第4話

 それは、何度目かの災いの夜だった。

風が荒れ、川が暴れ、畑が水に飲まれていった。

人々は屋根の下で祈るしかなかった。

火のときと同じように、風もまた、静かにおさまった。

朝になっても誰もその理由を知らなかった。


「……きっと運がよかったんだ。」

「上流で土砂でもせき止めたんだろう。」


村人たちはそう言っていた。

けれど、その夜のあとから、時折こんな声を聞くようになった。


「風の音にまぎれて、羽の音がしたんだ。」

「黒い何かが、空を横切っていた気がする。」


誰も見たとは言わなかった。

でも、確かに“いた気がする”と口にする者は少なくなかった。

それは、はじまりだった。


 


 数日後、村はずれの森で子どもが行方不明になった。

山の神木の近くで遊んでいたらしい。

けれど、発見されたとき、子どもは無傷で綺麗な状態で戻ってきた。

子どもは無事だった。

そして彼はこう言った。


「黒い羽の人が、助けてくれたんだよ!」

「ぼくのこと、ひょいって、抱っこしてくれて――」


誰も最初は信じなかった。

大人たちは顔を見合わせた。


「……黒い羽?」

「まさか、あの“天狗”のことを言ってるのか?」

「でも、助けてくれたって言ってるじゃないか」

「いや、それは子どもの妄想だ。きっと偶然――」


「いや、偶然にしては……助かりすぎている。」


 


 そうしてまた、ひとつ災いが起きた。

今度は疫病だった。

数人の村人が熱に倒れたが、流行にはならず、不思議なほどすぐに収束した。

家々の前に、なぜか朝露を帯びた薬草の束が置かれていた。


「誰が……」

「こんな山奥の薬草、村の者じゃとれんぞ。」


そのとき、誰かがつぶやいた。


「……もしかして、本当に“あの者”が、村を守っているのかもしれん。」


 


 それは、はっきりと目に見えるものではなかった。

けれど、“何かがこちらを見ている”という感覚。

災いのたびにそれは現れ、静かにすべてを元の場所へ戻していく。

黒い羽の影は、風のように村を通り過ぎ、誰の目にも触れないまま、ただ祈るように人々を見守っていた。


人々は、それを“天狗”と呼び続けた。

けれど、もう以前のような怯えた声ではなかった。


「……あれは、妖じゃないのかもしれん。」

「姿は恐ろしゅうとも、悪さをする気配はなかった。」

「……むしろ、あの方は……守ってくれているのでは……?」


そう呟く声が、ぽつりぽつりと増えたそうな。



  山の奥、誰の気配もない森の奥。

黒い影が、じっと村を見下ろしていた。

異形はそこにいた。

羽をたたみ、風の音のように、ただ立ち尽くしていた。

自分がなぜ、災いのたびにあの村に向かうのか――彼自身にも、答えはなかった。

それは「そうするように作られたから」なのかもしれない。

この身に刻まれた“命”に、逆らえないだけなのかもしれない。

けれど、どこかにそれだけではないものがあった。

村の灯りを見下ろすたびに、胸の奥が、わずかに疼いた。

あれは、痛みなのか、焦がれるような渇きなのか。

わからなかった。

何かを求めているような気がする。

でも、それが何なのか――わからない。

名前も、言葉も、持たぬまま。

彼はただ、夜の風にまぎれて祈るように立ち続けていた。

誰にも知られず、何ひとつ与えられぬまま。


それでも、どうしようもなく……

「そこにいたい」と思ってしまう自分が、たしかにいた。しかしすぐに気付かないふりをした。


助けた。

また恐れられた。

それでも、また助けた。

助けた。助けた。助けた――

何がしたいのだろう、と異形は思った。

誰かに命じられたわけでもない。

けれど、災いの気配を感じれば、体は勝手に動いていた。

風を鎮め、火を払い、病を封じる。

ただそれだけを繰り返す。

まるで、それが自分にできる唯一の存在意義であるかのように。

けれど、あの時――

迷子から救った子どもが、笑って言った。


「ありがとう!黒い羽のお兄ちゃん!」


その言葉を聞いたとき。

何かが、胸の奥で、かすかに音を立てた。

名前のないそれは、痛みでもなく、喜びでもなく、ただ


――「初めての何か」だった。


わからない。

でも、確かにそれは“あった”。

助けられた子どもが嬉しそうに笑う顔を、目に焼きつけている自分がいた。

その笑顔が、心に残って離れなかった。

異形には、その理由がわからなかった。

なぜ忘れられないのかも。

ただ、ひとつ思った。


……自分は、あの笑顔が見たかったのだろうか?

それとも、あの言葉が、欲しかったのだろうか?


答えは出ない。

けれど、そんな問いを抱いてしまった自分がいた。

それが何より、確かだった。



 

 ある冬の日のことだった。

山も畑もすっかり白くなり、村が静寂に包まれていた朝。

森の入口に、干し柿がふたつと、小さな木彫りの人形が供えられていた。

人形は不格好だったが、手足が黒く塗られ、どこか“あの者”の姿に似せられていた。


「……これは、あの妖怪に……?」

「礼を伝えようとしたのだろう。」


 誰の仕業かはわからなかったが、村人たちはその意図を悟った。

初めて“こちらから”何かを贈ろうとしたのだ。

ずっと助けられ続けてきた存在へ、初めて向けた感謝だった。

 

その日の夜。

村の少年が、ひとり、山に入っていった。

 

「おれ、ちゃんとお礼を言いたい。」


少年は、かつて迷子から助けられた幼子だった。

冷たい空気を切り裂くように、森を駆け、木々の奥へ進む。

そして、神木の前で立ち止まった。

そこには、確かに“黒い羽の者”がいた。

風もなく、雪も舞わぬ中で、ただそこにいた。

 

「あの!あの時は…ありがとう…!」


少年は、そう言って頭を下げた。

異形は、何も答えなかった。

無言のまま、静かに背を向け、森の奥へと歩き出す。


「また会える……?」


その声に、黒は立ち止まりかけた。

けれど、振り返ることなく、そのまま森へと消えた。


 


 ――数日後。

少年の家の前に、小さな羽根飾りが置かれていた。

それは黒と金の鳥の羽根を編んだもので、冬の朝の光を受けて、金の部分が微かに輝いていた。

ひっそりと、けれど美しく風に揺れていた。


「……これ……!」


少年は、目を丸くし、そっとそれを拾い上げた。

嬉しそうに笑いながら、家の中へ走っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る