第5話 就寝前に

 その後、再度市場に買い物に出た。依頼の前金を使って、食料と水、そのほか冒険に必要な道具一式を買いそろえた。エリーの買い物はすぐに終わったが、僕はナイフ一本所持していなかったので(剣と鎧以外禄に持っていなくて、エリーに呆れられた)、日が暮れるまで買い物に時間がかかった。


 『女神の抱擁亭』で夕食と湯浴みを済ませると、僕らは早々に二階に取った部屋へ戻った。藁にシーツをかぶせて、あまり清潔ではなさそうな毛布がかかったベッドがずらりと並んでいる部屋だった。一番安い部屋には、男女の分別すら無いというのが衝撃的だった。衝立一つすらないのだ。


 宿泊客は僕とエリーだけだった。


 異世界に電気は存在しないため、夜間の光源はごく限られている。今、この部屋を照らしているのは頼りないランプの光と窓越しに入ってくる月の光だけだ。


 エリーは隣のベッドで髪に櫛を通している。旅装は解いて、質素な寝間着姿だ。飾り気のないワンピースだが、無防備なうなじがのぞいていたり、思っていたより大分スリムな体のラインが見て取れたり、と昼間の鎧姿と比べてなんだかどぎまぎしちゃうのは気のせいだろうか?


 異性のパジャマ姿に思い切り僕は緊張していた。手を伸ばせば届く範囲に、僕とそう大差ない年齢の少女が無防備な寝間着姿で眠っているなんて、そんなことあっていいのか……?


 僕は毛布にくるまり、エリーに背を向けて眠ったふりをしていた。なんだか気まずいような、気恥ずかしいような心地だ。


 エリーが櫛を背嚢に仕舞う音が聞こえた。


「カナタ、もう寝た?」


「……ううん、まだ」


 毛布にくるまったまま、もぞもぞしながら答えた。


「そう。明日は早いんだから、早く寝た方がいいわよ。丸一日歩き通しだし」


「……うん」


 そう言われても、誰かさんのせいでどきどきしてあんまり寝れそうにないんだけど、というのが本音だけど、それは言わないことにした。


「じゃ、おやすみ」


 そう言うと、部屋の中のランプの火をエリーが吹き消した。


 部屋は真っ暗な闇に閉ざされた。話し声も途絶えて、ごそごそと衣擦れの音が時折響くだけ。


 目を瞑っても、全然眠気はやってこない。体は間違いなく疲れているのに。


 時計がないから正確な時間は分からないけれど、夜九時ぐらいのような気がする。現代なら寝るには早すぎる時間だけれど、電気が通っていないこの時代では、そうではないらしい。


 僕は、ここで何をやっているんだろう。ふいに、思った。トラックに跳ねられて異世界転生。この世界の常識も全然分からないし、頼りのドーノもどこまで使える代物なのかよく分からない。


 この世界で、僕は果たしてうまくやっていけるのだろうか? 不安が重く、暗闇に乗じてのしかかってくる。そのまま押しつぶされ、僕の存在が消えてしまうような気がした。


「カナタ、起きてる?」


 はっと、我に返った。エリーの声がした。目を開けると、まだ朝はほど遠い。部屋は真っ暗だった。


「うん、起きてる。……なんか、寝れなくて」


 僕は少しほっとして、答えた。


「奇遇ね。……あたしも」


 ちょっとはにかむようにエリーが笑った。


「いつもはベッドに入ったら、即寝落ちしちゃうんだけどね。おかしいな、お酒が足りなかったかしら」


 夕食の時、吐息が酒臭くなるまで、しこたま飲んでいたような気がするけど……とは指摘しないで黙っていると、またエリーが口を開いた。


「ねえ。眠くなるまで、なんか話してよ」


「なんかって……」


 そう言われてすらすら話し出せる性質ではないとエリーだってそろそろ気づいてるだろうに。僕が困惑していると、エリーが再び口を開いた。


「じゃ、あたしから質問。あんたってどこから来たの? 何で冒険者ギルドの場所どころか、ドーノさえ知らないのに、冒険者になろうと思ったわけ? 本当に記憶喪失ってわけじゃないんでしょ?」


 答えづらい質問をたたみかけられてしまった。


 現代日本から転生してやってきて、異世界モノのセオリー通りに行動しただけ……というのが真面目な答えだが、彼女にとってはあまりにも突拍子もない話だ。真面目に話せば、頭がおかしいと思われて終わりに違いない。


