第16話 優しい叱責
アリア・クレシオンの部屋のドア。
それをユリウスは、寸分違わぬ動作で三度、小気味よくノックする。
その背後では、リゼットの憤りにも似た苛立ちが、冷たい風のように立ち込めている。
ほんの数秒、間があってから、ドアが、古びた
「はい! は、……え、あ、せ、先生!? それに、リゼットさんまで……!?」
ドアの隙間から顔を覗かせたアリアは、ユリウスたちの姿を認めた途端、全身の力が抜けたかのように、ぴたりと動きを止めた。
その瞳は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、ひどく狼狽している。
「何の騒ぎだ」
「い、いえっ! なんでもないです! 決して、その、やましいことなど……! あの、ちょっと、散らかってるだけで……!」
狼狽するアリアの動きは、あまりにも不自然だった。
彼女は、まるで自分を盾にするかのように、ドアの隙間を死守していた。
その背後、部屋の奥に続く台所らしき場所を、懸命に隠そうとしているのが見て取れた。
その必死さが、かえって尋常でない何かを告げていた。
ユリウスの鼻腔が、部屋の中からかすかに漂ってくる、奇妙な匂いを捉えた。
それは、雨上がりの地面と、刈り取られたばかりの夏草を混ぜ合わせたような、青臭い匂い。
それは、通常、食料として分類されるべきものの発する匂いからは遠いものだった。
「――何をぐずぐずとしているのですか!」
痺れを切らしたリゼットが、アリアの脆弱な防衛線を、まるで紙の壁を破るかのように簡単に突破し、部屋の中へと踏み込んだ。
「きゃっ! あ、だ、ダメです!」
そして、リゼットは見た。
キッチンの、その目を覆いたくなるような惨状を。
小さな卓上コンロの上には、古びた鍋が一つ。
その中では、正体不明の緑色の物体が、ぐつぐつと、まるで泥の沼が沸騰するかのように煮詰まっていた。
原材料は、おそらく中庭の隅にでも生えている、名もなき雑草の類だろう。
調味料らしきものは、岩塩の欠片が数個、無造作に転がっているだけだった。
それは、料理と言うよりも――作業、というのが適切だった。
料理と呼ぶのもはばかられるような、ただ、生きるため、最低限の栄養を摂取する作業の跡。
「あ……あの……それは、その……」
アリアは、すべてを暴露され、人形のように、ただ立ち尽くしている。
その顔は、夕陽の色を超えて、耳まで真っ赤だった。
そして、大きな瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていく。
まるで、悪いことをして見つかった子供のように、しかし、それ以上に、自分の惨めな姿を露呈してしまったことへの羞恥と絶望で、今にもその場に崩れ落ちそうだった。
「ま、さか……あなた、こんな……こんな、草を、……食べていたというのですか……!?」
リゼットの声には、普段の怜悧な彼女からは想像もできないほどの、人間的な響きがあった。
ユリウスは、動揺する二人を意に介さず、静かにキッチンへと足を進める。
そして、何の躊躇もなく――壁にかかっていたスプーンを手に取ると、鍋の中の緑色の液体を少量、すくい上げた。
「あ、ダメ、です! 先生、そんなもの、口にしたら……!」
アリアが、か細い、しかし必死の声を上げた。
みすぼらしい食事を見られたことへの羞恥よりも、恩人であるユリウスに得体の知れないものを口にさせてしまうことへの申し訳なさが、彼女の心を支配している。
潤んだ瞳と、行き場をなくした小さな手。
その姿は、まるで雨に濡れた子犬が、自分の汚れた身体で主人を汚すまいと必死に身を縮めているかのようだった。
湯気と共に立ち上る、強烈な青臭さ。
ユリウスはそれを、まず分析するように見つめ、次に匂いを嗅ぎ、そして、ゆっくりと口に運んだ。
アリアが、息を呑む。
リゼットは、信じられないものを見る目で、彼を凝視している。
数秒の咀嚼と、嚥下。
ユリウスは、壁に向かって、誰に言うでもなく、ただ一言、事実を告げた。
「……うまいな」
その声は、いつもと変わらず、平坦で、感情の起伏を感じさせなかった。
――塩分による味覚の最適化は、限られた状況下における最善に近い。
問題は、主成分である植物繊維質と、ごく微量の栄養素。
これだけでは、まともな活動はおろか、生命を維持するために必須な栄養素が、絶望的に不足している。
長期的に見れば、極めて不合理な生存戦略だ。
だが、それでも。
これまでずっと、アリアは、こんな劣悪な食事で足掻いていたのだろう。
ただ生きるために。生き残るために。
その一点においてのみ、この『雑草スープ』は、ある種の価値を持つ。
「だが」
ユリウスは、アリアの方を振り返った。「栄養効率が、劣悪すぎる。ただ生きるだけならそれでもいいが――強くなりたいなら、この食事は認められない。いずれ致命的な機能不全に陥る。不合理だ」
「そ、それは……その……、ごめんなさい……先生……。でも、わた、わたし……」
アリアは、言葉に詰まり、俯いた。
その小さな肩が、か細く震えている。
ぽろぽろと、大粒の涙が床に落ちて、小さな染みを作った。
その涙は、悔しさか、情けなさか、あるいは、ユリウスにそんなものを食べさせてしまったことへの罪悪感か。
誰かに助けを求めれば、こんな惨めな思いをすることはないと、きっと頭では分かっている。
それでも、人に迷惑をかけたくない、自分の問題は自分で解決しなければ、という思いが、彼女を孤立させてしまう。
それは、ひとりで生きてきた彼女の誇りでもあり、深い傷でもあった。
その時だった。
「――ああ、もうっ! 見ていられませんわ!! このっ、この、大馬鹿者っ!!」
リゼットが、甲高い声を上げた。
その顔は、羞恥と怒りと、そして何か別の、ひどく切羽詰まったような感情で真っ赤に染まっている。
彼女の言葉は、普段の怜悧な彼女からは想像もつかないほど支離滅裂だった。
だが、その瞳の奥には、軽蔑ではなく、むしろ同情と戸惑いの色が浮かんでいた。
目の前の少女の、あまりに過酷な現実に、どう対処していいのか分からない。
アルベイン家の令嬢として受けてきた帝王学の中に、こんな状況への対応方法は存在しなかった。
だから、彼女にできるのは――いつものように高圧的な態度で相手を威圧し、その実、自分の領分に強引に引きずり込むことで保護下に置くという、極めて不器用な優しさの発露だけだった。
「こんなものを食べて、身体でも壊されたら、わたくしが迷惑なんですのよ! こんな食事で、わたくしに勝とうなんて、百年早いですわ! 我が家の厨房には、食材なんていくらでもストックがあるのですから! ……べ、別に、あなたのためじゃありません! これは、未来の勇者候補のコンディションを維持管理するための、合理的な、そう、合理的な先行投資ですわ! そう! 合理的な判断ですのよ! あなたが倒れたら、わたくしの貴重な時間が無駄になりますから!」
早口でまくしたてるリゼットの背後で、夜の
それは、まるで世界の終わりみたいに美しく、そして、これから始まる何かを予感させる、奇妙に暖かい光だった。
ユリウスは、そんな二人の様子を、ただ黙って、観測していた。
少女たちの、不器用で、不合理で、それでも、どこかあたたかい感情の交錯。
それは、彼が今まで知らなかった、新しいデータだった。
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