第3章:モンマルトルの星図、赤い蛇(セルパン・ルージュ)の囁き

 エリアーヌ・ド・ヴァロワの研究ノートに残された暗号は、ソフィーの頭の中で、まるで難解なフーガのように、複雑な旋律を奏で続けていた。バッハのゴールドベルク変奏曲のアリア、奇妙な幾何学模様、そしてTHC理論の深遠な数式。


 それらが、一体どのように結びついているのか、まだ皆目見当もつかない。しかし、ソフィーは、その暗号の奥に、エリアーヌの失踪の謎を解く鍵が隠されていることを、直感的に感じていた。


 彼女は、親友のクロエ・マルタンに連絡を取り、協力を仰ぐことにした。クロエのジャーナリストとしての情報収集能力と、パリの裏道まで知り尽くした地理感覚は、この謎解きにおいて、何よりも頼りになるはずだった。


「クロエ、お願いがあるの。エリアーヌ先生のノートの暗号……あれを解くために、あなたの力を貸してほしいの」


 ソフィーの真剣な声に、クロエは、いつものように快活な笑顔で応じた。


「もちろんよ、ソフィー! 面白くなってきたじゃない! 天才数学者の失踪と、謎の暗号……これ以上のスクープネタはないわ! 任せて、このパリの街で、私に見つけられない情報なんてないんだから!」


 二人は、クロエのアパルトマンで作戦会議を開くことにした。クロエの部屋は、モンマルトルの丘の中腹にある、古い屋根裏部屋を改装したもので、窓からは、パリの美しい街並みが一望できた。部屋の中は、世界中から集められた民芸品や、彼女が撮影した写真、そして無数の本や雑誌で埋め尽くされ、まるで探検家の秘密基地のようだった。今日のクロエは、ボーダーのカットソーに、赤いベレー帽、そしてサスペンダー付きのデニムという、ボーイッシュで活動的なスタイルだ。首からは、愛用のアンティークのカメラがぶら下がっている。


「それで、ソフィー、何か手がかりは見つかったの?」


 クロエは、淹れたてのミントティーをソフィーに手渡しながら、興奮した様子で尋ねた。


 ソフィーは、ジュリアン・ルメール警視から見せられた暗号の写真を、クロエに示した。


「……この楽譜の断片……そして、この幾何学模様……。私は、エリアーヌ先生が、何か特定の場所を、示唆しているのではないかと思うの。パリの街の、どこか……音楽や、あるいは星々と関わりの深い場所……」


「音楽と星々……ねえ」


 クロエは、顎に手を当てて、しばらく考え込んでいた。


「……パリには、古い天文台や、音楽家ゆかりの場所がたくさんあるわ。でも、それだけじゃ、範囲が広すぎるわね……。何か、もっと具体的なヒントはないかしら?」


 ソフィーは、改めて暗号の写真を眺めた。そして、ふと、あることに気づいた。幾何学模様の中に、繰り返し現れる、いくつかの特定の角度や比率。それは、まるで、星座の配置や、あるいは古代の建築物の設計図のようにも見えた。


「……この角度……この比率……。もしかしたら、これは、何らかの地図や、星図を示しているのかもしれない……。そして、このゴールドベルク変奏曲のアリアは、その地図を読むための、一種の……キーになっているのかも……」


「星図! それよ、ソフィー!」


 クロエは、ポンと手を叩いた。


「モンマルトルのサクレ・クール寺院の近くに、昔、小さな私設天文台があったのを思い出したわ! 今はもう廃墟になっているけれど、そこには、古い星図や、天文学に関する資料が、まだ残っているかもしれない! エリアーヌ先生が、そんなマニアックな場所を知っていても、不思議じゃないわ!」


 クロエの提案は、大胆だったが、ソフィーの直感にも、何か響くものがあった。


 モンマルトルの丘は、パリで最も高い場所の一つであり、古くから芸術家たちが集い、星空を眺めながら創作活動に励んだ場所としても知られている。エリアーヌのような、孤高の天才が、人知れず、そんな場所に足を運んでいたとしても、不思議ではない。


