第2話 バンドに誘われる
4時間目の物理の授業が終わった昼休み、空は快晴、秋の高い青空にはいわし雲が気持ちよさそうに漂っていた。
生徒たちのざわめきが校内にこだまし始める。
手塚あきらと野々山ひろしは学食で並んだあと、いつものようにようやく空いた席についた。いい陽気だった。ふたりとも制服の上着は着ず、ワイシャツの腕も肘までまくりあげていた。
隣のテーブルで、林という古文の先生が焼きめしをスプーンでなく箸で食べているのを冷やかしながら、彼らは向かい合って食べていた。あきらは焼きめしにカレーをかけた焼きめしカレー―――正式なメニューにはない、いわば裏メニュー的な―――でひろしはチャーシューメンだ。
野々山ひろしは手足が長くて背の高い男で、あきらと同じ剣道部の同級生だった。剣道部の稽古のあと、あきらはひろしと他何人かでよくボーリングやビリヤードをやりに行った。剣道部を引退してからも、時々はビリヤードでナインボールを1ゲームか2ゲームだけやって帰ったりしていた。
彼らの通う桜ヶ丘高校は公立高校で、あまり勉強勉強とうるさくない、わりに自由な校風の学校だった。他の高校からは通称、桜ヶ丘温泉とも呼ばれていた。つまり、ぬるま湯の温泉に入っているように気持ちよく、ぼんやりと高校生活を送っていけるという意味なのだが、その分本当に何もしなければ気がつけばどんどん取り残されていってしまうのだ。
そういう校風のせいか、校内はいたって平和で、ハメを外しすぎるような生徒はほとんどいなかった。
この学校に入って、あきらはまともに勉強をしなくなっていたために成績は毎回欠点ぎりぎりで、追試や補習の常連になっていた。逆に野々山ひろしはいつも、特に勉強をしなくてもいい成績を取る生徒だった。
学食での食事を終え、食堂脇の自動販売機の前でカップコーヒーを飲んでいたとき、ひろしが言った。
「おれ、実はさ、中学んときのツレとバンドやってるんやけどさ・・・」
「ほう」
あきらはひろしを見、コーヒーをひと口すすった。手足のひょろっと長い野々山の姿はなんとなくロックっぽいな、とあきらは思った。
「でさ、お前一緒にやらへんか? ロックすきやろ?」
それはあまりにも唐突なことだったので、あきらは一瞬言葉を失った。
「そやけどおれ、ロックは好きやけど、楽器なんかなんもできひんぞ」
「いや、大丈夫やねんて」ひろしは能天気に言った。「ベースギターをやってほしいだけやねん。2,3曲覚えてやってくれるだけでいいねん」
野々山ひろしの話によると、来月のクリスマスイブの前日の夜に、何組かのバンドと一緒に大阪の梅田でライブをするとのことだった。
「1バンド15分から20分くらいやねん。おれ高校生活の最後として、何としても出たいんやけどさ、メンバーがひとり足りひんのや、ベースのメンバーが」
ひろしは言った。
「そやけど、ベースって言うても難しいやろう?」
「大丈夫、大丈夫。小学校でたて笛とか木琴とかやったやろ? あれとおんなじで、練習したらできるんやて」
「でも受験勉強もせなあかんしなあ・・・」
あきらはなんとなく気乗りがしなかった。受験勉強のこともある、それに、ベースギターも弾けるようになるとは到底思えない。そして何よりも、自分が大勢の観客の前でステージの上で演奏するという姿が想像できなかった。
ところがその反面では、ひろしの話に彼の気持ちをくすぐる何か不思議で甘い魅力を感じていることもまた確かだった。
この毒リンゴをはたして口にするべきかどうか・・・
あきらはコーヒーカップをゴミ箱めがけて放り投げた。それはゴミ箱の縁に当たり、跳ね上がり、そして見事にゴミ箱の中に入った。
「よし、わかった。やるわ」
それはほとんど即答に近かった。ひろしの方がかえって目を丸くした。
「え、ほんまか?」
「おお、ほんまや。なんでもできる内にやっとかんとな。後悔せんようにな。受験もあかんかったら浪人したらええことやし」
あきらは晴れ晴れと言った。
「ほんまにええんか? でもおれのせいで大学いかれへんようになったら悪いしなぁ」
「ええねん。実を言うと勉強も最近疲れてきとったし、今回は多分受験もあかん思っとったんや。一浪してがんばるし」
あきらは空を仰ぎ、小春日和の暖かい11月の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「浪人もいい経験になるやろうしさ。今を後悔せんように生きんとな。それに万が一うまいこといったら、どっかの大学には引っかかるかもしれんしな」
天高く、馬肥ゆる秋。空には爽やかないわし雲が、やはり気持ちよさそうに漂っていた。
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