第11話

その朝、サーカスEkīsiaのテントに、響き渡る叫び声が轟いた。

「団長の衣装がああああああ!!!」

衣装係の若い団員が、まるで火事でも起きたように叫びながら舞台袖を駆け回る。

手には、見覚えのある白いジャケット――だが、見るからに丈が足りず、袖もつんつるてんで、どう見ても“着られるサイズ”ではなかった。


「……どうしました?」


ゆっくり現れたアベルがそのジャケットを見つめ、眉をひそめる。


「洗濯したら、間違えて熱乾燥に……!」

「……これはこれで斬新ですが、舞台には立てませんね。」


団員たちは顔を青くし、衣装係は今にも泣きそう。

そのとき、後ろからパタパタと走ってきたエレーヌが、事態を把握してぴたりと足を止める。


「……なるほど、これは見事に縮んでるね。」


ジャケットを手に取って、袖を引っ張ってみるエレーヌ。だが生地はびくともしない。


「ちょっと!あれ、いつも舞台で着てるやつじゃ……!」

「うん、困ったね。でも、まだ昼前!私も手伝う!」


きっぱりとそう言うと、エレーヌはくるりと振り返って、衣装係に向かって手を叩く。


「じゃあ、緊急制作開始!型紙持ってきて、材料棚の...薄紫の生地と金の裏地、ボタン、それから――金糸もね!」

「え、金糸ですか?」

「ちょっとだけ、仕上げに入れたい刺繍があるの。」


その表情は、不安よりもむしろ楽しげだった。



 仕立て室に駆け込んだエレーヌは、布を広げ、型紙をさっと置く。

手元が止まることはなかった。


「この前、寸法測っておいてよかった……襟元は少し立ち上げて、前より少しだけ光沢のある生地にしてみようかな。こっちのほうが、舞台映えするし……」


衣装係の手もどんどん動いていく。

エレーヌが指示を出しながら縫い進める様子に、団員たちは少しずつ安心した表情を見せはじめる。


「さすがエレーヌさん……」

「裏方の本気だ……」


そして午後、仕上げの時間――。


「……よし、最後に刺繍。ええと、ここに……」


エレーヌは袖の外側、その位置に小さく針を刺した。金糸で描き出されたのは、小さな“星”のモチーフ。

それは、サーカス団の夜を象徴する記号であり、彼女がアベルの舞台を初めて観た夜に、空を見上げて覚えたあの感動のかけらでもあった。

けれどそれを声に出すことはない。ただ、想いを糸に込める。


「完成!」


日が傾きかけたころ、新しい衣装が完成した。

エレーヌはハンガーに掛けたそれを持って、舞台裏へと向かう。楽屋の扉をノックすると、アベルが静かに振り返った。


「間に合ったようだね。」

「うん。着てみて!」


アベルが袖を通す。ぴたりと体に馴染むその衣装は、以前よりどこか華やかで、少しだけ“温かみ”があった。


「うん……よくできてる。」

「でしょ。私もちゃんと役に立ててるんだから。」


そう言って笑ったエレーヌの手元を、アベルがふと見やる。

彼の指が、袖の小さな金の刺繍を、そっとなぞった。


「これは……星、ですか?」

「……うん。あのときの夜空を、ちょっとだけ思い出してほしくて。」


アベルはしばらく何も言わなかったが、やがてふっと小さく笑った。


「ありがとう。……貴女がいると、安心する。」


その言葉に、エレーヌの頬がふわりと紅くなる。

けれど、照れくさそうに視線をそらして言った。


「それ、ちゃんと舞台で魅せてよね。」



 舞台前、開演の準備でざわつく舞台袖に、ひときわ緊張した空気が流れる。

エレーヌが新しく仕立てた衣装の初お披露目。

団員たちは興味津々で、その登場を今か今かと待っていた。

そして――扉が静かに開く。

現れたアベルを見て、ざっと息を呑む音が走った。


「……うわぁ……」

「団長、かっこよ……」

「すごい、まるで王子……!」


ジャケットの薄紫色は柔らかに光を受け、紫がかった桜色の胸元のフリルと金の飾りが、動くたびにさりげなく輝く。

後ろに流れるロングコートは、まるで夜をまとったように静かに揺れ、優雅なシルエットを描いていた。

そして、袖口にきらりと浮かぶ小さな金の星――その意味を知る者はまだいない。

だがそれが、どこか温もりを添えているようだった。


「団長……すっごく似合ってます!」

「衣装係、やり直し大成功だね!」

「いや、今回はエレーヌさんの手柄でしょ!」


団員たちの視線がエレーヌに向かう。

彼女は少し照れたように笑って、そっと呟いた。


「うん、ほんと似合ってる。よかった……」


その横顔を見たアベルが、すぐそばで低く囁く。


「……貴女が作った衣装だから、だよ。」


舞台の幕が開く直前、この舞台のの団長は、かつてないほど穏やかな表情を浮かべていた――。

夜の幕が上がる少し前――《Ekīsia》は、今日も美しい光を放ち始める。



 やがて、照明がすっと落ち、テントの中に静寂が降りる。

それは、夜が訪れる合図――観客たちは息を呑んで、舞台を見つめた。

ゆっくりと、幕が上がる。

最初に響いたのは、ひとつの音。

ガラスの鈴のような、澄んだ音色。

つづいて、星の粒が舞い降りるような光の演出が、天幕から流れ落ちる。

中央に、ひとりの男が立っていた。

アベルだった。

新しい衣装が、光を受けて柔らかく輝く。

その立ち姿は、まるで夜空に降りた星の化身のよう。

ジャケットの薄紫色は春の花のように淡く、金の刺繍が舞台の照明で瞬くたび、観客の瞳を奪ってゆく。


「……すごい……」


袖から見守るエレーヌが、思わず呟く。

アベルはゆっくりと舞台を歩き出す。

指先の動き、視線の流し方、すべてが計算されていて、それでいて自然。

その所作ひとつで、観客の感情がまるで導かれるかのようだった。

衣装は、彼の動きに合わせて生きているように揺れる。

裾が風をはらみ、夜空の帳のように舞い、袖に咲いた小さな星が、観客席の誰にも気づかれぬほどに、けれど確かに光った。

――その瞬間、エレーヌは思う。


(ああ、やっぱり……この人は、“舞台”そのものなんだ)


歓声が上がり、音楽が一段と高まる。

サーカスEkīsiaの夜が、いま、またひとつ鮮やかな夢を咲かせようとしていた。

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