第37話『湊の記憶──“前の世界”と、師匠の最期』
鋼と炎の音が止んでいた。
夜の鍛冶場に、炉の赤い光だけが残る。
村上湊は、鏡の魔剣の柄に触れて以来、初めて炉の前から一歩も動けなくなっていた。手のひらには、焼けつくような痺れ。そして胸には、剣が問いかけてきた言葉が何度も反響していた。
「あなたは、誰を想っていますか──」
目を閉じる。闇の奥に、誰かの声がした。
……気づけばそこは、異世界ではなかった。
夕焼けが差し込む古びた木造の工房。日本にいた頃の、懐かしい場所だった。鼻をくすぐる木材の匂いと、油に汚れた作業台の感触。そして──
「湊、お前はまだまだ半人前だ」
しわがれた声。低く、太く、けれど芯のある声。
湊が振り返ると、そこには灰色の髪を一つに束ね、頑固な眼差しでこちらを見据える男がいた。
「師匠……」
夢なのか、幻なのか。それとも、魔剣の魔力が見せている記憶なのか。
だが、その場にいる湊には、何もかもが現実のように思えた。
「お前に“魂を打つ”ってことが分かるか」
師匠──剛造は、鉄の塊を炉に突っ込んだまま、真っ直ぐ湊を見ていた。
「道具ってのはな、“形”だけじゃねぇ。人の“命”の一部を預かってんだ。刃物は手を切るが、命を救うこともある。槌は壊すが、同時に何かを築く。全部、お前の“責任”になるんだ」
「……分かってるつもりでした。でも、今の俺には、答えられないんです」
「何を迷ってる?」
「鏡の剣が……問いかけてくるんです。“お前にとって、打つ理由とは何か”って。……俺は、誰のために、何のために、打ってるのか。分からなくなったんです」
剛造はふっと鼻を鳴らした。
「そんなもん、簡単な話だ」
手元の炭を火箸でいじりながら、ぽつりと言った。
「誰かの笑顔が見たいからでいい。誰かが“助かった”って言ってくれたら、それでいい。“ありがとう”が聞きたい。それだけだ」
湊は息を呑んだ。
「そんなもので……いいんですか」
「そんなものでいい。“想い”がなきゃ、ただの鉄だ」
剛造は言う。寂しそうに、けれど温かく。
「……それに、お前には“続ける理由”があるだろう」
「理由……」
次の瞬間、世界が揺れた。
古い記憶が、湧き上がってくる。
──あの日。
事故だった。工房の老朽化した支柱が崩れ、剛造がその下敷きになった。
湊が必死に手を伸ばし、瓦礫を退かし、血まみれの師匠を抱き上げたとき──
「お前には……もう、教えることはねえ。だがひとつだけ、言わせろ」
血の気が引いた唇が、最後に動いた。
「湊、お前は、俺の“誇り”だ」
──あの言葉だけが、湊の中でずっと灯火のように燃えていた。
だが、湊はその光を、いつしか見失っていたのかもしれない。
魔剣が問いかける。“想い”はどこにある──と。
「……ありがとう、師匠」
そう呟いた瞬間、記憶の中の工房が消えていく。
現実の世界へと、湊は引き戻された。
夜明けの工房。まだ冷えきった鉄床の前に、湊は静かに立ち上がっていた。
汗ばんだ額を拭うこともせず、彼はまっすぐ炉へと歩く。
ふと、作業台の端に、整然と並べられた道具が目に入った。
「……メルゼリア」
すぐに分かった。湊が寝ている間に、彼女が気づかれぬように準備してくれたのだ。
ヤスリ、火箸、鋼材。どれも寸分の狂いもなく並べられていた。
彼女の信頼が、そこにあった。
そして、ふと振り返ると、開け放たれた扉の外に──
「おはよー! 湊ー! ようやく顔色戻ったかって思ったら、またひとりで無理してんじゃないでしょうね!?」
ルフナが大声を張り上げながらやってきた。その後ろには、眠そうな目を擦りながらメルゼリアとクラリスも歩いてくる。
湊は彼女たちに微笑みかけた。
「……ありがとな。全部、受け取った」
「は、はぁ? 何寝ぼけてるの?」
「ちょっと熱とかあるんじゃないの?」メルゼリアが額に手を当てた。
クラリスはただ、黙って近づいてきて、道具のひとつを湊の前に置いた。
「……なら、もう迷うな。お前が打った剣で、私は立ち続ける」
「はい、師匠って呼ばせるまでにしてやりなさいな!」ルフナも豪快に笑う。
湊は深く頷き、そして言った。
「──俺の“打つ理由”は、ここにある。“守りたい顔”がある。それだけで十分だ」
炉に火が入った。
再び、あの音が響き始める。
鋼を叩く音。魂を打つ音。
そしてその音は、まだ眠る鏡の剣へと、静かに届いていた。
──“お前は、誰を想っている?”
問いに、答えるように。
炎が、またひとつ、燃え上がった。
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