「……行ってみましょう、クロエ!」


 ソフィーは、決意を込めて言った。


「もしかしたら、そこに、エリアーヌ先生からの、次のメッセージが隠されているかもしれない!」


 二人は、夕暮れ時、モンマルトルの丘へと向かった。サクレ・クール寺院の白いドームが、夕焼け空を背景に、荘厳なシルエットを描いている。観光客で賑わう広場を抜け、石畳の急な坂道を登っていくと、やがて、人気のない、薄暗い路地へと辿り着いた。クロエの記憶を頼りに、二人は、蔦の絡まる古い石塀に囲まれた、一軒の寂れた館を見つけ出した。そこが、かつての私設天文台の跡地らしかった。


 館の扉には、錆びついた南京錠がかかっていたが、クロエは、慣れた手つきでヘアピンを取り出し、いとも簡単にそれを開けてしまった。


「まあ、これくらい、ジャーナリストのよ」


 クロエは、悪戯っぽくウィンクした。


 館の中は、埃っぽく、カビ臭い匂いが立ち込めていた。床には、古い書物や、壊れた観測機器の残骸が散乱し、壁には、蜘蛛の巣が張り巡らされている。しかし、奥の部屋へと進むと、そこには、驚くべきものが残されていた。


 それは、天井いっぱいに描かれた、巨大な星図だった。何百年も前に描かれたものなのだろうか、色彩は褪せ、所々剥落していたが、その壮大さと美しさは、今もなお、見る者を圧倒する力を持っていた。そして、その星図の中央には、エリアーヌの研究ノートに描かれていたものと、全く同じ、奇妙な幾何学模様が、銀色の塗料で描き加えられていたのだ。


「……これだわ……!」


 ソフィーは、息を飲んで、その星図を見上げた。


「エリアーヌ先生は、この場所を知っていた……! そして、この星図に、何かを隠したんだわ……!」


 二人は、懐中電灯の光を頼りに、星図と、エリアーヌの暗号の写真を、必死に見比べた。そして、詩乃は、ついに、ある法則性を見つけ出した。ゴールドベルク変奏曲のアリアの、特定の音符の並びが、星図上の特定の星々を、順番に指し示しているのだ。そして、それらの星々を線で結ぶと、エリアーヌのノートにあった、あの幾何学模様と、完全に一致するのだ!


「……分かったわ、クロエ……!」


 ソフィーは、興奮を抑えきれない様子で言った。


「この幾何学模様は、それ自体が、一つの星座を示しているんだわ! そして、その星座の中心にある星……それが、エリアーヌ先生が、私たちに伝えようとしている、次の場所なのよ!」


 しかし、その「中心の星」は、星図には名前が記されていなかった。ただ、そこには、小さな文字で、一言だけ、謎めいた言葉が書き添えられていた。


「“Le Serpent Rouge”――赤い蛇」


「赤い蛇……?」


 クロエは、眉をひそめた。


「それって、何かの隠語かしら? パリに、そんな名前の場所なんて、聞いたことがないわ……」


 二人は、再び、頭を抱えてしまった。赤い蛇とは、一体何を意味するのだろうか? それは、実在する場所なのか、それとも、何かの比喩なのだろうか?


 その時、ソフィーの脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。それは、数日前、ジュリアン・ルメール警視とカフェで話した時のこと。彼が、エリアーヌのTHC理論を評して、「数学的幻想ファンタジー」と言った、あの言葉。


「……もしかしたら……」


 ソフィーは、呟いた。


「赤い蛇は、現実の場所じゃないのかもしれない……。エリアーヌ先生の、THC理論の中に存在する、何らかの……概念や、構造を、指しているのかもしれない……!」


 モンマルトルの星図は、新たな謎を提示し、ソフィーとクロエを、さらに深い迷宮へと誘おうとしていた。しかし、二人の瞳には、諦めの色はなく、むしろ、この難解なパズルを解き明かそうという、強い決意の光が、星のように輝いていた。赤い蛇の秘密を追って、彼女たちの冒険は、まだ始まったばかりだった。

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