 沈黙していると、エリーがくすくす笑いながら言う。


「じゃ、質問を変えるわ。あんたってどういう人生を送ってきたの? 答えられる範囲だけでいいから、教えてちょうだいよ」


 問われても沈黙ばかりでは申し訳ない気持ちで一杯だった。僕だって聞かれたことは気持ちよく答えたい。


「それは……」


 答えられる範囲でいいなら、と思って、僕は答えようとした。現代日本が云々というところを除いて、何かしら話せるところはないかと思って考えを巡らせ……僕は異世界にやってくる前の己の記憶が、失われていることに初めて気がついた。


 現代日本の知識はきちんとあるし、遊んだゲームや読んだことがある漫画や小説の中身も思い出せる。異世界モノのセオリーがすらすら出てくるので、そういうジャンルが特に好きなんだろう。僕は十六才で、彼方カナタという名前であることも分かる。


 だが、トラックに轢かれる前の記憶は欠片も無い。それどころじゃない。日常、僕は何をやって過ごしていたのかすら分からない。年齢からすれば、高校生の確率が高いが、学校生活を送っていた記憶も、学校生活以外で日常を過ごしていた記憶もどちらもない。


 親しい友人は愚か、家族の名前も顔も思い出せない。知識はあっても、自分にまつわる記憶が綺麗に抜け落ちている。


 記憶喪失。エリーは嘘だと思っていて、僕もついさっきまでそうだと思っていた。でも、僕は本当に記憶喪失だった……。


 僕が何か言いかけて、それから呆然としているのを見て、エリーは肩をすくめた。


「ま、話したくないなら無理強いはしないわ。話したくなったら教えてよ」


 本気で詮索するつもりはないらしい。ほっとして胸をなで下ろす。が、それもつかの間。


「じゃ、あんたからなんか話しなさい。あたしから何聞いても教えてくれないんじゃあ、仕方ないでしょう?」


 してやられた。どうあっても、僕の方から話さないとダメそうだ。


 仕方なく、話題を考えてみる。明日の天気とか……? いや、話がすぐに尽きてしまいそうだ。じゃあ、好きな食べ物を聞いてみる? 聞くまでもなく、なんとなく予想がつくな、多分酒って答えるだろうな……。


 予想がつかないこと、聞いてみたいこと。


 一つ、質問が頭の中に浮かんできた。


「何で、エリーは僕に手を貸してくれるの? 僕なんて、見知らぬ赤の他人だし……助けたって何の役にも立たないと思うけど」


 頭の片隅で、ずっと不思議に思っていたことだった。


 馬車に轢かれそうになった時に、腕を引いてくれた。不審者みたいな僕を冒険者ギルドに連れて行ってくれた。不審がるソフィアからかばってくれたこと。なにより、お世辞にも頼りになりそうにない僕と、冒険に出てくれること。


 依頼を二人で受けることにされたときは、それは驚いたし、勝手に決めないでほしいと反感もあった。けど、同時に僕は安堵していた。ひとりぼっちで、右も左も分からない異世界で冒険に臨むのはとても心細かったから。


 彼女の親切には、とても救われたし、感謝している。けど、どうして彼女が、僕なんかに親切にしてくれるのか分からなかった。どんな意図が裏にあるのか、想像もつかなかった。


 だから、聞いてみたくなったのだ。


 沈黙が訪れた。まるで僕が話をしている間に、エリーがひっそりと立ち去って、誰もいなくなったみたいに静かだった。


 適切な話題じゃなかったのだろうか? 彼女の逆鱗にふれてしまったのだろうか? 心がざわついた。僕は、失敗したのだろうか……?


