第11章:エピローグ ~セーヌは流れ、星は巡る、未来へのカノン~
サンジェルマン・デ・プレの奇跡から、さらに十数年の歳月が流れた。
世界は、THC理論――調和宇宙の定理――がもたらした恩恵により、かつてないほどの平和と、相互理解の時代を謳歌していた。紛争は減少し、環境問題は改善され、人々の心には、他者への共感と、宇宙への畏敬の念が、深く根付いていた。THCの理念は、教育、芸術、科学技術、そして国際政治に至るまで、あらゆる分野に浸透し、人類の文明を、新たなステージへと導いていたのだ。
ソフィー・ベルナールは、今や、アインシュタインやキュリー夫人と並び称される、21世紀を代表する偉大な知性として、世界中から尊敬を集めていた。
彼女は、アンスティチュ・ド・ラルモニー・コスミックの終身名誉所長として、若き才能たちの育成に情熱を注ぐ傍ら、自身の探求の旅も、決して止めることはなかった。彼女の関心は、THC理論のさらなる深化から、宇宙の起源、生命の謎、そして人間の意識の根源へと、どこまでも広がっていった。
時折、彼女は、パリのセーヌ川のほとりを、一人で散策することがあった。川面を渡る風を感じ、遠くエッフェル塔を眺めながら、彼女は、これまでの人生の軌跡を、静かに振り返るのだった。
エリアーヌ・ド・ヴァロワとの運命的な出会い、THCの暗号を巡るスリリングな冒険、そして、かけがえのない仲間たちとの絆。それら全てが、今の彼女を形作っている、大切な宝物だった。
クロエ・マルタンは、国際的に著名なジャーナリストとして、世界中を飛び回り、社会の不正や矛盾を鋭く告発する一方で、THCがもたらした希望の物語を、多くの人々に伝え続けていた。彼女のペンは、常に弱者の側に立ち、真実の光を求める人々の、力強い味方であり続けた。
ジュリアン・ルメールは、フランス国家警察の長官となり、その卓越した知性と、THCの理念に基づいた人間的な洞察力で、数々の難事件を解決し、社会の安全と秩序を守り抜いた。彼は、かつての冷徹なエリートの仮面を脱ぎ捨て、部下や市民から深く信頼される、温かいリーダーへと成長していた。
そして、エリアーヌ・ド・ヴァロワは、数年前に、南フランスの海辺の家で、静かにその生涯を閉じた。
彼女の最期は、妹イザベルの愛したショパンのノクターンが流れる中、ソフィーや親しい友人たちに見守られながら、穏やかで、そして満ち足りたものだったという。彼女の遺志により、THC理論に関する全ての研究資料と、彼女の個人的なノートは、アンスティチュ・ド・ラルモニー・コスミックに寄贈され、未来の世代へと託されることになった。
ある晴れた秋の日、ソフィーは、ソルボンヌ大学の、かつてエリアーヌが使っていた研究室を訪れた。そこは、今、THC理論を学ぶ若き学生たちのための、特別な資料室として使われていた。壁には、エリアーヌとイザベルの写真、そして、THCの美しい数式が、アートのように飾られている。
ソフィーは、窓辺に置かれた、一台の古いアップライトピアノの前に、静かに腰を下ろした。それは、かつてイザベルが愛用し、そしてエリアーヌが、あの奇跡の夜に「癒しのアルゴリズム」を奏でた、思い出のピアノだった。
ソフィーは、そっと鍵盤に指を置いた。
そして、ゆっくりと、あの「調和の旋律」を、奏で始めた。それは、決して技巧的な演奏ではなかったが、そこには、THCの真実と、そして、エリアーヌとイザベルの魂の響きが、確かに込められていた。
ピアノの音色は、研究室を満たし、窓から差し込む柔らかな秋の日差しと溶け合い、そして、パリの空へと、どこまでも高く、そして美しく、響き渡っていった。
セーヌは流れ、星は巡る。人間の知性の探求もまた、終わりを知らない。しかし、その探求の道のりが、いかに困難で、そして孤独なものであっても、そこには必ず、真理の光と、そして魂の共鳴が、待っているはずだ。ソフィー・ベルナールの物語は、それを、私たちに、静かに、そして力強く、教えてくれている。
彼女の指が奏でる最後の和音が、美しい余韻を残して消えていった時、研究室の扉が、静かに開いた。そこに立っていたのは、目を輝かせた、若い数学の学生たちだった。彼らは、ソフィーのピアノに導かれるように、集まってきたのだ。
「……ベルナール先生……。今の曲……もしかして……」
ソフィーは、穏やかに微笑み、彼らを招き入れた。
「ええ。これは、始まりの歌よ。そして……あなたたちの、未来へのプレリュード」
星影は、時を超えて、新たな世代へと受け継がれていく。調和宇宙の物語は、まだ、始まったばかりなのだから。
【SF短編小説】サンジェルマンの暗号 ~調和宇宙(コズミック・ハーモニー)の失踪~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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