まかない怪談話
玄葉 興
第1話 応答
ふいに足で椅子を押し下げながら立ち上がる。長時間向き合った成果は、随分歪んだパースと大量の消しかす。蒸し暑さを誤魔化すための網戸からは昼の喧騒を洗い流すような雨音が響いている。夏場で長時間集中していたからか、飲み物はとうに空っぽで、山のように連なる洋服やゴミを蹴り上げながら扉を開けた。
リビングでは誰も見ていないことに気づいていない芸人がこちらを笑かそうと液晶越しにおどけている。
「誰も見てないなら消しなよ」
かすかなため息を吐いてテレビの電源を落とす。部屋を見渡せばすぐ横の和室に布団を敷いてぐっすりと眠っている母が居た。他の家族、今晩の父は大学生でもないのにオールで飲み歩いているらしく、兄は夜勤でバイト。そんな電気泥棒の頬をつねった後、目的を果たして部屋に戻る。
「改めて見ると我ながらひどいな…」
藝大志望と言えどその腕前はまだまだで、この絵が3年後にはどうなっているかは乞うご期待としたい。そんな希望的観測をして、もう一度立ち向かった。空間を支配しているのはカリカリと鉛筆が削れる音と雨音だけ。こんな時間を心地いいと思える自分の感性に酔いながら、そんな風に目を逸らしながら、描き進めていたんだけれど。
「プルルルルルル、プルルルルルル」
空気を察しない非常識な電話音がふいに鳴る。こんな時間に誰が、文句の一つでもと乱暴に携帯を拾い上げた。ただ、ディスプレイには午前2時過ぎを告げる表示だけで着信者の名前は映っていなかった。鬱陶しいと思いながら5ケタのパスワードを解除して、通話履歴を見る。それでも、やっぱり通話をかけた人物はいないようで冷ややかな震えが背筋を走る。でも落ち着いて考えてみれば家のどこかの電話が鳴ったのを勘違いしただけだったのかもしれない、なんて自分を安心させる言葉で不安を押し殺して扉を開ける。コール音はそこで途切れた。テレビは沈黙を保ったまま暗闇を映し、母親は大きないびきをかき始めていた。身近な生活に安らぎを得ながら母親のスマホをそっと開く。ただし、そこにも着信を知らせる文言は無く、薄寒い怯えがゆっくりと足音を立てて近づいてくるのを感じる。
「つねったの謝るから起きてよ〜!!!」
そう言いながら母親をゆすって見たが、起きる気配は無く、私はひっそりと部屋に戻るほかなかった。
絵にのめり込むことが出来ないまま、推しの動画を見る。今だけは食い入るように見ていた推しの笑顔よりも注意を引くものがある………それはさっきの電話。結局なんら正体を掴めない電話はまたいつか鳴るかもしれないという不安を植え付けた。もう夏だからと厚い布団を仕舞い込んだ私を恨めしく思いながら薄いブランケットにくるまる。もう鳴りませんように、もう鳴りませんようにもう「プルルルルルル、プルルルルルル」
もう一度鳴った、それに今度は携帯で動画見てる最中に。
「あぁもうやだ!!!」
ちょっとした叫びを上げた後、コール音は私の家で鳴ってるんじゃなくて、外から聞こえていることにようやく気がついた。怖くて怖くて仕方が無かった私はそこで慌てて網戸を開けてしまった。その途端、コール音は途切れ、降りしきる雨音だけが部屋に染み入った。ゾクリとなにか恐ろしいものを感じて咄嗟に友達へ電話をかけようとする。非常識でごめんと思いながら必死に液晶を叩く。ロック画面最後の数字を打ち切った後、表示された画面は通話中、しかも相手は文字化けしていて読めなかった。
「なに!?何なの!」
駄々をこねる子どものように乱雑にボタンを押し続ける。救いを求めるように、どうにかなってと。
気がつけば、通話を切断できていた。ざぁざぁと降る雨音がこれ以上他の何かに邪魔されることはなかった。
──────
留守番電話は1件です。
「こんばんは。滅三川と申します。唐突で申し訳ございませんがらあなたのお部屋にきっと古銭があると思います。それは今の私にとってとても大切なものでござしまして、よろしければ頂戴することは可能でしょうか。お返事お待ちしております。」
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