魔王の息子、勇者学院で生存戦略を叩き込む ~落ちこぼれの教え子は、俺が父の仇だと知らない~

壱乗寺かるた

プロローグ

『人間の国』と『魔王の国』。

 二つの勢力が互いの版図を削り合う、終わりの見えない争いを開始してから、千年という時間が経過していた。


 均衡は、常に揺れ動くシーソーゲームだった。

 一時的な優位はあっても、どちらかに勝利が偏り続けることは無かった。


 だが、それも、たったひとりの――新たな魔王の出現によって、過去の話となった。


 パワーバランスは完全に崩壊した。

 まるで質の悪い冗談のように、『魔王の国』の版図は膨張を続け、『人間の国』はひび割れたガラス細工のように、今にも砕け散りそうになっていた。


 『人間の国』の最後の希望。

 ひとりの『勇者』もまた、今まさに、新たな魔王、その規格外の、圧倒的な力に飲み込まれるところだった。




「――とどめを刺してやれ」


 頭上から、冷たい声が降ってくる。

 それが魔王の、自分の父親の声であることを、ユリウスは即座に理解する。

 意識しなくても、圧倒的強者のことは生存本能が勝手に知らせてくる。たとえそれが、生まれたばかりの獣であっても。

 十代の少年のような幼い容貌。赤子のような滑らかな肌。それとは対照的な夜の底を思わせるような漆黒の髪。

 魔王の息子、ユリウスは、特段の緊張感もなく、ただ、そこに立っている。息を切らすこともなく、何かに警戒する様子もない。あえて言うのであれば、自分がそこにいることを戸惑っているようにも見える。

 それは、ユリウスと、『勇者』との実力差、そして『魔王』と『勇者』の明確な差を感じさせるものだった。


 ユリウスの眼前。

 かつて『勇者』と呼ばれた男がそこにはいた。

 鎧はひしゃげ、皮膚は裂け、じわりと染み出す赤い液体は、魔王城、その大理石の床で少しずつ面積を広げている。

 呼吸は途切れ途切れで、胸のあたりが微かに上下している。このまま放置したところで、5分もかからず機能停止するだろう。


 ふと、ユリウスに純粋な興味が湧いた。

 それは、システムに対する、技術者的な好奇心に近い。

 壊れかけの鉄屑と肉塊――『人間』の希望であった勇者――の顔を覗き込む。


「質問がある」


 ユリウスは静かに尋ねる。

 話すことに慣れていないせいか、その声はかすかに強張っている。


「あんたほどの実力なら、逃げようと思えば逃げられたはずだ。撤退し、戦力を再編成するという選択肢もあった。なぜ、そうしなかった?」


 ひとつひとつ、確かめるように。

 責める訳でも、罵る訳でもなく、小さな子供がただ単純に疑問をぶつける。そんなふうだった。


 虫の息だった勇者の唇が、わずかに動いた。

 ひび割れた音声。ユリウスの聴覚でも、かろうじて拾える程度の小さな声だ。


「……勇者、だから、だ」


「勇者だから?」


 その言葉は、ユリウスにはうまく理解できない。


「みんなの……希望、だからだ。……みんなのために……闘わな、ければ……」


 理解不能だった。

 みんなのため?

 希望?

 抽象的で非効率な概念。

 実力差が絶望的なら、戦闘継続は自殺行為だ。

 一時撤退こそが最適解であり、それこそが『みんな』の生存確率を最大化する唯一の方法論だろう。

『人間』は、『勇者』というやつは、そんな簡単な計算もできないのか。

 あるいは、そういう風にプログラムされた、意思なき人形か。


 不合理だな。

 小さく呟いて、ユリウスは、手にしていた剣を振り上げた。




「『人間の国』に行きたい」


 唐突に、ユリウスは言った。

 魔王の眉が、ピクリと動く。

 何も言わない魔王に、ユリウスは続ける。


「人間どもに、教えてやる必要がある。戦うべきではない、ということを。無駄な抵抗は、さらなる犠牲を生むだけだと。その方が、結果的に、我々魔族の消耗も最小限に抑えられるはずだ」


 その提案は、どこまでも合理的で、正しいはずだった。

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