第三節 感想を教えてよ
第三節 感想を教えてよ
学校の廊下を歩いていると、どことなく居心地が悪くて緊張した。
詩乃は週明けに登校した。
久しぶりに袖を通した制服は、ちゃんとクリーニングが成されていて気持ちがいい。通学鞄もテキストの重みで心地よかった。
教室に入って席に着く。
クラスメイトの女の子が「風邪なおった?」と聞いてきて、頬に貼った大きな絆創膏に眉を寄せる。
「どうしたの、顔?」
玲子に殴られて、とは言えなくて。
「階段から落ちたの。熱が出て、ふらふらしてて」
事前に玲子から言われた通りの回答をした。
女の子たちは「気をつけなよ」と心配してくれた。
これが日常――。
求めていた、平和な、綾垣詩乃として生きる日々――。
ちらと柴山蒼司の方へ目を向けた。
彼は詩乃を見ていて、視線がぶつかるなりハッとして顔を背けてしまった。
なにか声を掛けようかと思ったとき、朝礼が始まる鐘が鳴った。
戻って来たのだ。
上海から東京に戻り、玲子にこっぴどく叱られ、自宅を引き払い、玲子にぶん殴られ、セルゲイを殺した顛末を口述して、玲子の「あんたね、わたしも危険にさらされてンの! 責任取って護衛役としてウチで生活しなさい!」と命令された。
今日、学校に来たことも玲子には伝えていない。
いちおう玲子と一緒に住むことになったが、すぐに彼女は拠点を移すつもりだと言っていた。なら、出来るだけ学校に行った方がいい。
もう、行けなくなっちゃうなら……。
柴山蒼司に声を掛けたのは、二時間目が終わった休み時間ことだった。
机に突っ伏して眠っている蒼司の肩を揺すって「起きて、蒼司」と声を掛けた。
突然のことに蒼司は「ふぇっ……」と驚いた様子だったが、詩乃は構わず思いを伝えた。
「たすかった。ありがとう」
「えっ……んえっ? あ、うん――。なんだろう、たいしたことはしてないけど」
詩乃は顔を振った。
上海で彼が送ってくれたメッセージを眼にしなかったら、消えようと思っていた。
あの割れたスマホに日常と結びついたメッセージを送ってくれていたから……また、詩乃は戻ってこれたのだ。
「スマホ、壊れちゃった。あまり連絡取れないけど、心配しないで」
画面が割れたスマホをスカートのポケットから出して、蒼司に見せた。
彼は少し怪訝そうに眉を寄せてから。
「なんか、詩乃って見かけによらずガサツで雑なの……? 画面がバキバキじゃん」
「こういうの、雑に扱っちゃうときがあるから」
そう言って踵を返して、蒼司の元から立ち去ろうとした。
「ま、待って! そこで帰るの、いきなりすぎるよ!」
がたんと椅子を鳴らして蒼司は立ち上がった。
まわりの視線が蒼司と詩乃に集まっている。
蒼司は周囲の視線に身じろぎしながら、意を決して「待って、詩乃!」と改まる。
学生鞄をがさがさやって、なかから取り出したのはラッピングされた焼き菓子だった。
「これ、作ったんだ」
「……なに、これ」
「フィナンシェ。あの、僕って料理部に入っててさ。それで作ったから、その、食べてほしいなって思って」
視線をせわしなく左右させながら、彼はラッピングされた焼き菓子を示してくれた。
昨日は日曜日だから、学校で作ったのではなく自宅で作ったのだろう。
詩乃は初めての出来事に戸惑いながら「もらえるなら、もらう」と受け取った。
まわりの女の子から「うわっ、綾垣さんに渡すために作ったんじゃん」「柴山きっしょ」という声が聞こえた。
そうした周りの声が、どういう意味を持っているのかうまく理解できなかった詩乃は、純粋に「ありがとう」と答えていた。
「おいしいと思うんだ。あの、食べたら、感想を教えてよ」
「えっ、感想……?」
「おいしかったとか、まずかったとか、それぐらいは教えてよ。結構、頑張ったんだから」
蒼司は少し胸を張って「料理ぐらいしか、出来ることなくてさ」と自嘲気味に笑った。
詩乃は「……うん」と頷く。
こういう『とまどい』が、綾垣詩乃の日常には必要なのだ。
五十嵐慧が与えようとしていた世界に、いま、自分はちゃんといる――。白い子羊ではないのだと詩乃は強く実感できた。
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