雨の日、煙る夜。
歩くよもぎ
第1話 白石琴音1
――雨が降っていた。
しんしんと、淡々と。雨粒が黒く濡れた道路に弾けて音を響かせる。
夜の帳が降りた街は昼間の喧騒とは違う顔を見せる。煌々と輝くコンビニの明かりがアスファルトの路面に滲む頃。一人、慣れた足取りでコンビニへ向かっていた俺の視界の隅に、未だに見慣れない少女の姿が写り込んだ。
白石琴音。確かそんな名前だった気がする。
彼女はいつもはクラスの隅でまるで空気に溶け込むように座っている、無口で目立たない存在だ。特に意識したこともない風景のような存在。
だが、今の彼女は近所の公園のブランコに座り、まるで時間の止まった絵画のように動かない。制服のままだがブラウスは少し乱れ、その小さな肩が震えているのが街灯の薄明かりでも見て取れた。
「……白石?」
声をかけるべきか一瞬迷った。俺は昔から他人の感情の機微には鈍感な方だ。そんな俺でもわかる。今の白石はどこか様子がおかしいと。
だが、だからと言って俺が彼女に関与していいのか。各々の家庭には各々の事情がある。踏み入られたくない領域もあるはずだ。知られてしまうことそのものが問題であることも。
しかし、彼女の震える肩は明らかに「問題」を示唆していた。土砂降りとまでは行かないが、そこそこ雨脚も激しい深夜に立ち尽くす少女。これは流石に傍観できる範疇ではない。そう頭で分析し、俺は傘を傾けて彼女に近づいた。
ざぁぁ……と鳴り響く雨の足音に紛れて、ブランコの軋む音が響く煩い静寂の中、ようやく彼女がゆっくりと顔を上げた。街灯に照らされたその表情は感情がなく、人形のようでいて――その瞳は、まるで幼い子供が迷子になった時のようだった。
「風邪、ひくぞ」
目の前に立ち、傘を白石の上に広げる。代わりに俺も雨に濡れるが、正直どっちでもよかった。濡れようが濡れまいが俺の行動に変化はない。そのまま無言で立ち尽くす。傘の雫が伝って俺の頭に掛かってくるのが鬱陶しい。
何と声を紡ぐべきか。その場しのぎの言葉を絞り出すのは俺の得意分野のはずだったが、どうにも舌に馴染む言葉が出てこなかった。
白石は依然として口を開かない。ただ、ブランコのチェーンを握りしめる力が強くなり、指の関節が白くなっているのが見えた。その足元にはべしょべしょになったビニール袋。中にはコンビニで買ったであろうサンドイッチと牛乳パック。まだ封も開けられていない。
そのビニール袋を見た瞬間、少しだけ昔の、独りだった頃の記憶を思い出した。……まぁ、今も独りであることに変わりはないか。今も昔も、これから先も。多分それは変わらない。
白石にも何か事情があるんだろう。
「……何か、困ってるのか」
二度目の問いかけは、さっきよりも少しだけ、言葉に温度が宿っていた気がする。傷ついている人には優しくする。それができて初めて人は人間になれる。
白石の握りしめていた手がゆっくりと、震えながらビニール袋の方へ伸びた。そしてその中から小さな、折り畳まれた紙切れを取り出した。雨に濡れるのもお構いなしか。
震える手で差し出されたそれを受け取る。開けば、そこには乱れた文字で、簡潔に書かれていた。
『帰りたくない』
……。
その一文は、彼女の無言の感情を察するに十分だったと思う。家が安らぎの場所ではないのだろう。その言葉は、俺の思い出したくもない瘡蓋に指を掛けた。
まさかこうして誰かに見せるためにノートの切れ端に一文を書いて用意していたわけでもないだろう。ということはその一文を直接伝えたくない誰かに、置手紙のような形で使うことを想定していたと考えられる。
家出。というやつか。
「……うち、来る?」
こくり。
彼女は静かに頷いた。
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