『何もいらないから全部くれ』
漣
第1話 空っぽの手
雨の降る金曜日の午後、田中美佳は会社のデスクで辞表を書いていた。
「退職理由:一身上の都合により」
ありきたりな文言だが、本当のことを書くわけにはいかない。「上司のパワハラと過労で心が壊れたため」とも「毎日同じことの繰り返しで魂が死んだため」とも書けない。
三十二歳。独身。貯金は二百万円ほど。特に誇れるスキルもなく、特に大きな夢もない。ただ毎日を生きているだけの人間。
「田中さん、お疲れ様です」
振り返ると、同期の佐藤が心配そうな顔で立っていた。
「本当に辞めちゃうんですね」
「うん」
「次の職場、決まってるんですか?」
美佳は首を振った。決まっているどころか、探してもいない。
「とりあえず、休もうと思って」
佐藤は眉をひそめた。
「でも美佳さん、お金は大丈夫なんですか?実家に帰るとか」
「実家は...」
美佳は言いかけて口を閉じた。両親はもういない。兄弟もいない。頼れる親族もいない。そんなことを説明するのも面倒だった。
「大丈夫」
嘘だった。全然大丈夫ではなかった。
夕方、最後の荷物をまとめて会社を出た。雨は止んでいたが、空は重たい灰色だった。
アパートに帰ると、いつものように静寂が美佳を迎えた。六畳一間の部屋。必要最小限の家具。冷蔵庫の中は空っぽに近い。
美佳はベッドに倒れ込んだ。天井の染みを見つめながら考える。
これからどうしよう。
就職活動をするにも気力がない。かといってこのまま貯金を切り崩していけば、数ヶ月で底をつく。
スマートフォンが鳴った。クレジットカード会社からの支払い通知だった。今月の支払額を見て、美佳は深いため息をついた。
その時、画面に広告が表示された。
「あなたの不要品、高額買取します!まずは無料査定から」
美佳は笑った。不要品?この部屋にあるもので、必要なものなんてほとんどない。全部不要品と言ってもいいくらいだ。
でも、全部売ったところで、いくらになるというのだろう。
ふと、奇妙なアイデアが浮かんだ。
「何もいらないから、全部くれ」
呟いてみる。逆転の発想。何も持たないことを逆手に取って、何かを得られないだろうか。
美佳はスマートフォンを取り出し、SNSのアカウントを作った。
アカウント名は「@nanimo_iranai」
プロフィール欄に書いた。
「何もいらないから全部ください。本気です。」
最初の投稿を書いた。
「はじめまして。私は何もいらない人間です。お金も、物も、地位も、名誉も、愛も、何もいらないです。だから、あなたが要らないもの、全部ください。本当に何でもいいです。ゴミでも構いません。私には何もないので、何をもらっても得です。よろしくお願いします。#何もいらないから全部くれ」
投稿ボタンを押した瞬間、美佳は自分が何をしているのかわからなくなった。
でも、もう遅かった。
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