間に、リゼットだけを救出する。
犠牲はひとり。問題ない。
――教師の命は、保証しない。
アリアの白い頬を、一筋の涙が伝う。
それは、つい数時間前まで、すぐ隣で意地っ張りな優しさを見せてくれた少女を想う、熱い雫だった。
「リゼットさんは、わたしの、初めての……大切な、友達、だから……!」
その、魂からの叫びは、固く閉ざされていた意識の扉を、確かにノックした。
朦朧とする意識の淵で、リゼットはその声を聞いていた。
自分のために、世界で一番尊敬しているはずの相手に、必死で想いを叫んでくれる、陽だまりのようにあたたかい声。
リゼットの脳裏に、兄の最後の言葉が蘇る。
――君は、強いな。
強くなどない。
ただ、強く見せていただけ。
いつも誰かに見捨てられ、誰かに守られている。
お願い。違う。
そんなふうに語らないで。
強くなくていい。弱くてもいい。
でも、今だけはアリアを、
大切な、友達を、
様々な感情が、彼女の中で奔流となって渦を巻く。
その瞬間、人質に取られたリゼットの指先が、ぴくりとかすかに動いた。
「――!?」
その変化を、魔族は見逃さなかった。
ユリウスへの警戒が、人質の少女へと逸れる。
「何をした、小娘ッ!」
動揺。
それは、絶対的強者を前にした、致命的な隙。
――そこだ。
ユリウスの思考と行動の間に、タイムラグは存在しない。
彼が魔族の背後に忍ばせていた闇の魔力が、音もなく凝縮し、教師の心臓を正確に貫くための、必殺の槍と化す。
教師の身体ごと魔族を貫く。
犠牲者は1名。
最善では無いが、最悪でもない。
だが、ユリウスは寸前で攻撃を止める。
「うあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
突然、眠っていたはずのリゼットが叫んだ。
それは、自分自身の弱さに向けた、訣別の咆哮だった。
次の瞬間、彼女の身体から、圧倒的なまでの魔力の奔流が噴き出した。
ホール中の空気が震え、窓ガラスが共振して悲鳴を上げる。
純金の光が、闇を払う太陽のように彼女から迸り、辺りを白く染め上げた。
教師に憑依した魔族は、その想像を絶する魔力に全身を圧迫され、悲鳴すら上げられない。
身動き一つ取ることができず、ただただ、目の前で形を成していく光の剣を、恐怖に歪んだ瞳で見つめることしかできなかった。
ユリウスは思わず目を見開く。
総量だけではない、その質。
凝縮された破壊と創造の奔流。
ユリウスが知る限り、これに匹敵する魔力はただひとつ――魔王の、世界そのものを書き換えるほどの絶対的な力。
魔王の力がすべてを無に帰す深淵の闇ならば、これは、すべてを焼き尽くし、すべてを浄化する、苛烈な光。
リゼットが、光の剣を一閃する。
その動きは、洗練とは程遠いものだったが、そこには圧倒的なまでの力が込められていた。
斬り裂かれたのは、教師の肉体ではなかった。
光の刃は、物理法則を無視して教師の肉体を透過し、その奥にある邪悪な魂の核だけを正確に捉えていた。
魔族は悲鳴を上げる間もなく光の中に霧散し、憑依から解放された教師は、糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。
「……圧倒的だな」
ユリウスは、思わず呟いた。
魂まで汚染された宿主から、魔族の魂の核だけを完全に分離して無力化する。
それは、理論上は不可能とされていたものだった。
もちろん、命に別状はないとしても、憑依された教師が魂に受けた負荷は大きい。
彼もまた、被害者のひとりに過ぎない。
リゼットは、まだ魔力の光に包まれたまま、荒い息を吐いていた。
その表情は、恐怖と、怒りと、そして、何かが覚醒したような、複雑な感情で彩られている。
だが、代償は大きかった。
彼女の全身を包んでいた純金の光が、まるで燃え尽きる陽炎のように揺らめき、すっと消える。
途端に、張り詰めていた糸が切れたようにリゼットの膝が折れ、その身体が前のめりに傾いだ。
「リゼットさん!」
アリアが悲鳴に近い声を上げ、自分の傷も忘れて駆け寄る。
だが、彼女自身も死闘の消耗から回復しておらず、その数歩が絶望的に遠い。
友の身体に指先が触れる、その寸前――ふわりと、大きな影が倒れゆくリゼットの身体を受け止めた。
ユリウスだった。
彼は、まるで羽毛でも受け止めるかのように静かにリゼットを抱きとめると、その細い身体を支えながら、静かに眉をひそめた。
無謀な力の奔流。
その代償として、彼女の魔力回路は悲鳴を上げ、生命力そのものが危険な水域まで削られている。
「……不合理な力の使い方だ」
その呟きには、普段の冷徹さとは違う、明確な憂慮の色が滲んでいた。
「先生……リゼットさんは……!」
ようやく追いついたアリアが、自分の制服もボロボロのまま、息を切らしてユリウスの腕の中の友を覗き込む。その瞳は、心配と不安で潤んでいた。
ユリウスは、そんなアリアに視線を移す。
目の前の危機が去った今、彼女の顔にも極度の疲労と消耗の色が隠しようもなく浮かんでいた。
それでもなお、他者を案じるその姿に、ユリウスは静かに告げた。
「……お前も、もう限界だろう。アリア」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「彼女は気絶しているだけだ。命に別状はない。……よく、やったな。お前も、リゼットも」
ユリウスは、アリアの頭に、あの日と同じように不器用な手つきでそっと触れる。
「だから、今は自分のことだけを考えろ。無理に動くな。あとは、俺がやる」
それは、彼の合理主義からは考えられないほど、不器用で、けれどあたたかい響きを持った言葉だった。
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