「似てると思ったから、かな」


 不意に、暗闇からエリーの声が聞こえた。


 声には、別段気分を害した様子は無い。単に、答えるまでに時間がかかっただけのようだ。僕は内心胸をなで下ろし、たずねた。


「誰に?」


「家族」


 間髪入れずに、エリーは答えた。


「ってことは、弟……とか?」


 ちょっと雰囲気が似た弟がいて、その弟を僕と重ね合わせてしまう……とかかな、と考えたのだが、


「いや、犬」


「……いぬ」


 僕は力の無い声でつぶやいた。似てる、と言われた相手が人間ですら無かったこの複雑な気持ち、どう処理すれば良いのだろう。


「そ。なんか、あんたに似てる気がする」


 悪びれもしないでエリーが言う。


「えっと、どういうところが?」


 藪蛇になる予感を抱きつつも、おっかなびっくり聞いてみる。


「どんくさいところ」


 ほら、聞くんじゃなかった。たちまち後悔の念に襲われた。


 これ以上、話すのはやめておこう。ふてくされて、毛布にくるまったままそっぽを向いたけど、エリーは構わずに話し続けた。


「餌をあげても、よく他の犬にかっ攫われてるし、喧嘩は絶対に負ける。狩りに連れて行っても、獲物は何回やっても取り逃す。何やっても、なんだかどんくさくって」


 故郷の光景が脳裏に蘇っているのだろうか、エリーは懐かしげに話している。


「他にも三匹飼ってるんだけどね。気がついたら、その子ばっかり気にかけちゃう。一番、かわいがってる気がする」


「変なの」


 僕は背を向けたまま、小さな声でそっとつぶやいた。


「何が?」


 独り言のようにつぶやいたのに、エリーが聞き返してきた。


 僕は困ってしまった。どう説明すれば良いのか、分からなかったから。


 あんまりにも当たり前のことを言語化するのは、小難しい理論を解説することとは別の意味で難しいことだった。


「そりゃ……使えないやつなんて、腹立つでしょ」


 しばらく考えて、やっとの思いで言葉を紡ぎ出した。


「ましてや、他の犬もいるんでしょ? なら、なおさら……いらない、ってなるんじゃないかって思って」


 人でも、犬でも同じ。何の取り柄も無いやつは邪険にされて、捨てられる。それはどこでも、誰でも同じだ。


 人は皆平等だ、なんてほざく奴は偽善に酔っているだけだ。人の間には、どうしようもなく出来不出来の差があって、その事実から目をそらしているだけだ。天使の仮面を被って、善人面していい気分になっている。腹の底から、力の無い哀れな奴らのことを、嘲ることも、哀れむこともしないでいられる人間がこの世にいるのか? 僕はいないと思う。


 力がある者は愛され、ないものは誰からも愛されない。これは世界を貫くルール。絶対不変の法則。記憶は無いけれど、僕は知識としてこのルールを知っている。


 そのはず、だったのに。


「あたしは、応援したくなるけどね。そういうやつ」


 エリーはあっけらかんと言い放つ。何の後ろ暗さも感じさせずに。


 偽善? それとも見栄張り? エリーの言葉の奥に何が隠れているのだろう?


「応援したって、無理な奴には無理だよ」


 僕はぼそりとつぶやいた。


 返事は無かった。すると、エリーは黙ってしまった。


 僕は今になって、気づいた。ひょっとして、怒らせてしまった? 彼女には何度も反対意見をぶつけてしまった。彼女にとっては不愉快なはずだ。


 なのに、僕はちっぽけな意地を張ってしまった。ああそうだね、なんて、適当に追従しておけば良かったのに。心の底では全然そう思っていなくても、顔には笑顔を貼りつけて頷く。それが処世術だってことを、僕は知識として知っているのに、うまく実践できていない。本音で語り合って絆を深め合う、なんて高尚な会話は僕には難しすぎる。


 だから、僕はダメなんだ。僕は自分自身に語りかけた。不出来な生徒を叱りつける教師のように……。


 沈黙は朝まで続くものだと思っていた。明るくなった部屋には、もうエリーの姿は無く、たった一人僕の姿があるばかり。そうなると、今度は本気で思っていた。


 でも、真っ暗な部屋にエリーの声が響き、沈黙を破った。


「あんたには、期待しているからさ」


 優しい声だった。この部屋が明るければ、柔らかな微笑みをこの目に焼き付けることが出来ただろうと思うぐらい。


 今度は僕が沈黙する番だった。彼女の言葉が信じられなくて、聞き間違いでは無いかと疑った。でも、彼女の声ははっきりしていて一文字も違えず聞き取れた。


 期待? 僕はこの世界の一般常識が欠落していて、それに彼女の言うとおりどんくさい。そして、冒険者としての実績は無く、能力も未知数。そんな僕に、どうしてエリーはそんなことを言うのか?


 理解できない。分からないことだらけだ。でも、一つだけ確かに分かったことがあった。


「やっぱ……エリーは変な人だね」


 毛布にかたくくるまって発した僕の声は、くぐもって聞こえた。また、僕はエリーに配慮の欠けたことを言っている。でも、今度は怒られるのではと怯えなかった。


 現にエリーは怒った様子などみじんも無く、からかうように笑った。


「あっそ。おやすみ、どんくさい相棒殿」


 しばらくして、安らかな寝息が隣のベッドから聞こえてきた。


 相棒、か。


 そんな言葉をかけてもらえるほどの実力も、実績も僕にはない。何の裏付けも無い、ただの甘い言葉。お世辞みたいなものだ。いちいち真に受けていても仕方ないこと。


 そう分かっていても、胸の内がなんだかむずがゆくて、温かく感じてしまうことは避けられなかった。飴を口の中で転がすように、寝落ちするまでに彼女の言葉を何度も心の中で繰り返していた。

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