第7話 酒場『黄金の輝き亭』

 昨晩夕食を取った宿を発ち、昼前には目的のラクサ村に辿り着いた。


 僕らがやって来た王都ティエンヌは城壁に囲まれ、石畳が敷き詰められた立派な都市だったが、ラクサ村は田舎の農村に過ぎなかった。獣よけの簡素な柵で村は囲われているが、大軍相手に果たしてどれほどの役に立つことだろう。小麦畑が広がり、豚や鶏、牛といった家畜が闊歩するのどかな光景がほとんどを占め、人家や商店がぽつぽつと点在する小さな村だった。


 ラクサ村に着いたら、村唯一の酒場兼宿屋で村長を待つよう伝言を受けている。エリーの後ろにくっついて酒場の扉をくぐると、真っ昼間から酒を呷って騒ぐ男達の姿があった。まだ酒場という場所の活気に慣れない僕は縮こまりながら、エリーの後を追う。一方、彼女は勝手知ったる場所という風に、悠々と進み、まるで常連客のようにカウンターに腰掛けた。


「『黄金の輝き亭』というのは、ここであってるかしら?」


 カウンターの奥には、一人の女性が立っていた。恰幅の良い、中年の女性。鉤鼻で目つきが鋭く、ぎょろりとしている。温和そうな雰囲気の『女神の抱擁亭』のマスターとは正反対で、目が合ったら思わず竦み上がるような迫力を漂わせていた。


 女性はむっつりと唇を引き結んで、エリーの問いかけに頷いた。


「そうだよ、お嬢ちゃん。いかにも、ここは『黄金の輝き亭』さ」


 酒焼けしたしゃがれ声が女性の口から発せられる。ちょっといかつい外見によくお似合いの声だった。


「ゴブリン退治の依頼を受けてきた冒険者なんだけれど。ここで、依頼主の村長さんを待つよう言われたの。それで間違いないかしら」


 エリーは女性に物怖じした様子なく、問いかけた。


 会話はエリーに任せておこう。そろりとエリーの影に隠れようとすると、女性の目がエリーとその後ろの僕を順番に無遠慮に一瞥した。ひっ、と上ずった声が漏れないように堪えていると……女性は口元をゆがめた。


「なんだい、尻に殻の付いた雛共か。大丈夫かね、ゴブリンに頭から丸かじりにされないか、あたしゃ心配だよ」


 これが隠す気のない嫌味だってことは、記憶喪失の僕でもよく分かる。なんなんだ、一目見るなりどうしてそんなこと言われなきゃいけないんだ……と思いつつも、何も言えずに震えあがる僕を尻目に、エリーは余裕たっぷりに微笑んだ。


「そうやって、単に若いからって理由だけで他人を見くびるなんてね。それこそ、鶏になってもまだお尻に殻がひっついてる証拠だわ」


 嫌味に、嫌味を真っ向から返した。


 その途端、しん、と酒場が静まりかえる。いつの間にやら、酒場で騒いでいた男達も口をつぐんで、探るようにエリーと女将さんを見ている。酒場の温度が、一気に氷点下に下がったような気がする。


 女同士の視線が無音で火花を散らしている。女性のぎょろりとした鋭い目とエリーの涼やかだが冷たい目の視線が、まるで喉元に突きつけ合った剣のように交差する。


 緊迫した空気が酒場を支配する。次に、どちらがどう動くか。僕を含む外野の男達が固唾を飲んで見守る中、声を発したのは女性の方だった。


 それは酒場中に響くような、豪快な笑い声だった。いかめしい顔をくしゃくしゃにして女性は破顔していた。


「いいねえ、お嬢ちゃん、大した度胸だよ! あたしがちょいとからかっただけで、大の男でもたちまちぶるっちまうんだからさ。これなら安心だね、あんたならゴブリンどころかドラゴンだって退治できそうだよ!」


