第18話
祝福の音が、遠くで鳴っていた。
花びらが舞い、エレーヌが笑う。
目を閉じるだけで、そのぬくもりが、景色が、心に沁みる。
まるで本当に――今も、隣にいるようで。
本当に幸せだった。
眩しいくらいに、温かくて、もう何もいらなかった。
この時間がずっと続くと、あのときは信じて疑わなかった。
だけど……本当は知っている。
彼女はもう、ここにはいない。
この笑顔も、声も、残された記憶の再生でしかない。
それでも、アベルは手を伸ばした。
わかっているのに。
夢だと、幻想だと、とうに気づいていたのに。
伸ばしてしまった。
(もう少し……もう少しだけ……)
――戻らなければならない。
《Ekīsia》を守らなければ。
あの男が、舞台を、団員たちを、蝕んでいくだろう。
それを止められるのは、団長である自分だけだ。
頭ではわかっている。
この幸せに甘えていてはいけない。
これはただの夢。幻想。
……けれど。
(お願いだ、もう少しだけ……)
どれだけ願っても、花びらは風にさらわれるように散っていく。
そのたび、少しずつ光が、音が、世界が剥がれていく。
笑っていたはずのエレーヌの顔も、どこか遠く霞んでいく。
もう戻らなければいけないのに、戻れない。
もう終わったはずなのに、心が、何度もここへ逃げ込もうとする。
風が吹く。音が止む。
舞台が崩れる。
そして、崩れた幻想の向こうから、冷たい現実が顔を覗かせる。
――「ずっとこのまま、ここにいたい」
アベルがその幸福に縋ろうとした、ほんの刹那。
世界が静かに反転する。
パキッ
何かが砕ける音が、空気を裂いた。
それはガラスか、時間か、記憶か。
壊れるべきではなかったはずのものが、音を立てて崩れ落ちた。
「……っふ、あは……あははははははっ!!」
乾いた音に続くのは、喉の奥から漏れる笑い声だった。
高く、低く、ねじれた音が舞台裏に響き渡る。
「やっぱり、期待通りだよ……!いやあ、いい音だった……!」
闇の中から浮かび上がる道化のような姿。
唇の端を吊り上げ、目元は爛々と輝く。
「壊れる瞬間って、ほんっとに美しいよね!……ああ、君、やっぱり面白い!」
その声は、アベルの意識が覚めきらぬ夢の残り香を踏みにじるように、喜びに満ちていた。
まるで誰かの涙を宝石のように拾い集めては、飾って笑う――そんな悪趣味な舞台監督のように。
――目を覚ますと、そこは静かな舞台裏だった。
重ねられた衣装、散らばった羽飾り、仄かに残る舞台化粧の匂い。
ほんの少し前まで誰かがいたはずの気配だけが、まだそこに残っている。
「おはよう。」
ふと視線を横に向けると、エレーヌがいた。
下ろした髪に、白いワンピース。
彼女は静かに微笑み、こちらを見つめている。
不思議と、アベルは何の違和感も抱かなかった。
まるで最初から、そこにいるのが当然であったかのように。
「……ああ、寝ちゃってたのかな。」
アベルは目元を擦り、ゆっくりと身を起こす。
現実感の薄いまま、ただ彼女が傍にいるという事実だけが、やけに鮮明だった。
「やーっと起きた!」
耳に届いたのは、男の声。
舞台袖の陰から現れた“彼”
「団長さん話してる間に寝ちゃうんだもん。」
「…それは申し訳ありませんでした。それで、どのような要件で?」
「もー、忘れちゃったの?団員志望なの!ピエロになりたくて。ね、いいでしょ?楽しそうじゃない?」
アベルは一瞬、言葉に詰まりかけた。
何かが引っかかった。どこかでこの男を……でも、それが何だったか思い出せない。
そんな彼の迷いを、やわらかな声が拭い去る。
「いいと思うわ。……面白くなりそう。」
隣で、エレーヌがそう言った。
アベルは彼女の横顔を見つめる。
その姿は確かに、確かに、そこにあった。
だから、彼は何も疑わない。
死の記憶など、とっくに彼の中から取り除かれていた。
幻想は現実の姿をして、手を引く。
「……うん、確かにそうだね。」
彼はゆっくりと微笑む。
その眼差しはどこまでも優しくて、どこまでも空っぽだった。
アベルは立ち上がり、手を差し出す。
「ようこそ、《Ekīsia》へ。」
その言葉に、男の唇がぐにゃりと歪む。
まるで開幕を告げるベルのように、静かに、愉快に。
「今日は見学だけにしておきましょう。明日から少しずつ練習していきましょう。」
「はいはーい!」
──こうして、《彼》は中へと入り込んだ。
夢の皮をかぶったまま、現実を飲み込むために。
舞台裏の扉が静かに開いた。
「――みんな、紹介します。」
戻ってきたアベルは、前のような柔らかな笑みを浮かべていた。
その隣には、奇妙な雰囲気を纏った男が立っていた。
まるで舞台の幕間からそのまま抜け出してきたかのような、滑稽でどこか不穏な気配を漂わせて。
「彼は、今日からEkīsiaの一員です。案内をお願いしてもよろしいでしょうか。」
「………………え?」
真っ先に声を漏らしたのは古株の団員だった。
普段は冷静な彼女も、この状況には言葉が詰まってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください、団長。その……どういう――」
「大丈夫ですよ。面白くなりそうだから、ね?」
アベルはそう言って、男の肩に手を置いた。
その言葉はいつもの彼と同じ調子のようで、どこか空っぽだった。
周囲には動揺が広がった。
見知らぬ男の登場だけではない。
アベルの様子が、決定的に――おかしい。
「え、でも……その人、何者なんですか?急にそんな入団なんて。」
問いかける団員に、アベルは首を傾げる。
「何者って……彼は、彼ですよ。ね?」
ふと、彼の視線が空間の一点へ向かう。
誰もいない、何もない場所。
「……うん。うん、貴女も気に入ったんだよね。」
誰かに語りかけるように、穏やかに、まるで恋人と目を合わせるような仕草で。
「団長、……そこ、誰も……いませんよ?」
思わず誰かが呟いた。
だがアベルは、空虚の向こう側にいる“何か”に向けて、優しく微笑んでいた。
「……ふふ、そんな顔しなくても。私も同じ気持ちだよ。」
その光景は、静かで、優しくて――けれど、恐ろしかった。
死者に語りかけるような、あるいは夢の続きを見ているかのようなその姿に、団員たちは誰ひとり声をかけられなかった。
ただ一人、男だけがニヤニヤと笑っている。
アベルの肩越しに、まるで全てを見通すように。
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