 先ほどまでの威圧的な雰囲気はどこへやら。女性はふくよかなお腹を揺すって楽しそうに笑っている。エリーの表情からも敵意が抜けた。


「そうやって人をからかうのは、止めてほしいわ。ほら、後ろの彼、すっかり縮み上がって可哀想じゃない」


 エリーが笑うのを堪えながら、僕を振り返った。僕は大慌てで頭を振った。


「べ、別に、ち、縮み上がってなんか……ないし……」


 しどろもどろ言うと、エリーにも、カウンターの女性にも、ついでに酒場で酒を飲んでいた男達にも揃って笑われた。


 僕がびびりなんじゃなくて、エリーの肝が座りすぎてるだけだろ! そう言いたかったけれど、僕に実際出来たことは、顔を赤くしてうつむくことだけだった。


 そうしているうちに、女性は並々とビールが注がれたジョッキを二つカウンターに置いた。


「からかって悪かったよ、お二方。お詫びと言っちゃなんだが、こいつはあたしのおごりさ。……さ、飲みなよ」


「あら、ありがとう。じゃあ、ご遠慮なく」


 言葉通り、何の遠慮もなくエリーは出されたジョッキを呷る。酒場の男達も感嘆するような、いい飲みっぷりを披露すると、ジョッキを置いて僕を手招きした。


「ほら、カナタ! ここのビール、余所とは比べものにならないぐらい美味しいわよ! さあ、あんたも少しぐらい飲みなさいよ」


「え……ええ……」


 思わず顔が引きつる。こちらの世界では僕の年齢なら飲むのも当たり前みたいだが、現代日本では違う。


 道中でも、飲まないのか、とエリーに聞かれたが、飲んだことがないのでいい、と答えるとまた変な顔をされそうだったから、お酒は飲んだらすぐに酔うから飲まないんだと嘘をついて断ってきた。


 そもそも依頼前に飲んだら、酔っ払ってまともに動けなくなりそうじゃないか? そんな僕の心配など察した様子なく、女性がどすの利いた声でつぶやいた。


「なんだい……あたしが仕込んだ酒が飲めないって言うのかい」


 ぎろり、と刺すような視線が僕に突き刺さる。


 おっかない台詞にやむを得ず、僕はこそこそとカウンターについた。置かれていたジョッキにえいや、と口をつけて、中の液体を喉に流し込んだ。


「う……にが……」


 初めてのビールは、とてつもなく苦かった。


 渋い顔をして口元を抑えた僕を見て、エリーがくすっと笑った。


「ねえ、悪いけど、彼には牛乳を出してもらえる? 生憎このお子様舌には、お酒の味を理解するにはまだ早かったみたいだから」


 エリーが言うと、酒場はどっと笑い声で溢れかえった。「おやおや、そうかい。そいつぁ済まなかったね」と女性は腹を抱えて笑いながら言い、「笑ってやるなよ、ママのおっぱいから卒業したばっかりの坊主かもしれんだろ」なんて失礼にも囃し立てる酒場の男の声が聞こえてきた。


 この世界じゃ僕は成人扱いの年齢で、しかも成人なら男女問わずに飲めないのは恥ずべきこと……という意識があるらしいのは分かったが、そんなに笑わなくたっていいじゃないか。


 あなたたちは知らないだろうけど、早くからお酒飲むのは発育に良くないんだって科学的に証明されてるんだって。現に、浴びるように飲んでるエリーの起伏に乏しい胸を見れば一目瞭然だろ……!


 ……とは言えず、僕は頬が熱くなるのを感じながらうつむいた。


 なんだか惨めな気持ちで、改めて出してもらった牛乳をちびちび飲んでいるうちに、僕が残したビールはあっというまにエリーが飲み干してしまった。 


 酒を水のように呷りながら、エリーは女性と世間話に興じていた。話によると、女性はこの『黄金の輝き亭』を切り盛りする女将らしい。


「元々はうちの親から継いだ店なんだがね。二十年も前に亡くなっちまった。今はあたし一人でなんとか切り盛りしているのさ。村で唯一の酒場を潰すわけにいかないからね」


「あら、それは大変苦労してるのね。……結婚は考えなかったの?」


 ちょっと遠慮した様子で付け加えて、エリーが訊ねた。すると、女将本人ではなく、たむろする男達が口を挟んできた。


「お嬢ちゃん、そいつぁ無理な話だぜ。子連れの熊を口説き落とすより、女将さんのとこに婿入りする方がよっぽどおっかないね!」


 酔いの回った口調で男が叫ぶと、女将さんはその男を一瞥し、唇をゆがめた。


「……その言葉、忘れないからね。酔っ払いの屑共よ」


 そのドスの利いた声に、酒場の空気が凍り付くのを皆が感じたことだろう。酔っ払って良い気分になっている男を除いて。


 どうやら、この女将は村人達から愛されつつも、まるで凶暴な熊のように恐れられている存在のようだ。

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